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カルトリーダーの死

2009-12-30 22:52:33 | マンガ
『火の鳥・復活編』手塚治虫(講談社版全集ほか)
1970~71年に『COM』に連載。『火の鳥』では過去と未来を往復しながら各エピソードが描かれ、だんだん現代に近づいてゆくが、ここではエピソード内でも25世紀と31世紀の遠い未来を往復しながら物語が綴られる。2482年のある日、少年レオナが運転中のエアカーから墜落して死んだ。しかし野心的な科学者ニールセン博士の手によって、内臓の大半、小脳のすべて、大脳の半分以上を人工組織と入れ替える手術を受けてよみがえったのだ。そんな「不死身の体」で生きることになったレオナの目には、人間や植物など命あるものがすべて土くれや岩石のような奇妙な姿に見え、聴覚や触覚においてもそのようにしか認識できない。せっかくよみがえったにもかかわらず、家族ですら奇妙な姿に感じられて孤独におちいるレオナの前に、たった一人まともな人間の姿をして見える者が現れた。それは事務ロボットのチヒロ61298号だったのだ。やがてレオナは、自分が法律上は死亡者としてあつかわれることを知り、親族たちが遺産を狙っていることから、自分が不老不死をもたらす火の鳥の生き血をめぐる陰謀から殺されたのではないかとの疑いを抱く。
アメリカに渡ってそれを確かめたレオナは、工場からチヒロを誘拐して国外逃亡を試みる…。
いっぽう3000年代の地球では、「ロビタ」と呼ばれる独特な親しみやすさを持つタイプのロボットが量産されて各地で労働や子育てに重宝されていたが、ふとした事件から裁判にかけられることになった…。



映画『ブレードランナー』をめぐっても似たようなこと言った記憶あるけど、人権の問題ですわ、ロボットってのも。ただ働かせるだけのためだったら、それに特化した姿でいいので、もし人間の姿に似せて作ろうとしたならバランスが悪くて歩くのでせいいっぱい。レプリカントたちみたいな宇宙での複雑な重労働、あるいは↑画像みたいな子育てできるロボットなんて、とうてい作れるわけがない。もし遠い将来に可能になったとしても、コスト的に人間を使ったほうが安いに決まってる。
だが手塚治虫という神さまに不可能はない。正直たいへんな傑作なので、まだ見てない人のため詳しく触れたくない、ある方法で可能にした。
そこには、いわゆる「ヒューマニスト」とされがちな手塚治虫先生とはやや異なるものが多く漂っている。火の鳥の生き血に頼らずとも、不死身の肉体=脳も含め半分以上が人造の肉体となったレオナには、人間や動植物さえ無機的なものに感じられ、逆に機械じみた姿のロボットが温かな肌をしていて姿も人間のように感じられる。不思議だ。いったい脳というのは、あるいは知覚や認識というのは、どのような作用をしているのだろうか。それだけでなく、彼は人間の内面さえ、みにくくいやらしいものに感じられるように変わってしまった。《ロボットになりたい!!》と願うまでに。
手塚先生の世界観は、人間中心とは異なる。むしろそれを疑い、人間を人間たらしめるものが何なのかをどこまでも突き止めようとする、そういう意味でのヒューマニスト。『火の鳥』と重なる部分の多い『ブッダ』にも、動物に憑依することのできる超能力を持つ賎民のタッタ、未来を予知することができて自分がオオカミに食べられて死ぬ運命まで知っていて、実際そのとおりに死んでいくアッサジ、といった主人公のお釈迦さまより気になる登場人物がいたような。
人間中心だの科学万能だのとは思っていない。そのような、決して人類の未来が輝かしいものでない、むしろ永遠に連環する責め苦のようなものでさえあるかもしれないとするような世界観を、『ブレードランナー』やいわゆるサイバーパンクの動きよりかなり前に、それもマンガという形で描き出したことに驚きを禁じえない。それを突きつけられた小学6年の夏休みのオラが、どれほど圧倒されたことか。
すでに白土三平の『ワタリ』、水木しげるの『悪魔くん(貸本版)』、つげ義春の「ねじ式」といったどえらいマンガたちと出会っていたが、『火の鳥・復活編』ほど斬新で、かっこよくて、なにか高い次元に導いてくれそうに感じたマンガはかつてなかった。夢中になって一晩で見終えた。中野区の親戚の家に泊まりに行ったとき、たまたまイトコの姉ぇーちゃんが貸本屋から借りてきていた1冊だったのだ。当時『火の鳥』は貸本くらいでしか見る手だてがなかったらしく、その直後あたりから朝日ソノラマが創刊した『マンガ少年』という月刊誌で「望郷編」から再開され、翌1977年あたりには同社がB5判で単行本化した旧作も手軽に見られるようになったんですけどね。
あの晩、少しばかり人生が変わったと思う。そう、その姉ぇーちゃんこそ、今秋、クモ膜下出血で帰らぬ人となってしまった、大恩人。後年のどん底に近いような局面でも助けてくれたことは前にも記したが、本来、母方のイトコ6人の中で最年長で、それらマンガなど未知の世界への扉を開いてくれたことも忘れ難い。
近年、頻繁に行き来し、オラのほうからマンガ本をたびたび送りつけたりしたのも、その恩返しや彼女の一人息子さんのためもあるが、子ども時代の幸せの記憶、たくさんのマンガ本を夢中で読みふけったことを、老年になってから彼女の家をマンガ図書館のように利用させてもらって再現しようとも思ってたのだ。
思えば貸本屋ってすっかり姿を消したようだったが、なにやら最近TSUTAYAとかでコミックレンタルが始まってるじゃないのさ。マンガ本は巻数が多くてかさばって、陳列スペースの確保も容易でないので、1990年代以降の売れ筋のものばかりで、かつての名作とかは見かけないが…。『火の鳥』みたく高尚なものはさておき、『トイレット博士』とか『恐怖新聞』とか、今の子どもにとってみてもけっこう面白いんじゃないかって気もします。ともあれ、貸本がマンガに限って復活したのって、わが国に貧困が戻ってきているゆえの現象とも思われるし、まるで『火の鳥』のように歴史は繰り返すんでしょか。

コメント
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