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韓国の民主主義

 

 右も 

 左も

 

 数十万人の集会。  自由に集会できないどころか、自由に物が言えず歌も禁止されていた長い時代を経て、保守も民主も大集会を開いています。

 

 
 
 
 警察車両はトイレを用意しています。世界に類をみない民主主義の国、韓国。(写真は在日韓国人の映画監督ヤン・ヨンヒさんのツイッターから)
 
 「空腹の人には食事を」「学びたい人には教育を」「病気の人には治療を」という当たり前の国民の権利をドラマのセリフに盛り込む韓国。
 
 
 
 
 
 
 2009年に亡くなったノムヒョン前大統領の言葉が掲げられてる集会風景 ”政治が腐ってるからと背を向けないでください。古い政治を新しい政治に作り変える力は国民の皆さんにあります”(ヤン・ヨンヒさんのツイッターから)
 日本では消費税10%に増税されても国民は抗う手を上げずに大人しく従っています。次の衆院選挙で「消費税は5%に」と野党共闘する動きがありますが、はたして日本国民に古い政治、悪い政治を変える意思があるでしょうか。あるとすればこれまで選挙に行かなかった人、政治を変えることをあきらめて投票をしなかった有権者50%の人が動くということでしょう。そうであれば日本は韓国よりもっと進んだ民主的な国に、暮らしやすい豊かな国に変わります。

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チョ・グクと嫌韓

 連日テレビのワイドショーをにぎわせている韓国現法務部長官チョ・グクは家族の不正入学、投資ファンド疑惑で日本中の誰もが知ることになったイケメン閣僚です。ペ・ヨンジュンの次に有名な韓国人といっても過言ではないでしょう。  

 メディアがヘイトを煽っている今、事実を認めない歴史否定主義にあふれかえった嫌韓報道を肯定的、好意的に受け止めている人は大勢いるでしょうが、韓国を悪く言う報道に胸を痛めている日本人もいます。
 

  韓国は1960~80年代の軍事独裁政権への抵抗の歴史があります。言論や文化が弾圧され逮捕、拷問を受けて今でも、拷問の後遺症に苦しむ人々が大勢います。1980年5月光州市では軍によって市全体が封鎖され多くの市民が犠牲になりました。1948年建国以降、反共国家として言論や集会の自由がない国だった韓国。それを変えたのは、弾圧に苦しむ人々の抵抗の嵐でした。嵐は韓国を大きく変えて1987年6月には国民による大統領直接選挙制度を勝ち取りました。言論も、禁止歌も解禁になりました。1997年12月には初めてキム・デジュン民主政権が誕生しました。現在のムンジェイン政権は民主化3期目の政権と言えます。
 

 日本植民地時代は1939年に国民徴用令(強制連行が始まる)が布かれ、1940年に創始改名が実施(朝鮮名から日本名に変える)など戦時下において強制労働や徴用工、慰安婦としてひどい扱いを受けました。
 

 なかったことにするような歴史の書き換えはできないのです。    

 2007年12月から約9年半保守のイ・ミョンバク、パク・クネ政権に移った時代は、民主化以前の韓国に戻ったかのようでした。左翼政党を認めない、反北朝鮮政策でケソン工業団地も閉鎖に至り、鉄道建設も頓挫、南北統一の夢も泡と消えてしまいました。こんにち、自由に集会ができるのは30~40年前に民主化を求めた当時の人々が身を挺して行動した賜物です。
 

 チョ・グクは1965年生まれの民主化運動世代です。左翼グループに属して逮捕経験はありますが、16歳で最年少のソウル大ロースクールに入学、23歳で大学教授につくなど華々しい経歴の持ち主ですので、挫折感を感じることはなかったかもしれません。今でもカメラの前でうつむくこともなく真っすぐ前を向いて歩いています。11時間もの記者会見、14時間の聴聞会で疑惑に答えました。権力を使った疑惑ではないとはっきりと主張しているのでしょう。家族・親族に関わる疑惑のチョ・グクですが、本人には一点の曇りはないとのことで、今回の法務長官就任を「選挙制度改革案、高位公職者非理捜査処方、検察・警察捜査権調整、諸法案」の実現のために引き受けたということです。  清廉潔白であるはずの進歩派の人間が上流階級であったという現実的すぎるチョ・グク問題。「恵まれた階級で生まれ育ち、また恵まれた階級に属していたために、不平等の問題や富の世襲問題について鈍感だった」と語ったチョ・グク法務部長官はいずれ罷免されるでしょうし、任命責任を問われたムン・ジェイン大統領は窮地に陥ることにもなるかもしれません。   

 階級社会・既得権益に対するNO!をつきつけている韓国の若い世代は、誰もが等しくスタートラインに並び、始めていくことを望んでいます。個人が商店を開いたり、独立して起業することが難しくなる新自由主義が進んだ社会です。政権を変えるだけではなく、非正規雇用をなくすなど社会制度そのものを変えなければ、自由、平等、公正な社会を築くことはできないと思います。  チョ・グクの問題は韓国の階級制度を大きく際立たせました。平等、公正な社会に本当の意味で変革する歴史の1ページかもしれません。
 

 韓国のことだけを報じるメディアですが、足元の日本も問題は山積みです。国民の生活など何も考えずに改憲一筋の安倍新政権。
 戦争で数百万の犠牲者を出した日本です。”もう戦争はこりごり”という人々の、平和の思いを汲んだ日本国憲法です。誇りをもって平和憲法を掲げ、東アジアの隣国と向き合えばよいのだと心から思います。
 

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この国で生きるために、人が生きていける世の中へ

2019参議院選
 
 この国で生きるしかない私たち。だけどこの国は壊されている。主権もない。民主主義もない。真実もない。事実も報道しない。汚職にまみれている。税金は上がる一方。生活は苦しい。学生ローンの奨学金。明日の希望も持てない。悪条件の中で老人が働く。非正規、過酷な労働条件。警官の異常な多さ。忖度、自己責任がまかりとおる。
 
 
 この国で生きるしかない私たち。なら私たちが生きていける社会に変えていかなきゃ。
 私は消費税増税に反対です。
  憲法改悪に反対です。
 緊急事態条項に反対です。
 
 自民、公明、維新の改憲勢力が今回の選挙で3分の2の議席を取ると、憲法が改悪されて緊急事態条項という恐ろしい法律が作られてしまいます。  緊急事態条項とはナチスヒットラーが用いました。非常事態に対処するという口実で一時的に政府に強い権限を与える法的な規定です。首相が緊急事態を宣言すれば、内閣が法律と同じ効力を持つ政令を定めます。  もしこれが決められたら、一人の権力者がすべてを決める、個人の自由の全くない全体主義国家になってしまいます。本当に怖いことです。
 
 大げさに聞こえるかもしれませんが明日の参議員選挙は日本の岐路といえます。なのでそれを防ぐためにも私は改憲勢力以外の政党に投票します。
 
   
 
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政治・経済・社会の過去記事はこちら

政治・経済・社会の過去記事はこちら↓

https://ameblo.jp/karennda-1/theme-10111054972.html

 

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母たちが築いてくれた戦後の日本

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母の日にちなんで
  
     
    母たちが築いてくれた戦後の日本。まだ洗濯機や、炊飯器がなかったころの子育ての苦労。1960年代から日本が高度経済成長を成し遂げて今の日本があります。その根底には不戦の誓い、国民主権、国民の福利、国民の安全と生存を謳った憲法があったからだと思います。鈴木善幸政権(1983年)までは、日本人の暮らしと生活を考える国民政党だった自民党も、中曽根政権以降はアメリカ・大企業重視の新自由主義政党になってしまいました。
 
 
 戦後の日本を復興させた高齢者が安心して暮らせない世の中。国民年金は40年払って6~7万円しかもらえません。資産家・公務員・大企業のサラリーマンとそうでない人たちの差がどんどん大きくなっています。中間層の減少によって、消費支出・賃金も減少、将来に希望のもてない非正規雇用もどんどん増えています。
 
 夜遅く車を運転していると、道路工事で旗を振って交通整理をしている人を見かけますが、皆60~70代の人ばかりです。零度にもなる真冬の深夜に、工事現場で老人が働かなければ食べていけないのです。マスコミは歳をとっても働けるのは幸せだと人々を騙しています。日本国民の福利厚生はいったいどこへ?。
 安倍政権になってから、介護の国家負担は軽減され、介護士は低賃金で離職、介護施設も閉鎖されています。貧弱な国の政策のために、30~40代の働き盛りの人たちが親の介護のために仕事を辞めることも起きています。
 介護や福祉とは反対に、軍事費は表面の数字以上に増え、防衛省の借金は5年で1.5倍になっています。10年のローンで兵器を大量に買い、アメリカからの武器輸入が急増しています。つまり国が借金(将来の国民負担)をして兵器を買っているのです。
 消費税は増税、社会保障費の支払いも増加。大企業は法人勢減税、国からの多額の研究費補助、輸出企業の消費税の払い戻しによる還付など税制の特権によって税金が減額されています。1兆円も利益のあるトヨタ自動車の支払う税金の少なさには驚いてしまいます。
 
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金大中追慕曲 シン・ヒョンウォン ”あなたは私たちです”

 
 
 
  金大中の白黒画像は重いのですが、故人の過酷な歴史がうかがえる画像です。金大中事件ウィキよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
 8月18日は故金大中(キム・デジュン)元大統領の6回忌でした。2009年に亡くなった時に、韓国の有名な詩人コウンが金大中に捧げた詩に、女性歌手シン・ヒョンウォンが曲をつけて金大中の追慕曲として公開した歌です。
 金大中元大統領の6周忌追悼式には慶熙大学の教授であるシン・ヒョンウォンとポストモダン音楽学科の学生が歌う”あなたは私たちです”が追悼式場を包み込みました。
 金大中は1998年に韓国・朝鮮で始めて誕生した民主主義大統領です。自由・民主主義と、民族統一の一歩、南北和解へ向けた太陽政策。今年は特に日本植民地からの解放70周年を迎えます。
 今現在、韓国と北朝鮮は一触即発の緊張状況にあって、金大中が架けた南北の架け橋が崩れようとしています。事が起きてしまえば犠牲になるのはいつでも一般市民です。誰が戦争を望むのでしょうか。ソウルが火の海になってもよいのでしょうか。冷静に冷静に時間をかけて話し合いをして、打開策を見つけ出すことが、今一番大切なことだと思います。
 
    
    あなたは私たちです

  
あなたは民主主義です
 闇の日々
 吹きまくる吹雪に耐えて咲き始める意志です
 何度も死の境界線にいて
 何度もその境界線を過ぎて
 また起きあがる 命の勝利です
 ああ あなたは私たちの自由です 私たちです

 あなたは民族統一です
 憎しみの歳月
 互いに向けた銃口を収めて歌う歌です
 その誰も阻むことができないこと
 その誰も願ってやまないもの
 いやおうなしに迫ってくる一つの山河です
 ああ あなたは私たちの平和です 私たちです

 あなたはもう世界です
 人里離れた島の赤ちゃんが
 育って同胞のリーダーに
 同胞の教師です
 あなたの苦難
 あなたの長年の夢地域の津津浦浦流れて
 あなたの名前は世界の名前です
 ああ あなたは私たちの明日です 私たちです

 もう行ってください
 長くて長い敍事詩 置いて行ってください
 
 
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「朝鮮戦争論」 ブルース・カミングス著を読んで⑨ 朝鮮戦争Ⅲ

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は38度線を挟み、南進北進の攻防が1年続きました。1951年6月以降停戦に向けて幾度も交渉が行われています。途切れ途切れに休戦交渉が行われる中、アメリカは原爆使用もほのめかし、ダム破壊の北爆も決行しました。戦争を終結させたとされる日本の広島、長崎への原爆投下は何一つ正しい行為とは言えません。朝鮮戦争を終わらせるためには核兵器は安上がりだというアメリカの非人間的な感覚は恐ろしいと思います。
 
 
 
 
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  「第1章 戦争の経緯」から
  
   北進
 
  1945年に定められた38度線は国際的に認められた国境ではなかった。それどころか古代から広く認められてきた統一体である朝鮮国家を、二つに分断するものだった。金日成の南侵攻は朝鮮人が朝鮮を侵略したという矛盾した論理を伴う。
   戦争の正しさについてアメリカは、北朝鮮の侵略に対する問題を国連にもちこんだ。ところがアメリカによる北朝鮮への空爆・侵略を正当化するにあたり、38度線は仮想的な線と呼んだ。北朝鮮が38度線を越すと侵略であるが、アメリカが同じことをすると38度線は仮想的な線なので侵略ではないとされた。
 
 
     中国がすぐそばに
 
   1950年9月から10月にかけてアメリカの情報機関は、中国は戦争に介入しないだろうというおおよその結論にいたっていた。戦争が始まる前、ソ連と中国は分業を行っていた。1950年ソ連は北朝鮮に、中国は北ベトナムにいたのだ。意識的、計画的な分業というより、第2次大戦後にソ連は北朝鮮を占領し、中国が北部ベトナムを占領した結果であった。毛沢東とホー・チ・ミンが延安時代から関係が深かったこともある。
 毛沢東はもしアメリカが北朝鮮を侵略するのなら結果として、北朝鮮の援護に出なければ成らないと考えていた。北朝鮮の高官は中国の軍事援助を要請し、金日成が中国大使と緊急に会合を持ち、人民解放軍の援助を要請した。すでに中国の介入は確実なもので、毛沢東はスターリンに12個師団の派遣を決めたと告げた。しかしソ連は中国がアメリカに対して大規模な攻勢をしかければ、世界戦争を引き起こすことになるかもしれないと恐れた。
 毛沢東は戦争の初期から、もし北朝鮮がつまずけば中国は助ける義務があると決めていた。革命で、抗日戦争で、内戦で多くの朝鮮人が中国のために犠牲となった(満州の抗日運動は90%が朝鮮人だった)。中華人民共和国は過去数十年間にわたって我々の側に立ってくれた朝鮮人民に対する恩義について語っている。10月1日毛沢東は介入を決断する。
 同じ日マッカーサーは軍事作戦地域は、軍事的緊急事態および朝鮮の国境線にのみ限定される。したがっていわゆる38度線は要因とはならないと書き送っている。
 
 10月末中国部隊が攻撃に出て多くのアメリカ兵の血を流した。しかしアメリカ部隊は進軍を再開した。中朝軍はアメリカ兵を北朝鮮内陸部へと誘い込み、補給線を引き延ばして冬を待った。
 戦場では11月23日に感謝祭を迎えたアメリカ兵たちは、伝統的な七面鳥ディナーを堪能していた。だが「雑穀入りの袋1個」を背負い。零下34度のなかで運動靴を履いた何千人もの中国兵に取り囲まれていたのだった。
 1週間も経たないうちにアメリカ軍大7師団は金日成の心臓地域である甲山(カプサン)を確保し、鴨緑江(中国と朝鮮の国境)まで何の抵抗にもあわずに到達した。
 しかし11月27日共産軍は猛攻を開始し、国連軍を圧倒、国連軍は2日もしないうちに全面的な撤退になった。共産軍は平壌を占領し、さらに2週間あまりで北朝鮮から敵部隊を一掃してしまった。大晦日に始まった中朝連合軍の攻撃を前に、ソウルは2度目の陥落寸前となっていた。
 中国軍が北朝鮮領内に侵攻するやいなや、マッカーサーは北朝鮮領内の地域のあらゆる「軍事施設・工場・都市・村」に空爆を命じた。米軍の作戦は満州との国境から開始し南進、途中のあらゆる村を標的にした。恐るべき破壊が進んだ帯状の地域は中国軍を追って広がり、ついに韓国までいたった。
 「ニューヨーク・タイムズ」のパレット記者は「近代戦の冷厳性を示すおぞましい証拠」を目にした。
  ”村や田畑の至るところで、住民たちが米軍のナパーム弾を浴びて殺害されていた。ナパーム弾に襲われたときの姿そのままだった。自転車に乗ろうとしている男、孤児院で遊んでいる50人の少年少女。そして不思議なことに目立った外傷がない女性。その手にはカタログの1ページが握られたままで、ピンク色のガウンの注文番号にクレヨンで印がつけてあった”
 アチソン国務長官はこの種のセンセーショナルな報道を差し止められるよう、検閲当局に対する報告を指示する必要があると考えた。11月30日トルーマン大統領は、アメリカは中国を阻止するためにはいかなる兵器も使う事が出来ると述べて、原爆使用をほのめかした。
 やがて国連軍はソウルを奪還し、1951年の晩春には現在朝鮮の非武装地帯となっているところとほぼ同じ線に沿って戦闘が固定化した。
 共産主義者は陣地を拡大しようとして2回にわたり最後の攻勢をかけたが成功せず、消耗は大きかった。アメリカ空軍は、北朝鮮の食糧生産の75%に水を供給する灌漑用ダムを爆撃した。
 
 
   
 
        停戦
 
 1951年6月23日、ソ連の国連大使は交戦当事者が休戦合意に向けて話し合いを開始する事を提案し、トルーマンはこれに同意した。
 場所は高麗時代の古都開城(ケソン)。交渉は停止期間を何回もはさんで、とぎれとぎれに続き、やがて交渉地は板門店(パンムンジョン)の村に移された。双方の軍事ラインをいかに適切に設定するかをめぐり、はてしのない論争がくりかえされたが、交渉が長引いた主な要因は双方の膨大な捕虜の送還問題であった。
 最も重要なのは、本国送還における本人の選択の自由であって、アメリカが持ち出した問題だった。北朝鮮人捕虜のおよそ三分の一と、それよりも大きな割合の中国人捕虜は、共産主義支配下の本国に戻りたくなかった。
 韓国の捕虜収容所では事実上の戦争が起きていた。親北朝鮮・親韓国・親中国・親台湾と、それぞれのグループが相争い、捕虜たちの奪い合いをしていたのである。
 南北朝鮮双方とも、捕虜を政治的に「転向」させようとした。韓国では何年も収容され、その後解放された捕虜たちは家族のもとに帰る前に、さらに6ヶ月間の「再教育」をうけなければならなかった。
 1953年6月8日捕虜の問題がようやく解決した。本国復帰を拒否する捕虜は3ヶ月間、「送還委員会」の保護の下に置き、その期間を過ぎた時点でなお本国帰還を拒否する場合は釈放することで共産側が合意したのである。
 
 戦闘はもっと早い時期に終らせることができたのだが、朝鮮が全面戦争に発展する恐れがなくなったからには、ソ連もアメリカも戦闘を続けておくことに関心があった。アイゼンハワー政権は朝鮮で核兵器を使えば、通常兵器よりも安上がりだと述べた。ネバダで続いた核実験は北側に対する威嚇の一部であり、休戦協定に調印するほうが得策だよとのメッセージを伝える手段であった。
 1953年7月27日休戦協定が調印された。この協定によって4キロメートルの緩衝地帯が朝鮮半島の真ん中に横たわることになった。この強固に防備された「非武装地帯」は、1953年の休戦協定とともにいまだに朝鮮の平和を保っている。北と南の間には、いかなる和平条約も調印されていないため、朝鮮半島は厳密にいえばいまだに戦争状態にある。
  いくつかの百科事典によれば、3年に及んだこの争いによる死傷者数は400万人を超えるという。そのうち少なくとも200万人は民間人であった。この比率は第2次世界大戦やベトナム戦争よりも高い。
  朝鮮の戦場で命を失ったアメリカ人は3万6940人、9万2134人あまりのアメリカ人が戦闘で負傷し、8176人が数十年たってもまだ行方不明とされた。
  韓国の死傷者数は131万2836人、そのうち死者は41万5004人である。
  国連軍に参加したほかの同盟国は、あわせて1万6532人の犠牲者を出した。このなかには死亡した3094人が含まれる。
  北朝鮮の死傷者は推計で200万人、そのうちおよそ100万人が民間人で52万人が兵士であった。
  また戦闘で命を犠牲にした中国人兵士は推計およそ90万人にのぼる。
 
    心にとどめておかなくてはならない重要な点は、これが内戦であったということだ。真の悲劇は戦争そのものではなかった。朝鮮人の内輪だけの争いであったなら、それは植民地主義や国家分断や外国の介入によって生まれた異常な緊張を、ときほぐしていたかもしれない。
 真の悲劇はこの戦争によって何も解決しなかったことにある。休戦が和平を維持しただけであった。
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑧ 朝鮮戦争Ⅱ

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  ”「朝鮮戦争論」を読んで”を書いているとあまりにも厳しい事実に、気が滅入ってきます。当ブログの韓国音楽を聴いて、慰められています。
 
 
 日本の植民地統治が一因となり、東西冷戦が巻き起こした朝鮮戦争。3年間に及ぶこの戦闘による死傷者数は400万人を超えるといいます。そのうち少なくとも200万人は民間人で、この比率は第2次世界大戦やベトナム戦争よりも高いのです。この戦争に参戦した各国の死傷者数はアメリカ人兵士13万人、国連軍兵士1万6千人、中国人兵士90万人にのぼります。
 朝鮮戦争を知れば知るほど長い歳月に埋もれてしまった歴史を認識するのが辛くなります。第2次大戦の惨禍は今でも繰り返し報道されていますが、アメリカの世界戦略を大きく変えた重要な戦争「朝鮮戦争」は知られてないことが多いと思います。
 
   
 
  「 第1章 戦争の経緯」
 
   朝鮮戦争のいわゆる始まり
 
 朝鮮戦争は1950年6月24日から25日にかけてソウルの西北はずれに位置する甕津半島(オンジン)で始まった。南北2つの軍隊の兵力はほぼ同じ。しかし北のとくに中国内戦から帰還した部隊がもつ豊富な実践経験は南をしのぐものであった。さらに北はソ連製戦車150両、戦闘機70機、軽爆撃機62機を保有していた。
   最初、鉄原(チョルウォン)の南38度線上で朝鮮人民部隊が韓国陸軍第7師団を攻撃し、大損害を出した。韓国軍は敗退し、北の人民軍はソウルに向かって南進を始めた。
 6月26日の正午から夕方にかけて北朝鮮部隊がなだれ込んで、ソウルは危機に陥った。兵士も市民も恐慌状態に陥った。
 6月28日には韓国軍は漢江(ハンガン)にかかる主要な橋を予告なしに爆破し、橋を渡っていた数百人が死亡した。李承晩大統領は木浦(モッポ)行きの列車で南へと避難する。軍の指揮はどこかへ吹き飛び、市民はパニック状態であった。ソウルは兵力およそ3万7000人の北の侵攻部隊によって陥落した。
 南の抵抗が、あっというまにほぼ完全に崩れてしまったことが、アメリカを戦争への大規模な介入へと駆り立てた。アメリカ国務長官アチソンは、朝鮮戦争にアメリカ空・海軍を参戦させる決定した。介入の決定はアチソンが下し、トルーマン大統領が承認した。アチソンの論理は朝鮮の戦略的価値とはまったく関係がなかったが、アメリカの威信と政治経済に大きく関係するものだった。北朝鮮はアメリカの威信に挑んだのだった。
   アメリカ人は自分たちが、実践力の優れた部隊を相手に戦うことになるとは露ほども考えていなかった。それは人種差別の根強いアメリカ社会の白人の間に、あまねく広まっていた人種差別から生まれたものでもあった。
   ボールドウィン記者(ニューヨークタイムス)は”朝鮮でわれわれが戦っているのは野蛮人の軍隊である。訓練をつみ無慈悲で自らの命を顧みず、独自の戦闘技術を身につけた野蛮人なのだ。彼らはナチスの電撃戦にならい、不安と恐怖を呼び起こすあらゆる武器を用いている”。さらにボールドウィンは朝鮮人にとって”命は安い。朝鮮人の背後にはアジアの遊牧民がいる。その眼前には略奪品への期待が広がっている”と論評した。
  モンゴル人、アジア人、ナチス、イナゴ、原始人、遊牧民、盗賊などと、韓国を攻撃した同じ民族の朝鮮人を描写するのに、思いつく限りのたとえを用いた。
  1950年夏、朝鮮人民軍はめざましい勝利をおさめながら南下し、アメリカ軍は屈辱的な敗北を重ねた。かつてドイツと日本を打ち倒した軍隊は、ろくな装備もない急ごしらえの農民軍と侮っていた敵、しかも外国の帝国主義的権力の手先と呼んでいた相手にいつのまにか追い詰められていたのである。
 7月までに前線の兵力は米韓軍9万2000人に対して北の人民軍7万人で、米官軍のほうが上回っていたにもかかわらず、退却が続いた。8月始めに第1海兵師団が投入され、朝鮮人民軍の進撃を食い止めることができた。
   南東部の釜山防衛線でアメリカは9万8000人の兵力を配置した。女性を含む数千人の北のゲリラも盛んな攻撃を展開していた。J・チャーチ准将は朝鮮の戦いは第2次世界大戦のヨーロッパとはまったく違うという結論を下し、ゲリラ戦であるといった。険しい地形で戦われるゲリラ戦であり、山から下りてくるゲリラによって、陣地は常に危険にさらされていた。
 ゲリラをかくまったり支持したりしていると疑われた村は、そのほとんどが焼き払われた。空爆によるものだった。左傾していると思われる町では全住民が強制的に立ち退きを命じられた。順天(スンチョン)では90%の住民が退去させられ、何万人もの住民がいた馬山(マサン)はもぬけの殻になり、イェチョンからはすべての民間人が消えた。大邱(テグ)に住む左翼が大規模な暴動をひそかに計画しているという危機感が広がり、釜山防衛線で苦戦が続く中、大邱の大勢の市民が蜂起する恐れがあるという懸念から立ち退かされた。立ち退かされた大邱の多くの人々が釜山近くの島々に集められ、外にでることを禁じられた。
    8月末朝鮮人民軍は 釜山防衛線で最後の大規模攻撃を開始し、大きな戦果をあげた。釜山は北朝鮮の大攻勢で陥落寸前、アメリカ軍の犠牲者はこの時点で2万人にも達していた。マッカーサーはアメリカ軍の臨戦態勢の師団の大半を朝鮮に投入させた。 北朝鮮の兵力は敵に圧倒的な差をつけられていた。
   マッカーサーは仁川上陸作戦でソウルを陥落させた。北朝鮮は何もできなかった。アメリカ軍は38度線を越えて北進する。アメリカ軍は南と北に軍をふたつに分割し進軍した。
 北朝鮮は同盟国である中国の支援を要請。釜山防衛緯線で戦っていた朝鮮人民軍は山岳地帯から北へと逃れた。ゲリラは韓国の山岳地帯に隠れ、1950年から51年の冬にはアメリカ軍の部隊にとって大きな問題になった。
 金日成は最初から最大の敵はアメリカ軍であったとはいえ、アメリカ地上軍の介入は予期していたものの、これほど大規模なしかも空・海軍まで投入する参戦は予想していなっかった。
 アメリカの世界戦略にとって大した重要性はないようにみえたこの小さな半島に、臨戦態勢を整えたアメリカの歩兵部隊の大部分が地球の反対側から送り込まれることになろうとは誰にもほとんど想像できないことだったのだろう。
 
 
 北朝鮮のソウル侵攻のとき、李承晩大統領は南へ避難しましたがその際に『保導連盟事件』が起きました。詳しくはウイキでhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%B0%8E%E9%80%A3%E7%9B%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 
 
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑦ 朝鮮戦争Ⅰ 北朝鮮へのアメリカによる空爆

「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで一番驚いたことは、アメリカ軍が行った北朝鮮への空爆でした。
 空爆は恐ろしい行為です。爆撃機の下には人間がいます。焼夷弾、ナパーム弾の威力の凄さ。アメリカが行った70年前の日本の各都市への空爆被害を、生き残った語りべの方から聞きましたが生々しくて実に惨いお話でした。火の海に包まれた東京では十万人の犠牲者が出ました。大阪でも、名古屋でも。50年前のベトナム戦争における北爆は世界で報道されて、ベトナムの人の被害を世界中の人々が知ることになりました。
 しかし北朝鮮の各都市を焼き尽くし、満水のダムや貯水池を破壊し尽したアメリカの行為は、全くといっていいほど知られていません。私も初めて知りました。
 
 
 
 
 
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    第6章 最も不公平な結果 空爆
 
 
 ① 1950年夏、アメリカは共産主義を封じ込めるために戦った韓国を助け、韓国はその目的を達した。
 ② 1950~1951年、アメリカは厳しい寒さのなか、北朝鮮に侵攻し共産主義政権を倒そうとして失敗した。
 ③ 1950年6月からアメリカは朝鮮に対して3年間にわたり、民間人の犠牲を考慮することなく、じゅうたん爆撃を加えた。それをほとんどのアメリカ人が知りもせず、覚えてもいない。
 
 アメリカ空軍の推計によれば、北朝鮮における都市破壊の規模はドイツや日本をはるかに上回っている。アメリカは北朝鮮に63万5000トンの爆弾を投下した。(これには3万2557トンのナパーム弾は含まれていない)。第2次世界大戦中、太平洋戦域全体に投下した50万3000トンの爆弾より多いのだ。
 日本ではアメリカの空爆によって60都市が平均で43%破壊されたのに対し、北朝鮮の都市や町は市街地の40~90%が破壊された。
 北朝鮮のへ空爆は1953年7月27日午後10時にようやく終った。
 
平壌 75% 清津 65% 咸興 80% 興南 85% 沙里院 95% 新安州 100%
元山 80% (空爆によって破壊された割合)
 
 北朝鮮の巨大ダムに対するアメリカ軍の攻撃は、収穫間近い25万トン相当の米を台無しにするものだった。1953年5月に徳山・慈山・クォンガの3つのダムが、続いてナムシ・テチョンの2つのダムが攻撃された。
 1953年5月13日、F84戦闘機59機が徳山貯水湖の高いせき止め壁を決壊させると、奔流は9.6キロメートルにわたる鉄道、5つの橋、3キロの幹線道路、1300ヘクタールの水田を破壊した。40キロメートルに及ぶ川谷がえぐりとられ、水は平壌にまで達した。
 アメリカにとってダムへの空爆は、インフラの破壊、住民の水死よりも、稲作をダメにし食料を失わせる心理的効果の面で重要な作戦となった
 
 朝鮮戦争後、アメリカ空軍は自分たちが行った集中爆撃によって、共産主義者は戦争を終結せざるをえなくなったのだと多くの人に信じ込ませた。国連で採択されたジェノサイド条約は1951年に発効されるが、この空爆にはまったく影響を及ぼさなかった。
 確実に言えることは、”悪の共産主義国家ソ連と中国”は韓国を空爆しなかったこと、”自由と人権の民主主義国家アメリカ”は北朝鮮を3年間にわたり空爆し続けたことです。
 
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「朝鮮戦争論」ブルース・カミングス著を読んで⑥ 朝鮮戦争前史 Ⅴ 麗水の反乱~38度線上での戦闘

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  麗水の反乱~38度線上での戦闘
 
  済州島の反乱が進行するなかで、はるかに大きな関心を集める出来事が起きた。実際に海外で報道されてもいる。最南部の港町「麗水(ヨス)」で、民衆の蜂起が起き、全羅南道や慶尚南道の(キョンサンナンド)のほかの地域へと広がり、韓国の土台を脅かすように思われた。
 
蜂起の直接的な原因とは、1948年10月19日、済州島への反乱鎮圧の任務を帯びた国軍第14連隊と第6連隊の隊員が、済州島への出動を拒否したことである。反乱鎮圧には若い将校らが協力したが、韓国軍の全部隊にアメリカ人顧問が配備されており、実質的にはアメリカ人が済州島民の反乱を鎮圧した。
 反政府勢力が麗水に続いて本土でも勢力を増強するに伴い、アメリカ人顧問は戦闘地域のあらゆるところにおいて、韓国軍に影のように寄り添い、指示をしていた。
 
 1年前には、時の経過とともに、韓国の反政府勢力の活動は盛んになるかに見えた。しかし1949年秋に大きな鎮圧作戦が始まるとおびただしい数の民衆が犠牲となった。アメリカは李承晩(イ・スンマン)大統領が国内の脅威を鎮圧できるかどうかを、自立性を試すリトマス試験紙と考えた。鎮圧がうまくいけば、アメリカの後押しによる封じ込め政策も成功すると考えた。
 
 北の38度線から遠く離れた全羅道の暴動が激しく、ここがアメリカの防御戦となった。この反乱・暴動について一般的に流布するものは、ソ連の後ろ盾がある北朝鮮が反乱部隊を外部から誘発し、李承晩政権は侵入者と戦っている一方で、アメリカは傍観しているというものだ。
 しかし証拠資料は、ソ連は韓国の反乱勢力に関与していなかったということ、北朝鮮が関係したのは韓国北部の江原道(カンウォンド)の反乱活動であった。
 
これに対し、関与していなかったかにみえるアメリカは、対ゲリラ掃討軍を編成して武器を装備させ、最良の情報資料を与えたうえ、戦闘計画を立て直接指揮したこともあった。
 結局、朝鮮の西南部地域では朝鮮戦争(1950年)以前に、政治的暴力で10万人以上の民衆が命を落とした。調査から外れた他の地域を含めれば犠牲者数は13万から20万人に上ると考えられる。
 
  
 
 
 
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韓国は国内の反乱と北朝鮮の脅威に対応して、急速に国軍を拡大した。1949年夏の終わりに国軍の兵力は10万人になった。夏以前、韓国は38度線を越えて数々の小規模な戦闘を仕掛け、北朝鮮は積極的に応戦している。
 境界線での重要な戦闘は1949年5月4日開城(ケソン)で始まった。以後6ヶ月続く境界線上の戦闘が始まる。
 
 この韓国での内戦は1945年の政治闘争に始まり、続く2年間で人民委員会をめぐる抗争として深刻化し、抗争が頂点に達して1946年秋に大規模な反乱が起き、やがて1948年~50年に南北の境界(38度線)付近における戦闘や、限定戦争へとエスカレートしていったのである。1950年6月の北朝鮮の侵攻はそれ自体がひとつの成就あるいは結末であり、これによって、外国の介入がなければ終結したであろう内戦はあらたな重要段階に達したのである。
 1950年6月25日は転換点であり、アメリカ人にとっては始まりとなった。日曜の朝の突然の出来事であったが、それはトルーマン大統領と、強固な反共主義者アチソン国務長官がそうなるように選択したからである。二人はアメリカがその5年前に設定した38度線を回復すべく、当初は限定戦争で対応しようとした。ところが間もなく、戦争遂行にあたっての制限がまったく見えない状況になってしまうのである。
 
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