1950年6月に勃発した朝鮮戦争は38度線を挟み、南進北進の攻防が1年続きました。1951年6月以降停戦に向けて幾度も交渉が行われています。途切れ途切れに休戦交渉が行われる中、アメリカは原爆使用もほのめかし、ダム破壊の北爆も決行しました。戦争を終結させたとされる日本の広島、長崎への原爆投下は何一つ正しい行為とは言えません。朝鮮戦争を終わらせるためには核兵器は安上がりだというアメリカの非人間的な感覚は恐ろしいと思います。
「第1章 戦争の経緯」から
北進
1945年に定められた38度線は国際的に認められた国境ではなかった。それどころか古代から広く認められてきた統一体である朝鮮国家を、二つに分断するものだった。金日成の南侵攻は朝鮮人が朝鮮を侵略したという矛盾した論理を伴う。
戦争の正しさについてアメリカは、北朝鮮の侵略に対する問題を国連にもちこんだ。ところがアメリカによる北朝鮮への空爆・侵略を正当化するにあたり、38度線は仮想的な線と呼んだ。北朝鮮が38度線を越すと侵略であるが、アメリカが同じことをすると38度線は仮想的な線なので侵略ではないとされた。
中国がすぐそばに
1950年9月から10月にかけてアメリカの情報機関は、中国は戦争に介入しないだろうというおおよその結論にいたっていた。戦争が始まる前、ソ連と中国は分業を行っていた。1950年ソ連は北朝鮮に、中国は北ベトナムにいたのだ。意識的、計画的な分業というより、第2次大戦後にソ連は北朝鮮を占領し、中国が北部ベトナムを占領した結果であった。毛沢東とホー・チ・ミンが延安時代から関係が深かったこともある。
毛沢東はもしアメリカが北朝鮮を侵略するのなら結果として、北朝鮮の援護に出なければ成らないと考えていた。北朝鮮の高官は中国の軍事援助を要請し、金日成が中国大使と緊急に会合を持ち、人民解放軍の援助を要請した。すでに中国の介入は確実なもので、毛沢東はスターリンに12個師団の派遣を決めたと告げた。しかしソ連は中国がアメリカに対して大規模な攻勢をしかければ、世界戦争を引き起こすことになるかもしれないと恐れた。
毛沢東は戦争の初期から、もし北朝鮮がつまずけば中国は助ける義務があると決めていた。革命で、抗日戦争で、内戦で多くの朝鮮人が中国のために犠牲となった(満州の抗日運動は90%が朝鮮人だった)。中華人民共和国は過去数十年間にわたって我々の側に立ってくれた朝鮮人民に対する恩義について語っている。10月1日毛沢東は介入を決断する。
同じ日マッカーサーは軍事作戦地域は、軍事的緊急事態および朝鮮の国境線にのみ限定される。したがっていわゆる38度線は要因とはならないと書き送っている。
10月末中国部隊が攻撃に出て多くのアメリカ兵の血を流した。しかしアメリカ部隊は進軍を再開した。中朝軍はアメリカ兵を北朝鮮内陸部へと誘い込み、補給線を引き延ばして冬を待った。
戦場では11月23日に感謝祭を迎えたアメリカ兵たちは、伝統的な七面鳥ディナーを堪能していた。だが「雑穀入りの袋1個」を背負い。零下34度のなかで運動靴を履いた何千人もの中国兵に取り囲まれていたのだった。
1週間も経たないうちにアメリカ軍大7師団は金日成の心臓地域である甲山(カプサン)を確保し、鴨緑江(中国と朝鮮の国境)まで何の抵抗にもあわずに到達した。
しかし11月27日共産軍は猛攻を開始し、国連軍を圧倒、国連軍は2日もしないうちに全面的な撤退になった。共産軍は平壌を占領し、さらに2週間あまりで北朝鮮から敵部隊を一掃してしまった。大晦日に始まった中朝連合軍の攻撃を前に、ソウルは2度目の陥落寸前となっていた。
中国軍が北朝鮮領内に侵攻するやいなや、マッカーサーは北朝鮮領内の地域のあらゆる「軍事施設・工場・都市・村」に空爆を命じた。米軍の作戦は満州との国境から開始し南進、途中のあらゆる村を標的にした。恐るべき破壊が進んだ帯状の地域は中国軍を追って広がり、ついに韓国までいたった。
「ニューヨーク・タイムズ」のパレット記者は「近代戦の冷厳性を示すおぞましい証拠」を目にした。
”村や田畑の至るところで、住民たちが米軍のナパーム弾を浴びて殺害されていた。ナパーム弾に襲われたときの姿そのままだった。自転車に乗ろうとしている男、孤児院で遊んでいる50人の少年少女。そして不思議なことに目立った外傷がない女性。その手にはカタログの1ページが握られたままで、ピンク色のガウンの注文番号にクレヨンで印がつけてあった”
アチソン国務長官はこの種のセンセーショナルな報道を差し止められるよう、検閲当局に対する報告を指示する必要があると考えた。11月30日トルーマン大統領は、アメリカは中国を阻止するためにはいかなる兵器も使う事が出来ると述べて、原爆使用をほのめかした。
やがて国連軍はソウルを奪還し、1951年の晩春には現在朝鮮の非武装地帯となっているところとほぼ同じ線に沿って戦闘が固定化した。
共産主義者は陣地を拡大しようとして2回にわたり最後の攻勢をかけたが成功せず、消耗は大きかった。アメリカ空軍は、北朝鮮の食糧生産の75%に水を供給する灌漑用ダムを爆撃した。
停戦
1951年6月23日、ソ連の国連大使は交戦当事者が休戦合意に向けて話し合いを開始する事を提案し、トルーマンはこれに同意した。
場所は高麗時代の古都開城(ケソン)。交渉は停止期間を何回もはさんで、とぎれとぎれに続き、やがて交渉地は板門店(パンムンジョン)の村に移された。双方の軍事ラインをいかに適切に設定するかをめぐり、はてしのない論争がくりかえされたが、交渉が長引いた主な要因は双方の膨大な捕虜の送還問題であった。
最も重要なのは、本国送還における本人の選択の自由であって、アメリカが持ち出した問題だった。北朝鮮人捕虜のおよそ三分の一と、それよりも大きな割合の中国人捕虜は、共産主義支配下の本国に戻りたくなかった。
韓国の捕虜収容所では事実上の戦争が起きていた。親北朝鮮・親韓国・親中国・親台湾と、それぞれのグループが相争い、捕虜たちの奪い合いをしていたのである。
南北朝鮮双方とも、捕虜を政治的に「転向」させようとした。韓国では何年も収容され、その後解放された捕虜たちは家族のもとに帰る前に、さらに6ヶ月間の「再教育」をうけなければならなかった。
1953年6月8日捕虜の問題がようやく解決した。本国復帰を拒否する捕虜は3ヶ月間、「送還委員会」の保護の下に置き、その期間を過ぎた時点でなお本国帰還を拒否する場合は釈放することで共産側が合意したのである。
戦闘はもっと早い時期に終らせることができたのだが、朝鮮が全面戦争に発展する恐れがなくなったからには、ソ連もアメリカも戦闘を続けておくことに関心があった。アイゼンハワー政権は朝鮮で核兵器を使えば、通常兵器よりも安上がりだと述べた。ネバダで続いた核実験は北側に対する威嚇の一部であり、休戦協定に調印するほうが得策だよとのメッセージを伝える手段であった。
1953年7月27日休戦協定が調印された。この協定によって4キロメートルの緩衝地帯が朝鮮半島の真ん中に横たわることになった。この強固に防備された「非武装地帯」は、1953年の休戦協定とともにいまだに朝鮮の平和を保っている。北と南の間には、いかなる和平条約も調印されていないため、朝鮮半島は厳密にいえばいまだに戦争状態にある。
いくつかの百科事典によれば、3年に及んだこの争いによる死傷者数は400万人を超えるという。そのうち少なくとも200万人は民間人であった。この比率は第2次世界大戦やベトナム戦争よりも高い。
朝鮮の戦場で命を失ったアメリカ人は3万6940人、9万2134人あまりのアメリカ人が戦闘で負傷し、8176人が数十年たってもまだ行方不明とされた。
韓国の死傷者数は131万2836人、そのうち死者は41万5004人である。
国連軍に参加したほかの同盟国は、あわせて1万6532人の犠牲者を出した。このなかには死亡した3094人が含まれる。
北朝鮮の死傷者は推計で200万人、そのうちおよそ100万人が民間人で52万人が兵士であった。
また戦闘で命を犠牲にした中国人兵士は推計およそ90万人にのぼる。
心にとどめておかなくてはならない重要な点は、これが内戦であったということだ。真の悲劇は戦争そのものではなかった。朝鮮人の内輪だけの争いであったなら、それは植民地主義や国家分断や外国の介入によって生まれた異常な緊張を、ときほぐしていたかもしれない。
真の悲劇はこの戦争によって何も解決しなかったことにある。休戦が和平を維持しただけであった。