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チャン・ドク③ ソロアルバム1集、2集より ”愛さないで””私を探さないで””秋に出会った少女””愛の夢”

 
               ”愛さない”チャン・ドク2集アルバムより
 
チャン・ドク物語②
 
 1979年18才のチャン・ドクは、「ソウル歌謡祭」 でパク・キョンヒが歌った”愛でした”が伽揶金賞を受賞して、3年連続で入賞します。地球レコードと契約して、ソロデビューアルバム 『初恋』を発表しました。 このアルバムはタイトル曲 ”初恋”をはじめ ”私もそう” ”笑って見て” など新曲 4曲と、ヒョン・とドクの 1集から収録したコンピレーションアルバムです。
 
 1980年「ソウル歌謡祭」でチェ・ピョンゴルの”愛は去っても”」が入賞して、チャン・ドクは作詞/作曲家として 4年連続入賞する記録を立てました。6月にはタイトル曲 ”純情”をはじめ、 ”真実の愛なら””出会うことができない人”など新曲 5曲と、「ヒョンとドク 1集」と初コンピレーションアルバム「初恋」から収録した、アルバム 『純情』を発表します。
 その後母親が住む米国へ渡米し、ナッシュビルのベルモントカレッジ音楽科に入学、大学生活を始めました。 12月ナッシュビル韓国人会が主催するパーティーがあり、家族バンド「リファミリー」と知り合いました。 以後チャン・ドクはバンドメンバーのイ・スンオンと交際をはじめました。
 
 
 
 
 
            ”私を探さないで”チャン・ドク1集アルバムより
 
 1981年20才のチャン・ドクはテネシー州立大学実用音楽科に移り、音楽の基礎 · 理論  · 作曲 · 作曲技法などを専門的に学ぶようになりました。 またナッシュビル作曲家協会に会員として加入。韓人キリスト教放送プログラム「韓国の泉」で MCとしても活動しました。 そして交際していたイ・スンオンと10月に結婚します。
 バンド「リファミリー」の一員として(チャン・ドクは音楽的リーダーの役目をし、ギターとボーカルを担当)、韓国人会の各種行事に参加しました。米国での音楽活動をしながらも、人気絶頂の中渡米したチャン・ドクは、ソウルでの歌手生活を偲びホームシックに陥ってしまいます。
 
 
 
 
 
         ”秋に出会った少女”チャン・ドク1集アルバムより
 
 1983年2年間の結婚生活に終止符を打ち、チャン・ドクは韓国に帰国。11月に徐羅伐(ソラボル)レコードと 3年間 1000万ウォンで専属契約を結び、(長期間空白を持ったスターなので、良い条件では契約ができなかった) タイトル曲”私を探さないでね”をはじめ 、”さようなら””秋に会った少女””あどけないこんにちは”などの曲が収録されたソロアルバム 1集『私を探さないでね』 を発表。5月の放送で3位まで上がりました。久しぶりの新曲発売で結果は良い方向へ向かいましが、テレビ出演には積極的ではありませんでした。
 
 1984年22才のチャン・ドクは作曲家としての活動は旺盛に続きます。姉妹デュエット「国宝姉妹」に ”白痴美”愛しているようですね”を提供し、映画の音楽監督を引き受けます。
 11月にはタイトル曲”愛さない” ”愛の夢””愛と人生”などの曲が収録されたソロアルバム2集を発表しました。 しかし大衆の反応は静かでした。渡米して芸能活動を休止した空白期間は大きく、離婚を経験して大人になったチャン・ドクの芸能界への復帰は難しく、家へ引きこもってしまいます。
 妹のこのような状況にバンドで活動していた兄のチャン・ヒョンは、1985年 4月に蔚山からソウルに上京、「ヒョンとドク」の再結成を提案します。チャン・ヒョンの涙の申し出にチャン・ドクは心から感謝するのでした
 
  
 
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