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「朝鮮戦争論」 ブルース・カミングス著を読んで⑨ 朝鮮戦争Ⅲ

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は38度線を挟み、南進北進の攻防が1年続きました。1951年6月以降停戦に向けて幾度も交渉が行われています。途切れ途切れに休戦交渉が行われる中、アメリカは原爆使用もほのめかし、ダム破壊の北爆も決行しました。戦争を終結させたとされる日本の広島、長崎への原爆投下は何一つ正しい行為とは言えません。朝鮮戦争を終わらせるためには核兵器は安上がりだというアメリカの非人間的な感覚は恐ろしいと思います。
 
 
 
 
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  「第1章 戦争の経緯」から
  
   北進
 
  1945年に定められた38度線は国際的に認められた国境ではなかった。それどころか古代から広く認められてきた統一体である朝鮮国家を、二つに分断するものだった。金日成の南侵攻は朝鮮人が朝鮮を侵略したという矛盾した論理を伴う。
   戦争の正しさについてアメリカは、北朝鮮の侵略に対する問題を国連にもちこんだ。ところがアメリカによる北朝鮮への空爆・侵略を正当化するにあたり、38度線は仮想的な線と呼んだ。北朝鮮が38度線を越すと侵略であるが、アメリカが同じことをすると38度線は仮想的な線なので侵略ではないとされた。
 
 
     中国がすぐそばに
 
   1950年9月から10月にかけてアメリカの情報機関は、中国は戦争に介入しないだろうというおおよその結論にいたっていた。戦争が始まる前、ソ連と中国は分業を行っていた。1950年ソ連は北朝鮮に、中国は北ベトナムにいたのだ。意識的、計画的な分業というより、第2次大戦後にソ連は北朝鮮を占領し、中国が北部ベトナムを占領した結果であった。毛沢東とホー・チ・ミンが延安時代から関係が深かったこともある。
 毛沢東はもしアメリカが北朝鮮を侵略するのなら結果として、北朝鮮の援護に出なければ成らないと考えていた。北朝鮮の高官は中国の軍事援助を要請し、金日成が中国大使と緊急に会合を持ち、人民解放軍の援助を要請した。すでに中国の介入は確実なもので、毛沢東はスターリンに12個師団の派遣を決めたと告げた。しかしソ連は中国がアメリカに対して大規模な攻勢をしかければ、世界戦争を引き起こすことになるかもしれないと恐れた。
 毛沢東は戦争の初期から、もし北朝鮮がつまずけば中国は助ける義務があると決めていた。革命で、抗日戦争で、内戦で多くの朝鮮人が中国のために犠牲となった(満州の抗日運動は90%が朝鮮人だった)。中華人民共和国は過去数十年間にわたって我々の側に立ってくれた朝鮮人民に対する恩義について語っている。10月1日毛沢東は介入を決断する。
 同じ日マッカーサーは軍事作戦地域は、軍事的緊急事態および朝鮮の国境線にのみ限定される。したがっていわゆる38度線は要因とはならないと書き送っている。
 
 10月末中国部隊が攻撃に出て多くのアメリカ兵の血を流した。しかしアメリカ部隊は進軍を再開した。中朝軍はアメリカ兵を北朝鮮内陸部へと誘い込み、補給線を引き延ばして冬を待った。
 戦場では11月23日に感謝祭を迎えたアメリカ兵たちは、伝統的な七面鳥ディナーを堪能していた。だが「雑穀入りの袋1個」を背負い。零下34度のなかで運動靴を履いた何千人もの中国兵に取り囲まれていたのだった。
 1週間も経たないうちにアメリカ軍大7師団は金日成の心臓地域である甲山(カプサン)を確保し、鴨緑江(中国と朝鮮の国境)まで何の抵抗にもあわずに到達した。
 しかし11月27日共産軍は猛攻を開始し、国連軍を圧倒、国連軍は2日もしないうちに全面的な撤退になった。共産軍は平壌を占領し、さらに2週間あまりで北朝鮮から敵部隊を一掃してしまった。大晦日に始まった中朝連合軍の攻撃を前に、ソウルは2度目の陥落寸前となっていた。
 中国軍が北朝鮮領内に侵攻するやいなや、マッカーサーは北朝鮮領内の地域のあらゆる「軍事施設・工場・都市・村」に空爆を命じた。米軍の作戦は満州との国境から開始し南進、途中のあらゆる村を標的にした。恐るべき破壊が進んだ帯状の地域は中国軍を追って広がり、ついに韓国までいたった。
 「ニューヨーク・タイムズ」のパレット記者は「近代戦の冷厳性を示すおぞましい証拠」を目にした。
  ”村や田畑の至るところで、住民たちが米軍のナパーム弾を浴びて殺害されていた。ナパーム弾に襲われたときの姿そのままだった。自転車に乗ろうとしている男、孤児院で遊んでいる50人の少年少女。そして不思議なことに目立った外傷がない女性。その手にはカタログの1ページが握られたままで、ピンク色のガウンの注文番号にクレヨンで印がつけてあった”
 アチソン国務長官はこの種のセンセーショナルな報道を差し止められるよう、検閲当局に対する報告を指示する必要があると考えた。11月30日トルーマン大統領は、アメリカは中国を阻止するためにはいかなる兵器も使う事が出来ると述べて、原爆使用をほのめかした。
 やがて国連軍はソウルを奪還し、1951年の晩春には現在朝鮮の非武装地帯となっているところとほぼ同じ線に沿って戦闘が固定化した。
 共産主義者は陣地を拡大しようとして2回にわたり最後の攻勢をかけたが成功せず、消耗は大きかった。アメリカ空軍は、北朝鮮の食糧生産の75%に水を供給する灌漑用ダムを爆撃した。
 
 
   
 
        停戦
 
 1951年6月23日、ソ連の国連大使は交戦当事者が休戦合意に向けて話し合いを開始する事を提案し、トルーマンはこれに同意した。
 場所は高麗時代の古都開城(ケソン)。交渉は停止期間を何回もはさんで、とぎれとぎれに続き、やがて交渉地は板門店(パンムンジョン)の村に移された。双方の軍事ラインをいかに適切に設定するかをめぐり、はてしのない論争がくりかえされたが、交渉が長引いた主な要因は双方の膨大な捕虜の送還問題であった。
 最も重要なのは、本国送還における本人の選択の自由であって、アメリカが持ち出した問題だった。北朝鮮人捕虜のおよそ三分の一と、それよりも大きな割合の中国人捕虜は、共産主義支配下の本国に戻りたくなかった。
 韓国の捕虜収容所では事実上の戦争が起きていた。親北朝鮮・親韓国・親中国・親台湾と、それぞれのグループが相争い、捕虜たちの奪い合いをしていたのである。
 南北朝鮮双方とも、捕虜を政治的に「転向」させようとした。韓国では何年も収容され、その後解放された捕虜たちは家族のもとに帰る前に、さらに6ヶ月間の「再教育」をうけなければならなかった。
 1953年6月8日捕虜の問題がようやく解決した。本国復帰を拒否する捕虜は3ヶ月間、「送還委員会」の保護の下に置き、その期間を過ぎた時点でなお本国帰還を拒否する場合は釈放することで共産側が合意したのである。
 
 戦闘はもっと早い時期に終らせることができたのだが、朝鮮が全面戦争に発展する恐れがなくなったからには、ソ連もアメリカも戦闘を続けておくことに関心があった。アイゼンハワー政権は朝鮮で核兵器を使えば、通常兵器よりも安上がりだと述べた。ネバダで続いた核実験は北側に対する威嚇の一部であり、休戦協定に調印するほうが得策だよとのメッセージを伝える手段であった。
 1953年7月27日休戦協定が調印された。この協定によって4キロメートルの緩衝地帯が朝鮮半島の真ん中に横たわることになった。この強固に防備された「非武装地帯」は、1953年の休戦協定とともにいまだに朝鮮の平和を保っている。北と南の間には、いかなる和平条約も調印されていないため、朝鮮半島は厳密にいえばいまだに戦争状態にある。
  いくつかの百科事典によれば、3年に及んだこの争いによる死傷者数は400万人を超えるという。そのうち少なくとも200万人は民間人であった。この比率は第2次世界大戦やベトナム戦争よりも高い。
  朝鮮の戦場で命を失ったアメリカ人は3万6940人、9万2134人あまりのアメリカ人が戦闘で負傷し、8176人が数十年たってもまだ行方不明とされた。
  韓国の死傷者数は131万2836人、そのうち死者は41万5004人である。
  国連軍に参加したほかの同盟国は、あわせて1万6532人の犠牲者を出した。このなかには死亡した3094人が含まれる。
  北朝鮮の死傷者は推計で200万人、そのうちおよそ100万人が民間人で52万人が兵士であった。
  また戦闘で命を犠牲にした中国人兵士は推計およそ90万人にのぼる。
 
    心にとどめておかなくてはならない重要な点は、これが内戦であったということだ。真の悲劇は戦争そのものではなかった。朝鮮人の内輪だけの争いであったなら、それは植民地主義や国家分断や外国の介入によって生まれた異常な緊張を、ときほぐしていたかもしれない。
 真の悲劇はこの戦争によって何も解決しなかったことにある。休戦が和平を維持しただけであった。
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑧ 朝鮮戦争Ⅱ

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  ”「朝鮮戦争論」を読んで”を書いているとあまりにも厳しい事実に、気が滅入ってきます。当ブログの韓国音楽を聴いて、慰められています。
 
 
 日本の植民地統治が一因となり、東西冷戦が巻き起こした朝鮮戦争。3年間に及ぶこの戦闘による死傷者数は400万人を超えるといいます。そのうち少なくとも200万人は民間人で、この比率は第2次世界大戦やベトナム戦争よりも高いのです。この戦争に参戦した各国の死傷者数はアメリカ人兵士13万人、国連軍兵士1万6千人、中国人兵士90万人にのぼります。
 朝鮮戦争を知れば知るほど長い歳月に埋もれてしまった歴史を認識するのが辛くなります。第2次大戦の惨禍は今でも繰り返し報道されていますが、アメリカの世界戦略を大きく変えた重要な戦争「朝鮮戦争」は知られてないことが多いと思います。
 
   
 
  「 第1章 戦争の経緯」
 
   朝鮮戦争のいわゆる始まり
 
 朝鮮戦争は1950年6月24日から25日にかけてソウルの西北はずれに位置する甕津半島(オンジン)で始まった。南北2つの軍隊の兵力はほぼ同じ。しかし北のとくに中国内戦から帰還した部隊がもつ豊富な実践経験は南をしのぐものであった。さらに北はソ連製戦車150両、戦闘機70機、軽爆撃機62機を保有していた。
   最初、鉄原(チョルウォン)の南38度線上で朝鮮人民部隊が韓国陸軍第7師団を攻撃し、大損害を出した。韓国軍は敗退し、北の人民軍はソウルに向かって南進を始めた。
 6月26日の正午から夕方にかけて北朝鮮部隊がなだれ込んで、ソウルは危機に陥った。兵士も市民も恐慌状態に陥った。
 6月28日には韓国軍は漢江(ハンガン)にかかる主要な橋を予告なしに爆破し、橋を渡っていた数百人が死亡した。李承晩大統領は木浦(モッポ)行きの列車で南へと避難する。軍の指揮はどこかへ吹き飛び、市民はパニック状態であった。ソウルは兵力およそ3万7000人の北の侵攻部隊によって陥落した。
 南の抵抗が、あっというまにほぼ完全に崩れてしまったことが、アメリカを戦争への大規模な介入へと駆り立てた。アメリカ国務長官アチソンは、朝鮮戦争にアメリカ空・海軍を参戦させる決定した。介入の決定はアチソンが下し、トルーマン大統領が承認した。アチソンの論理は朝鮮の戦略的価値とはまったく関係がなかったが、アメリカの威信と政治経済に大きく関係するものだった。北朝鮮はアメリカの威信に挑んだのだった。
   アメリカ人は自分たちが、実践力の優れた部隊を相手に戦うことになるとは露ほども考えていなかった。それは人種差別の根強いアメリカ社会の白人の間に、あまねく広まっていた人種差別から生まれたものでもあった。
   ボールドウィン記者(ニューヨークタイムス)は”朝鮮でわれわれが戦っているのは野蛮人の軍隊である。訓練をつみ無慈悲で自らの命を顧みず、独自の戦闘技術を身につけた野蛮人なのだ。彼らはナチスの電撃戦にならい、不安と恐怖を呼び起こすあらゆる武器を用いている”。さらにボールドウィンは朝鮮人にとって”命は安い。朝鮮人の背後にはアジアの遊牧民がいる。その眼前には略奪品への期待が広がっている”と論評した。
  モンゴル人、アジア人、ナチス、イナゴ、原始人、遊牧民、盗賊などと、韓国を攻撃した同じ民族の朝鮮人を描写するのに、思いつく限りのたとえを用いた。
  1950年夏、朝鮮人民軍はめざましい勝利をおさめながら南下し、アメリカ軍は屈辱的な敗北を重ねた。かつてドイツと日本を打ち倒した軍隊は、ろくな装備もない急ごしらえの農民軍と侮っていた敵、しかも外国の帝国主義的権力の手先と呼んでいた相手にいつのまにか追い詰められていたのである。
 7月までに前線の兵力は米韓軍9万2000人に対して北の人民軍7万人で、米官軍のほうが上回っていたにもかかわらず、退却が続いた。8月始めに第1海兵師団が投入され、朝鮮人民軍の進撃を食い止めることができた。
   南東部の釜山防衛線でアメリカは9万8000人の兵力を配置した。女性を含む数千人の北のゲリラも盛んな攻撃を展開していた。J・チャーチ准将は朝鮮の戦いは第2次世界大戦のヨーロッパとはまったく違うという結論を下し、ゲリラ戦であるといった。険しい地形で戦われるゲリラ戦であり、山から下りてくるゲリラによって、陣地は常に危険にさらされていた。
 ゲリラをかくまったり支持したりしていると疑われた村は、そのほとんどが焼き払われた。空爆によるものだった。左傾していると思われる町では全住民が強制的に立ち退きを命じられた。順天(スンチョン)では90%の住民が退去させられ、何万人もの住民がいた馬山(マサン)はもぬけの殻になり、イェチョンからはすべての民間人が消えた。大邱(テグ)に住む左翼が大規模な暴動をひそかに計画しているという危機感が広がり、釜山防衛線で苦戦が続く中、大邱の大勢の市民が蜂起する恐れがあるという懸念から立ち退かされた。立ち退かされた大邱の多くの人々が釜山近くの島々に集められ、外にでることを禁じられた。
    8月末朝鮮人民軍は 釜山防衛線で最後の大規模攻撃を開始し、大きな戦果をあげた。釜山は北朝鮮の大攻勢で陥落寸前、アメリカ軍の犠牲者はこの時点で2万人にも達していた。マッカーサーはアメリカ軍の臨戦態勢の師団の大半を朝鮮に投入させた。 北朝鮮の兵力は敵に圧倒的な差をつけられていた。
   マッカーサーは仁川上陸作戦でソウルを陥落させた。北朝鮮は何もできなかった。アメリカ軍は38度線を越えて北進する。アメリカ軍は南と北に軍をふたつに分割し進軍した。
 北朝鮮は同盟国である中国の支援を要請。釜山防衛緯線で戦っていた朝鮮人民軍は山岳地帯から北へと逃れた。ゲリラは韓国の山岳地帯に隠れ、1950年から51年の冬にはアメリカ軍の部隊にとって大きな問題になった。
 金日成は最初から最大の敵はアメリカ軍であったとはいえ、アメリカ地上軍の介入は予期していたものの、これほど大規模なしかも空・海軍まで投入する参戦は予想していなっかった。
 アメリカの世界戦略にとって大した重要性はないようにみえたこの小さな半島に、臨戦態勢を整えたアメリカの歩兵部隊の大部分が地球の反対側から送り込まれることになろうとは誰にもほとんど想像できないことだったのだろう。
 
 
 北朝鮮のソウル侵攻のとき、李承晩大統領は南へ避難しましたがその際に『保導連盟事件』が起きました。詳しくはウイキでhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%B0%8E%E9%80%A3%E7%9B%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 
 
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑦ 朝鮮戦争Ⅰ 北朝鮮へのアメリカによる空爆

「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで一番驚いたことは、アメリカ軍が行った北朝鮮への空爆でした。
 空爆は恐ろしい行為です。爆撃機の下には人間がいます。焼夷弾、ナパーム弾の威力の凄さ。アメリカが行った70年前の日本の各都市への空爆被害を、生き残った語りべの方から聞きましたが生々しくて実に惨いお話でした。火の海に包まれた東京では十万人の犠牲者が出ました。大阪でも、名古屋でも。50年前のベトナム戦争における北爆は世界で報道されて、ベトナムの人の被害を世界中の人々が知ることになりました。
 しかし北朝鮮の各都市を焼き尽くし、満水のダムや貯水池を破壊し尽したアメリカの行為は、全くといっていいほど知られていません。私も初めて知りました。
 
 
 
 
 
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    第6章 最も不公平な結果 空爆
 
 
 ① 1950年夏、アメリカは共産主義を封じ込めるために戦った韓国を助け、韓国はその目的を達した。
 ② 1950~1951年、アメリカは厳しい寒さのなか、北朝鮮に侵攻し共産主義政権を倒そうとして失敗した。
 ③ 1950年6月からアメリカは朝鮮に対して3年間にわたり、民間人の犠牲を考慮することなく、じゅうたん爆撃を加えた。それをほとんどのアメリカ人が知りもせず、覚えてもいない。
 
 アメリカ空軍の推計によれば、北朝鮮における都市破壊の規模はドイツや日本をはるかに上回っている。アメリカは北朝鮮に63万5000トンの爆弾を投下した。(これには3万2557トンのナパーム弾は含まれていない)。第2次世界大戦中、太平洋戦域全体に投下した50万3000トンの爆弾より多いのだ。
 日本ではアメリカの空爆によって60都市が平均で43%破壊されたのに対し、北朝鮮の都市や町は市街地の40~90%が破壊された。
 北朝鮮のへ空爆は1953年7月27日午後10時にようやく終った。
 
平壌 75% 清津 65% 咸興 80% 興南 85% 沙里院 95% 新安州 100%
元山 80% (空爆によって破壊された割合)
 
 北朝鮮の巨大ダムに対するアメリカ軍の攻撃は、収穫間近い25万トン相当の米を台無しにするものだった。1953年5月に徳山・慈山・クォンガの3つのダムが、続いてナムシ・テチョンの2つのダムが攻撃された。
 1953年5月13日、F84戦闘機59機が徳山貯水湖の高いせき止め壁を決壊させると、奔流は9.6キロメートルにわたる鉄道、5つの橋、3キロの幹線道路、1300ヘクタールの水田を破壊した。40キロメートルに及ぶ川谷がえぐりとられ、水は平壌にまで達した。
 アメリカにとってダムへの空爆は、インフラの破壊、住民の水死よりも、稲作をダメにし食料を失わせる心理的効果の面で重要な作戦となった
 
 朝鮮戦争後、アメリカ空軍は自分たちが行った集中爆撃によって、共産主義者は戦争を終結せざるをえなくなったのだと多くの人に信じ込ませた。国連で採択されたジェノサイド条約は1951年に発効されるが、この空爆にはまったく影響を及ぼさなかった。
 確実に言えることは、”悪の共産主義国家ソ連と中国”は韓国を空爆しなかったこと、”自由と人権の民主主義国家アメリカ”は北朝鮮を3年間にわたり空爆し続けたことです。
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑥ 朝鮮戦争前史 Ⅴ 麗水の反乱~38度線上での戦闘

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  麗水の反乱~38度線上での戦闘
 
  済州島の反乱が進行するなかで、はるかに大きな関心を集める出来事が起きた。実際に海外で報道されてもいる。最南部の港町「麗水(ヨス)」で、民衆の蜂起が起き、全羅南道や慶尚南道の(キョンサンナンド)のほかの地域へと広がり、韓国の土台を脅かすように思われた。
 
蜂起の直接的な原因とは、1948年10月19日、済州島への反乱鎮圧の任務を帯びた国軍第14連隊と第6連隊の隊員が、済州島への出動を拒否したことである。反乱鎮圧には若い将校らが協力したが、韓国軍の全部隊にアメリカ人顧問が配備されており、実質的にはアメリカ人が済州島民の反乱を鎮圧した。
 反政府勢力が麗水に続いて本土でも勢力を増強するに伴い、アメリカ人顧問は戦闘地域のあらゆるところにおいて、韓国軍に影のように寄り添い、指示をしていた。
 
 1年前には、時の経過とともに、韓国の反政府勢力の活動は盛んになるかに見えた。しかし1949年秋に大きな鎮圧作戦が始まるとおびただしい数の民衆が犠牲となった。アメリカは李承晩(イ・スンマン)大統領が国内の脅威を鎮圧できるかどうかを、自立性を試すリトマス試験紙と考えた。鎮圧がうまくいけば、アメリカの後押しによる封じ込め政策も成功すると考えた。
 
 北の38度線から遠く離れた全羅道の暴動が激しく、ここがアメリカの防御戦となった。この反乱・暴動について一般的に流布するものは、ソ連の後ろ盾がある北朝鮮が反乱部隊を外部から誘発し、李承晩政権は侵入者と戦っている一方で、アメリカは傍観しているというものだ。
 しかし証拠資料は、ソ連は韓国の反乱勢力に関与していなかったということ、北朝鮮が関係したのは韓国北部の江原道(カンウォンド)の反乱活動であった。
 
これに対し、関与していなかったかにみえるアメリカは、対ゲリラ掃討軍を編成して武器を装備させ、最良の情報資料を与えたうえ、戦闘計画を立て直接指揮したこともあった。
 結局、朝鮮の西南部地域では朝鮮戦争(1950年)以前に、政治的暴力で10万人以上の民衆が命を落とした。調査から外れた他の地域を含めれば犠牲者数は13万から20万人に上ると考えられる。
 
  
 
 
 
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韓国は国内の反乱と北朝鮮の脅威に対応して、急速に国軍を拡大した。1949年夏の終わりに国軍の兵力は10万人になった。夏以前、韓国は38度線を越えて数々の小規模な戦闘を仕掛け、北朝鮮は積極的に応戦している。
 境界線での重要な戦闘は1949年5月4日開城(ケソン)で始まった。以後6ヶ月続く境界線上の戦闘が始まる。
 
 この韓国での内戦は1945年の政治闘争に始まり、続く2年間で人民委員会をめぐる抗争として深刻化し、抗争が頂点に達して1946年秋に大規模な反乱が起き、やがて1948年~50年に南北の境界(38度線)付近における戦闘や、限定戦争へとエスカレートしていったのである。1950年6月の北朝鮮の侵攻はそれ自体がひとつの成就あるいは結末であり、これによって、外国の介入がなければ終結したであろう内戦はあらたな重要段階に達したのである。
 1950年6月25日は転換点であり、アメリカ人にとっては始まりとなった。日曜の朝の突然の出来事であったが、それはトルーマン大統領と、強固な反共主義者アチソン国務長官がそうなるように選択したからである。二人はアメリカがその5年前に設定した38度線を回復すべく、当初は限定戦争で対応しようとした。ところが間もなく、戦争遂行にあたっての制限がまったく見えない状況になってしまうのである。
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑤ 朝鮮戦争前史 Ⅳ 『済州島の反乱』」

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 第5章 分断の38度線 「済州島の反乱」より抜粋
 
  1948年3月1日には済州島で、本土における単独選挙に反対するデモがおき、警察は2500人の青年を逮捕した。それからまもなく、島民がそのうちの一人の遺体を川から引き上げる。拷問の末、命をおとしていた。これが4月3日の済州島での最初の蜂起、その後の反乱の起点となる引き金になった。
  4月3日の蜂起は、ほとんどが北部の海岸沿いで起き、11ヶ所の警察支署が襲撃されたほか、さまざまな事件が起きた。デモは単独選挙を批判し、北との統一を要求した。5月には本土で選挙が進行していたが、島では反乱が西海岸へと拡大する。     その1ヵ月後にはアメリカ軍大佐ブラウンが、朝鮮とアメリカの軍が、4000人を超える島民に尋問を行ったこと、またその結果、済州島民による2個連隊の「人民軍」が4月に結成されていたとの判断を報告している。
 ゲリラの兵力は幹部・隊員合わせて4000人と推定されたが、銃器をもっているのはその10分の1もいなかった。残りが所持していたのは刀や槍、農具だった。いわば急ごしらえの農民軍である。
 取調官はまた、「訓練を受けた先導者やオルグ」で南朝鮮労働党が本土から潜入させた者は6人以下であり、北朝鮮からは一人も潜入していないことを示す証拠をみつけたという。島には500人から700人近い同調者がいて、大半の町や村に細胞を形成していた。国立警察は暴動発生に対する責任をまったく認めず、北朝鮮からきた扇動者になすりつけた。
 ブラウン大佐は、報告書のなかでこのような所見を書いている。”反乱によって、すでにあらゆる行政機能が完全に破壊された状態に達していた。島民は暴力に恐慌をき
たしてはいたものの、拷問を受けても取調官に屈することはなかった。この島では大半の家族が血縁で結ばれているので情報収集が極めて困難だった。”
   アメリカは対ゲリラ活動部隊に連日の指導を行い、反乱の鎮圧に直接関与した。ある新聞は、少なくとも4月下旬に一度アメリカの部隊が済州島の抗争に介入したことを報じた。6月には日本人の将校や兵士が、反乱鎮圧援助のために秘密裏に済州島へ連れ戻されたと朝鮮人記者団が非難している。
 
 
 
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 村人たちは海岸地域へ強制移住させられた。島の大部分を占める火山・山岳地域は封鎖された。山の中腹にある村の半数以上は火を放たれて崩壊した。ゲリラを支援しているとみなされた民間人は虐殺された。死亡者のなかでは民間人がもっとも多かった。ゲリラに殺されたものもいたが、大半は警察や右翼青年の部隊に命を奪われた。村に残された女性や子供や高齢者は、ゲリラの情報をはけといわれて拷問され、その挙句に殺された。
 1948年後半の「駐韓アメリカ軍事顧問団」の文書には、鎮圧命令で「相当数の村が焼かれた」とある。1949年初頭には、島の70%以上の村々が焼かれていた。4月に事態はさらに悪化する。
 
 
 
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済州島は中央部の山の頂上から襲う反乱軍が事実上制圧していた。訓練を受けた150人から600人ほどの中核的な戦闘員が中心となり、おそらく1万5000人近い反乱軍の同調者が島の大部分を支配していた。人口の3分の1およそ10万人が、韓国・米軍によって海岸の村に移住させられ、家も食料も無いものは6万5000人だった。
 1949年の春にはゲリラは事実上、敗北した。”総力をあげてのゲリラ掃討作戦は実質的に終った。秩序は回復され、反乱者と同調者の大半は殺されるか、転向した”とアメリカ大使館のE・ドラムライトは報告している。
 そしてほどなく、再選挙を行って済州島から国会に議員を送る事ができるまでになった。このとき島にやってきて立候補したのは、張沢相(チャン・テクサン)、ソウル首都警察庁長を長年務めた人物であった。1949年8月には、反乱が事実上終ったことは明白となった。反乱の指導者李徳九(イ・ドッキュ)は最終的に殺害された。島に平和が訪れた。しかしそれは政治の墓場における平和であった。
 
 いまや極右の「西北青年会」が済州島を管理するようになっており、”島民に対してきわめて専横かつ残酷にふるまい続けた”と、当時済州島にいたアメリカ人は述べている。
 警察署長がこの組織の一員だったという事実が事態を悪化させた。素行の悪いごろつきたちが警官に転じた。「西北青年会」は大勢が警察に加わったり、この地域の行政に関与するようになる。その大半が裕福になり、事業で特別待遇を受けた。
 軍司令官も副司令官も島外の朝鮮北部の出身だった。統治の体制が日本、アメリ
カ、韓国政府と3回変わっていたという事実にも関わらず、島の資産家・支配階級は再び影響力をふるうようになった。
 
 
 
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  キム・ソンネ博士は、生き延びた島民たちの実情を雄弁に語っている。”家族はブラックリストに乗ることを怖れて、処刑されたものの名前を口にすることも先祖をまつる儀式を行うこともできなかった。一人が共産主義者のレッテルを貼られたら、連座
法によってその一族を全員が危険にさらされた。”
 
 ,抑圧の数十年を経て、機密扱いだったアメリカの資料によると、「済州島反乱」で、1万5000人から2万人が死亡した。韓国政府の公式発表では2万7719人である。しかし、済州島知事はアメリカの情報関係者に対し、6万人が死亡し、4万人が日本へ逃れたと非公式に語っている。
 島民にたいする無慈悲な大規模攻撃で、最近では死亡者8万人との数字を示唆する研究結果もある。島民の5人ないし6人に1人が殺されたといえる。
 
 
 
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 1940年代の末、済州島の住民数はおおく見積もっても30万人であった。このうっとりとするほど美しい島で、自己決定権と社会正義のために立ち上がった地元民に対して無制限の暴力がふるわれた。このことについてアメリカに責任があるという事実を、第2次大戦後の世界が始めて目撃することになった。
 
 
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで④ 朝鮮戦争前史Ⅲ

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 済州島は韓国ドラマにもよくでてくる島です。風光明媚な観光の島として、新婚旅行客、修学旅行団体客、家族旅行客のほか海外からの観光客も大勢います。KBSのドキュメンタリー番組「人間劇場」でも都会から済州島に移り住んだ人たちが、洒落たカフェを経営するなどとっても人気のある島です。済州に住んでいるミュージシャンもいます。
 「チャングムの誓い」(MBC 2003年)では反逆罪で済州島に島流しになったチャングムが、冷たい風が吹きすさぶ島から脱出しようと幾度も試みます。そのシーンは見るのも辛く悲しくさせてしまうものでした。希望のない島で医術を学んだチャングムは宮廷の医女として済州島から旅立ちます。
 韓国ドラマでは済州島の反乱を描くことはありませんが、1970年代を舞台にした「コッチ」(KBS 2000年)でほんの少し、主人公の父親が命からがら済州島から脱出したことに触れていました。済州島から逃がしてくれた命の恩人の女性に最後まで恩義をつくしますが、これから書いていくブルース・カミングスの「朝鮮戦争論」の中の”済州島反乱”によって、いかにこの事件が想像を絶することだったのかが理解できました。
 
 
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第5章 分断の38度線 「済州島の反乱」より抜粋
 
 
 済州島反乱の背景
 
 1945~47年、済州島は本土と比較すればよく平和的に統治されていた。人民委員会(自発的に生まれた住民による草の根の集団)が済州島に出現したのは1945年9月のことで、アメリカ占領下(1945~48年)で存続して、1948年初頭まで済州島の実質的な政治指導は左翼の人民委員会が担っていた。島のことは島民に任せていて、その結果、北との有力な結びつきもなければ、本土の南朝鮮労働党との結びつきもほとんどない、左翼勢力が確立することになった。
  済州島は”人民委員が平和のうちに統治するまさしく共同体的な地域であり、共産主義の影響もあまり受けてない”と、ホッジ中将が1947年10月に語った言葉である。    島の住民の約3分の2が「穏健左派」であり、島民は徹底して自立志向が強かった。本土の住民には好意をもっておらず、自分たちにかかわらないでほしいと考えていた。しかし、済州島は官憲の暴力にさらされてきたと、調査は結論づけている。
 厳しい生活状況の下にあった1948年には済州島で、大規模な農民戦争ともいうべき事件が起きた。
 当時、道知事ユ・ヘジンは極右で、右翼青年団とつながりのある本土出身の人物であった。敵対する政党にたいしては冷酷で独裁的で、李承晩(イ・スンマン)大統領を支持しないものは誰でも無条件に「左翼」とみなした。
柳(ユ)知事は国立警察の済州島の部隊に本土及び北部出身者を採用、この部隊は「極右政党系テロリスト」とともに行動した。食料配給もまた、ユ知事の息のかかったものが直接的に管理していた。1947年には、正式な穀物徴収の5倍にのぼる無認可徴収が行われていた。
 1948年2月にアメリカ軍政当局者がユ知事と面接したとき、ユは済州島民を再教育するために「極右勢力」を利用してきた事を認め、島民の大多数は左翼だと述べている。そして、島の政治には中道がないからと、自分の行為を正当化した。島民が支持するのは左か右のいずれかだというのである。 1948年前半、李承晩主導の分断政権を南に設ける方向でアメリカ人支持者が動きだすと、済州島の人々は強力なゲリラ的蜂起でこれに抗し、まもなく島は分裂する。
 
 
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1948年6月にアメリカ軍政庁所属の判事、ヤン・ウォンイルが行った公式調査には「解放後に組織された済州島人民委員会は、事実上の政府としてその権力を行使している」「警察は民衆を痛めつけてきたために民心を掌握できていない」との認識を示した。
 他方、ソウルの地方検察庁のウォン・テギョンは、”この騒乱は左翼の煽動ではなく役人に能力がないことに起因するものだ”と述べており、また反乱が発生したときに済州島に駐屯していた国防警備隊の連隊長キム・インニョル中佐は、”責任はすべて警察部隊が追うべきである”と言明している。
 
 済州島には左翼を再教育する目的で「西北青年会」という団体の構成員が送りこまれたのであるが、西北青年会が済州島で行っている「広範なテロ活動」、これがなによりも島民の怒りを駆り立てた。この青年たちが、アメリカの指揮の下で警察や国防部隊と一緒になって、済州島のゲリラ鎮圧に加わったのである。朝鮮の報道機関が特別に調査を実施し、1948年6月に以下のような認識を示している。
 「韓国の西北地方出身の青年からなる青年組織が島に到来して以来、住民と本土出身との間で感情面での緊張が高まっている。住民たちは共産主義者に感化されたのかもしれない。だとしても、3万を超える人々が銃や刀をものともせず決起したことをどう理解すべきだろうか。理由もなく行動がおこされることはありえない。」
 西北青年会は「警察以上の治安権を行使し、その残虐な行為は住民の深い恨みを買った」という。以前は機密扱いになっていたアメリカ占領軍の内部報告書はどれも決まって、この一団は「朝鮮南部地方一帯でテロ行為を働くファシスト青年集団」であ
ると説明している。団員の多くは北部からきた難民家族の出身で、青年とは10代から中年のごろつきのことであった。1940年代後半、この団体をはじめ青年団体は、韓国民から憎しみを向けられていた国立警察と手を組んで、次々とおきるストライキや蜂起の鎮圧にあたったのだった。
  記録に残っている暴力行為はあまりに極端で不当なもので、一種の病的な状況を呈していて、分断された朝鮮をめちゃめちゃにした。激しく悪意に満ちた絶え間のない衝突について調べていた筆者(ブルース・カミングス)はある日、フーヴァー研究所図書館で1940年代後半に極右の西北青年会が発行した雑誌に目を通していた。
 
 
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「朝鮮戦争論」ブルースカミングス著 を読んで③ 朝鮮戦争前史Ⅱ

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 韓国ドラマや音楽で知った1970~80年代の軍事独裁政権下での弾圧。それをはるかに上回った民衆への凄まじい弾圧が、1945年8月以降に南朝鮮で行われたことを『朝鮮戦争論』を読み、進めて初めて知りました。それは軍政府、国家警察、右翼団体によるもので、朝鮮の独立国家としての国を模索した人々への弾圧と、さらに思想や運動体と何ら関係のない農民たちへの虐殺でした。
  韓国でタブーとされ、生き残った人や遺族が公言することも叶わず、死者をまともに弔うこともできなかった長い年月。1998年に朝鮮の歴史で初めて民主主義政権が誕生し、金大中(キム・デジュン)大統領から引き続いた盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が、2005年に立ち上げた「真実・和解のための過去史整理委員会」が事件の真相を究明し、次々に真実が明らかになっていきました。
  「1945年8月15日」日本の敗戦で植民地から解放されたときに、朝鮮の人々が皆、希望を抱きました。抑圧のない”自由と公平”な国家を求めて、各地で草の根の集団『人民委員会』ができました。これは朝鮮人による朝鮮人のための社会のありかたを考える人々が、地域で自然発生的に集まったものでした。郡の長老が代表者になったり、代表者を選挙で選んだりと、民主主義の小さな種が生まれていきました。地方の有力者がリーダーの保守的な委員会や、左派の強い委員会など地方によってさまざまでした。とりわけ朝鮮半島南東部、南西部、済州島などでこの動きが顕著でした。
 しかしアメリカによって占領された南朝鮮は、「平和的な占領」政策ではなく、民衆の動きを封じ込める「敵対的占領」政策に飲み込まれてしまったのでした。
 
 
植民地時代から朝鮮戦争までの出来事。『韓国現代史』(文京洙著)より
 
 1910年 日韓併合による植民地時代の始まり
 1913年 3・1独立運動
      上海で大韓民国臨時政府樹立
 1925年 朝鮮共産党創建(~28年)
 1927年 新幹界創立(~31年)光州学生運動に対する日本警察への糾弾
 1939年 国民徴用令(「強制連行」始まる)
 1940年 創始改名実施
 1943年 カイロ宣言
 1945年 ヤルタ会談(2月)ソ連、対日戦布告(8月)
   
   8月 ソ連軍、元山に上陸
   9月 朝鮮人民共和国樹立宣布 金日成、元山に上陸
      米軍大24軍団仁川に上陸 朝鮮共産党再建 米軍政庁設置
  10月 ソ連、民政部設置 朝鮮共産党北朝鮮分局設置
      李承晩帰国 
  11月 全国人民委員会代表者大会(ソウル) 南朝鮮人民党(呂運亭)結成
  12月 南朝鮮で信託統治反対運動始まる(アメリカによる信託統治)
1946年
   2月 北朝鮮臨時人民委員会成立
      民主主義民族戦線「民戦」結成 北と全く関係のない南の左派勢力としての基盤(南朝鮮人民党(呂運亭ら他有力な大衆団体も参加(労働組合、農民組合、民主青年同盟、婦女同盟) 
   3月 米ソ第1次共同委(5月まで)
   6月 李承晩、井邑演説
   7月 第1回左右合作委員会
   8月 北朝鮮労働党結成
   10月 10月人民抗争
   11月 南労働党結成 
       西北青年団(西青)結成
   12月 南朝鮮過度立法議院設置
 1947年
   3月 済州島で3・1節発砲事件
   5月 米ソ第2次共同委(7月決裂)
   7月 呂運亭(南朝鮮人民党)暗殺
   9月 米、国連に朝鮮独立問題提訴
      ソ連、米ソ両軍の朝鮮からの撤退を提案
  11月 国連総会、南北朝鮮総選挙案可決
1948年
   1月 北、国連臨時朝鮮委員会の立ち入り拒否
   4月 北での南北連席会議に金九など参加
      済州島4・3蜂起
   5月 南、単独選挙実施
   8月 大韓民国樹立宣布 韓米軍事安全暫定協定締結
      海州で人民代表者会議
   9月 朝鮮民主主義人民共和国樹立
  10月 麗水・順天事件
  11月 済州島に戒厳令、焦土化作戦本格
  12月 国家保安法公布
 
 1949年
   1月 反民族行為特別調査委員会発足
   4月 韓国、農地改革実施
   6月 済州島、李徳九武装隊司令官戦死 金九暗殺 米軍、軍事顧問団残して撤退 朝鮮労働党結成(南北合同)
   10月 中華人民共和国樹立
 
1950年 
   1月 韓米相互防衛援助協定調印
   2月 中ソ友好同盟相互援助条約調印
   6月 朝鮮戦争勃発
   7月 大田(テジョン)刑務所で政治犯集団虐殺 老斤里事件
   9月 国連軍仁川上陸
  10月  信川虐殺事件 中国人民志願軍参戦
 
 
 
  第5章 分断の38度線から抜粋 
 
   8月9日長崎に原爆が落とされた翌日10日、アメリカ陸軍省のD・ラスクとC・ボンスティールーは、朝鮮を分割する地点を首都ソウルがアメリカ側に含まれるという理由で「 38度線」に決めた。ソ連軍は北緯38度の分断線について、論評もせずに合意文書もなしに黙って受け入れた。
 アメリカは南朝鮮を占領し、3年間に渡って軍政を敷き、戦後の朝鮮史に深い影響を残した.
  朝鮮は日本の侵略の犠牲者であると判断したので、「平和的占領」であるべきだったが、アメリカの占領軍司令部は朝鮮を敵側領土として扱ったばかりでなく、実際に
(とくに南東部のいくつかの道を)敵側領土であると宣言し、朝鮮の政治に介入した。第2次大戦後に生まれた政権で、その誕生にアメリカがこれほどはっきりと「敵対的占領」としてかかわった例はない。
  朝鮮の内戦を引き起こした社会的、政治的な力は、土地所有に関する不平等や一部朝鮮人による抗日運動と、ほかの一部による対日協力、そして膨大な数の一般市民の移動から生まれた。1945年には250万人(朝鮮の全人口10%)が日本にいたが、それに引き換え日本にいた台湾人は3万5000人であった。
 米軍は1945年9月にソウルに上陸後、戦後朝鮮のよき指導者としての「数百人の保守主義者」をみつけた。ほとんどが対日協力者だったが、この集団はのちに韓国の政治を形作ることになる指導者のほとんどが含まれていた。アメリカは大統領に、20数年もアメリカに亡命して対日協力をしていない、愛国的で反共主義者李承晩(イ・スンマン)をすえた。
 大韓民国は1948年8月15日建国され、1948年5月に国連監視下で行われた選挙で李承晩が選出された。これらの選挙は日本の支配化で決められたごく限定的な参政権に対応し、投票は地主や都市納税者に限られていた。村では長老たちが互いに票を投じあい、警官や青年団があらゆる投票所を取り囲んでいた。
  
  日本の敗戦から1年の間にひとつのチャンスが生まれていた。このチャンスが生かされていれば朝鮮は分断されず、2年後の内戦もおこらなかったのかもしれない。
 朝鮮南西部は日本の植民地支配から解放された後に、朝鮮全土で起きたことの縮図
になった。
 全羅南道は1890年代初めに東学(トンガク)の農民戦争が起きた地である。湖南(ホナム)として知られるこの地は、豊かな水田と貿易の(日本人輸出業者の)近代化と植民地統治ととが集中して交わる地域であった。
 全羅南道の呂運亨(ヨ・ウニョン)をリーダーとする人民委員会は、愛国的な反植民地主義を掲げていたが、あらゆる人民委員会は「共産主義者」とくくられてしまっていた。光州地域では選挙で人民委員会の指導部がきまっていたが、選挙では過去10年間に日本のために働いたものに限って失格とされた。しかしアメリカ軍政当局者は光州日本の統治機構を復活させたいと考え、日本人知事を留任させた。
 
 筆者(ブルース・カミングス)は『全羅南道における1946年11月の共産党の蜂起』と題する39ページに及ぶアメリカ軍の報告書を読んだ。この蜂起は10月に大邱(テグ)で始まり農民戦争のパターンをたどり、次々に広がっていった。1年を経過したアメリカの占領による、南東部の地域における人民委員会への抑圧に対して、朝鮮人が強い不満を抱いたために起きた。蜂起は朝鮮半島の最南部の地域で独自に生まれたもので、北朝鮮とも共産主義ともまったく関係はなかった。
 報告書には1946年11月に起きた50件以上の事件が記録されていた。報告書を最後まで読んだものは、自分が深い淵を覗き込んでいることに気付くだろう。そこには全羅南道の無数の農民の死体が積み重なっている。
 しかし遠い昔に起きたこれらの事件は知られざる歴史の一こまとして埋もれてい
る。ただし、事件を目にしたものや命を奪われた者にとっては、歴史の一こまではすまされない出来事であったことには間違いない。
 ひとつの国を占領したアメリカ人が1年後には、朝鮮の民衆に「共産主義者」とか「暴徒」というレッテルを貼り、人々に向け発砲していたとは。アメリカは民衆の弾圧に、植民地時代に日本人の手先となった国家警察の警官や、ならず者を使った。
 1946年10~11月、地方で力を持つ人民委員会との、衝突がついに頂点に達し、アメリカの占領を土台から揺るがす大規模な蜂起が起きた。蜂起は南西部で、とりわけ済州島で大きくひろがり、1948年10月、南西部の港湾都市、麗水(ヨス)を中心に反乱が起こり、民衆の抵抗が瞬く間に広がった。その大半は南における土着の抵抗運動だった。アメリカから軍事顧問を迎えていた韓国軍と国立警察は、1948年から49年にかけて対応に追われた。
 朝鮮に対するアメリカの政策は、1945年から46年にかけて各地で起きた騒乱によって決定づけられた。とりわけ南で力を得た左翼の動きによって、占領軍当局は、冷戦期の封じ込め政策を先取りして突き進むことになった。
 当時の朝鮮南部は、アメリカが「第三世界全域」で採用した政策の特徴となる反共政策が渦巻く小宇宙だった。
 
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朝鮮戦争論を読んで② 朝鮮戦争前史Ⅰ

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『朝鮮戦争論』は膨大な資料(参考文献、原注の紹介だけで24ページにもなる)の研究によって、朝鮮戦争の戦闘の詳しい経緯を語り戦争に至るまでのアメリカ政界の事情や朝鮮半島の政治状況を掘り下げ、戦争の惨禍を描き出し、南北和解への動きを展望する深く濃い内容の歴史書です。
   著書ブルース・カミングスはアメリカの歴史学者。20世紀国際関係史、とくにアメリカと東アジアの関係、また東アジアの政治経済や朝鮮近現代史研究の第一人者として、この分野の研究に大きな影響を与えています。代表的な著作は、『朝鮮戦争の起源1・2』(全2巻・3冊)が明石書店から出版されています。
   専門書である『朝鮮戦争の起源』の一部に刊行後の政治状況の進展を踏まえて加筆し、幅広い層の読者のためにコンパクトにまとめた本が『朝鮮戦争論』です。
 
 
 
  朝鮮の歴史は遥か古代から権力者による圧制の歴史でもあります。民衆は戦闘や、旱魃による飢え、厳しい年貢の取立て、強制労働、日本による植民地支配で苦しんできました。 しかし時代の変遷の中でも、民衆は各地で権力者に対して抵抗の旗を翻してきました。
 
第1章序より抜粋
 
  朝鮮は古い国だ。領土の境界、民族、言語が1000年以上変わっていない、地球上で数少ない国である。
 中国の隣に位置し、文化的には中華帝国から深い影響を受けながら、独自の文化を保持してきた。
   朝鮮の社会構造もまた、何世紀も続いた古いものだった。朝鮮王朝が支配した500年の間、朝鮮人の圧倒的多数は農民で、その大多数はといえば、貴族階級が所有する土地を耕す小作人であった。また、多くが奴隷という、何世代にもわたる世襲の身分にあった。
 特権的地主階級と小作農の大衆から成り、その間に変化の芽がほとんどみられないという、この基本的な構図は20世紀の植民地時代も続いた。
 1910年に統治を始めた日本にとって、地方の地主勢力を介した支配が好都合だったからだ。
 朝鮮の人々は国家分断や動乱や戦争が打ち続く危機のさなかにも、古くからのこうした不平等を解消しようと努めた。
 だが両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級は単に搾取に長けていただけではなく、学者・官僚エリートを輩出して政治を執り行い、統制の才を発揮した。素晴らしい芸術を創り出し、教育に力を注いだ。
 1920年代の比較的解放的な時期に独立朝鮮をいつでも率いることのできる、新進エリートたちが登場したのである。しかしこの動きは世界恐慌や戦争、そして1930年代
に強まる日本の締め付けによっておおかたつぶされてしまう。朝鮮のエリートの多くは対日協力者に転じた。愛国者には武装抵抗のほかには選択肢は残されなかったのだ。

 
第2章 記憶する側から抜粋
 
  朝鮮戦争の始まりは日本軍が中国の東北部を侵略し、満州国という傀儡国家を作り上げた1931~32年であった。1910年から45年までの日本による朝鮮の占領は根深く残り、朝鮮人の感情を揺さぶり続けていた。 
  1930年代初め、ふたつの朝鮮が姿を現し始めた。ひとつは延々と続いた情け容赦のない暴力的闘争から生まれたもの。もうひとつは都市中産階級の出現である。 人々は抗日闘争を呼びかけるよりも、百貨店や映画館・劇場・バー・喫茶店といった楽しい場へと向かった。国民の75%が小作農にとどまり、ソウルの街はごくわずかな中産階級と、急増する労働者階級でにぎわっていた。
 満州の間島(カンド)には50万人の朝鮮人が住んでいた。朝鮮との国境を挟んだこの地域には長く朝鮮人の共同体があり、朝鮮人の多くは日本の抑圧から逃れられると期待して間島に移り住んでいた。
 満州の反日抵抗勢力のなかで朝鮮人は圧倒的多数(90%以上)を占めた。日本軍はやがて大規模なゲリラや秘密組織の抵抗に直面する。日本人は手段を選ばぬゲリラ掃
討作戦のモデルを築き、対日協力朝鮮人は『遊撃対国家の細胞核』を作り上げていった。この細胞核こそが、後にアメリカの力によって日本が敗北するとその混乱のさなかに韓国で政権を握るのである。
 朝鮮において1935年からは日本による耐えがたい圧政が行われた。日本語、日本名への改名、強制的な徴兵(兵士あるいは労働力としての)である。憎悪の対象となった国家警察の構成員の約半数は朝鮮人であり、満州では若い朝鮮人将校たちが日本軍に協力した。親日派の貴族には特別な称号が与えられた。
 李光洙(イ・グァンス)のような初期の偉大な民族主義者や知識人たちは、公然と大日本帝国を支持した。(1990年以前の韓国エリート層の90%は、対日協力者やその家族とつながりがあったという)
 
 
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『朝鮮戦争論』(ブルース・カミングス著)を読んで ①

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透明で美しい世界を描いた韓国ドラマ「冬のソナタ」で韓国に接して11年になりました。俳優・演出・映像・音楽とすべてが心ときめく世界に誘ってくれました。韓国ドラマに夢中になって、今では毎日が韓国音楽を聴きながらの生活です。
 1990年代から現在2015年のドラマの移り変わりは目まぐるしいもので、その中でユン・ソクホ監督、ペ・ヨンジュン主演「冬のソナタ」は特別なドラマでした。
 時代を反映した1998年から2003年金大中政権下までのドラマは、社会正義を描いた傑作が多くあります。改めて韓国の歴史を学び、その背景が理解できました。
 古代朝鮮・高麗や朝鮮王朝・日本の植民地時代・1945年8月15日の植民地解放・朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)、1960~80年代の朴(パク・ジョンヒ)、全(チョン・ドファン)大統領の軍事独裁政権・民主化闘争・IMF危機(1997年)、企業と労働者や環境破壊を描いたドラマなどなど数々の韓国ドラマを見てきました。そして韓国の歴史をドラマ・音楽を通して断片的に知るようになりました。
 歌手の詳しい情報を知るために韓国ブログを検索して調べているうちに、時代背景なども少しですがわかるようになり、実感として韓国を感じられるようになっています。
 朝鮮・韓国を知る下地はできましたので、もっと詳しく朝鮮・韓国を知りたくて2冊の本を読みました。
 
 
  『朝鮮戦争論』”忘れられたジェノサイド”
 
 
  ブルース・カミングス著(明石書店) 2014年
 
 この本はブルース・カミングス著「朝鮮戦争の起源1」「朝鮮戦争の起源2上巻」「朝鮮戦争の起源2下巻」3冊の本をまとめた本で、アメリカ人がアメリカ人のために書いた朝鮮戦争についての本です。
 
 ジェノサイド(虐殺)を含む歴史認識は、非常に重く辛く苦しいことです。
 
 一つの国朝鮮が南北2つの国に分かれてしまった原因は、日本による植民地時代の抑圧に起因します。
 植民地時代、日本は朝鮮王朝から身分の高い両班(ヤンバン)・地主など従来の権力者の協力(親日派と呼ばれます)を得て、統治支配していきます。朝鮮王「高宗」の死を契機に起きた大規模な「3・1独立万歳運動」など、独立運動は満州(中国)やアメリカなど各地に広がり、抗日派は満州では武装闘争に発展していきます。1945年8月15日日本の敗戦による解放後、第2次大戦戦勝国アメリカとソ連が再び朝鮮を占領統治し、38度線によって朝鮮民族は分断されました。韓国の強固な反共国家、北朝鮮の共産主義国家として二分される、悲劇の民族になってしまったのでした。
 さらに南北を分けた38度線は、アメリカ陸軍省のD・ラスクが地図上で線を引き朝鮮を分断する地点として選んだということが、この本を読んで初めて知りました。
 そして朝鮮戦争は、資本主義陣営と共産主義陣営の東西冷戦によって起きた戦争だ
ったということ。戦争による犠牲者の数は300万人とも言われています。
 韓国ドラマを観ると、1945年8月15日は日本植民地からの解放で、人々が喜び、熱く沸いていることがわかります。数百年に及ぶ朝鮮王朝からの解放として、身分制度のない幸せな、次の時代への希望にも繋がっていたのでしょう。しかし朝鮮戦争開始1950年6月まで、約5年のあいだに、民衆の希望は打ち砕かれていきました。
 1945年8月の解放後1週間後に作られた曲です。人々の熱い気持ちが伝わってきます。パク・ヨンホ作詞 「4大門を開けろ」 - 毎日韓国ドラマと映画と音楽でヘンボケヨgooblog
 
 
 (序より抜粋)
 
 知られることの無かった戦争は忘れられ見捨てられていった。朝鮮戦争は植民地支配の歴史のなかに、1931年に日本による侵攻がはじまった満州でまかれた種から生まれた戦争であった。朝鮮の貴族階級の学者・官僚はおおかたが日本に取り込まれるか解雇され、日本の支配エリートと強力な中央政府が置かれた。
 解放後、対日協力者はほとんど制裁をうけていない。アメリカ占領期(1945~1948年)に対日協力者の多くが再雇用されたからであり、こうした人々が共産主義との戦いに必要とされたからでもあった。
 そういうわけで朝鮮の紛争は日本と朝鮮の反目を、つまり1930年代に満州で10年も続いた武力抗争を引き起こした反目を受け継いでいて、その意味でこれは80年来の確
執だといえよう。
 忘れられた戦争についての本であるため、必然的に歴史と記憶も取り上げる。主要なテーマはこの戦争の朝鮮における起源であり、さらに限定的とされたこの戦争で上空から、あるいは地上で行われた恐ろしい残虐行為や、このような歴史を回復しようとする韓国の取り組みをテーマにしたい。
 アメリカ人にまったく知らされていないのは、これがいかにぞっとするほど汚い戦争だったかということだ。その事実は隠されて半世紀のあいだ忘れ去られてしまう。今日でさえ、それについて話すだけでも偏向しバランスを欠いた見方のようにみなされる。しかし、朝鮮戦争のさまざまな側面のなかでも、今日最も十分な裏付けのあるのがこの残虐行為の一面なのである。
 数十年間続いた軍事独裁政権時代には政治的虐殺についてだれもが口を閉ざしていた。民主化された韓国で育った新世代が、これらの虐殺について慎重に念入りな調査を行うなら、それは重要な証拠となる。つまり虐殺はなかったとか、あったとしても上層部の命令は確認できないなどとする政府の声明よりも、はるかに重要な証拠なのだ。
 
 
 
 第1章 戦争の経緯
 第2章 記憶する側
 第3章 忘れ去る側
 第4章 抑圧の文化
 第5章 分断の38度線ー忘れられた占領
 第6章 最も不公平な結果ー空爆
 第7章 記憶の洪水
 第8章 アメリカと冷戦を作り直した「忘れられた戦争」
 第9章 鎮魂ー和解への動きのなかで
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