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チャンドク ② 『ヒョンとドク1集アルバム』より ”私たちの世界””小僧人形” ”日記” ”本当”

 
 
 
         ”私たちの世界”
 
 チャン・ドク物語①
 
  芸術家で自由な気風の両親を持つチャン・ドク。天才のひらめきはそのせいなのでしょうか、感受性も人一倍強い女の子でした。
 8才の時に両親が離婚。宗教的な思想を持つ父は他人との接触を拒む環境で子供たちと暮らします。チャン・ドクは兄からすべてを教わりました。その後一人の留守番をする寂しさや父の再婚で自殺未遂を図ります。
 
 1973年小学校 6年生になったチャン・ドクは、”誰が誰が上手でしょうか”などで童謡コンテストに1位受賞します。 そしてこの頃から兄から貰ったギターで作曲を本格的に始めました。 当時チャン・ドクはギター、チェロ、ピアノなど多用な楽器を演奏することが出来たのです。他に絵や作文も上手かったといわれています。
 
 
 
 
 
                         ”小僧人形”
 
 1974年中学生になったチャン・ドクは思春期を迎え悩みます。「私はどうして他の人達のように幸せに暮すことができないの?」家出、自殺未遂を図ります。
 2度の自殺未遂に衝撃を受けた母親が、チャン・ドクの音楽的才能をいかして寂しさに打ち勝つように、「カーペンターズ」のように、兄チャン・ヒョンとともに兄妹デュエットを結成させました。
 
 1975年4月14歳(中学校 2年生)になったチャン・ドクは、兄のチャン・ヒョンと米軍主催のパーティー舞台で ”To Be A Child Again”という曲でデビューしました。(”To Be A Child Again”はチャン・ドク作曲の初発表曲)。
 そしてこの舞台でチャン・ヒョン、チャン・ドク兄妹はテレビ局のプロデューサにスカウトされ、1ヶ月後「TBC TV」番組「来て来て」に出演して、チャン・ドク作詞作曲”小僧人形””日記”を歌い、最年少兄と妹デュエット「ヒョンとドク」で一般舞台にデビューしました。 この時からチャン・ドクは天才少女として高い評価を受けるようになりました。
   
 
                         
                       ”日記”
 
 1976年「ヒョンとドク」は、チャン・ドク作詞作曲の3曲入りオムニバスコンピレーションアルバムをリリースました。その年の11月封切られた映画のサントラに、”小僧人形”日記”がつかわれました。
 
 1977年16才のチャン・ドクは映画に主演で出演。母親と一緒に暮らす引越し祝いに参加したフォーク歌手ソン・チャンシクは、”少女と街灯”(チャン・ドクが14歳のときに作曲)を兄のギター演奏とともに歌う彼女に感嘆をして以後、「ソウル歌謡祭」に出場することを積極的に勧めました。
 ソン・チャンシク の積極的な支援で、チャン・ドクは”少女と街灯”を新人歌手チン・ミリョンに与えて、作詞作曲家として第1回 ソウル歌謡祭に出場しました。 作曲家も歌手と一緒に舞台に上がるため、帽子をを目深にかぶったとても可愛い姿でオーケストラを指揮する珍しい光景になりました。
 
 1978年チャン・ドクは映画に主演し、ハイティーンスターとして絶大な人気を得ました。2年連続でソウル歌謡祭に作曲家として出場。チャン・ヒョンが歌った”もっと大きな愛”の作者としても入賞しました。
 「ヒョンとドク」1集アルバムが発売されました。この時期兄チャン・ヒョンは、テレビ番組で知り合ったチョン・インシル(釜山芸能協会支部長と同時に往年の作詞家であったチォン・ボングの娘)と電撃結婚しました。チャン・ドクも兄夫婦と一緒に暮らしました。
 
 
 
 
      ”本当”
 
 
 
  
 
 
 
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