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マガジンひとり

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任意の人質

2022-09-05 16:18:53 | メディア・芸能
報道の又聞きですが、安倍元首相暗殺犯の青年はかなりの借金を抱えており、持ち金が尽きる前にどうしても殺害計画を実行に移さねばならなかった。暗殺は成功し、パンドラの壺が暴かれ、統一教会による底無しの汚染が報じられ世間が騒然とするなか死刑執行された、秋葉原事件の犯人の青年もまた借金を抱え、派遣の職を転々とする身であった。

借金は人を自暴自棄にさせる。犯罪を生み出す母体。しかし銀行やサラ金、あるいは派遣業はマスコミ広告の大得意で、政府自体も借金まみれであることから、さまざまな容疑者が借金苦であったとしてもその部分が詳らかにされることは少ない。10年くらい前のアメトークだったか、博多大吉が福岡県で芸人活動していた時期を振り返って、先輩格として後輩芸人に自分を追い込むため借金をしろと勧めていたという話を当たり前のようにしていて、彼は芸人の中では紳士的な常識人のように見えるけれども、やはりそこは渡世人というか、ヤクザ的価値観の使い走りに過ぎないのかなと思った記憶。

案の定、コロナ・円安・統一教会というTriple disasterが長期化するにつれ、芸人はもちろん各種著名人の不祥事や炎上・内ゲバなど毎日のように繰り返されている。去年の前半、私が聞いていた芸人のラジオのうち有吉弘行とハライチが急激につまらなくなり、残る空気階段もことしに入り衰退、聞くラジオがなくなってしまった。3組とも元から広告志向が強く、その割には節度があるように思っていたのだが、安倍暗殺によってオリンピック汚職の捜査も進むなど、30年眠っていた日本の社会が変化の波にさらされ、ヤクザの使い=あちこちから縛られた人質のようなものである芸人・著名人が変化に付いていけず逃げ遅れ、一挙に価値を失ってしまったように見受けられる。


パチンコになすりつけて統一教会を無理やり擁護しているのは、背後にブローカー・仕掛人的な人物がいるのか、あるいはネトウヨご意見番という「狭い世間」の情報収斂なのか。ビジウヨ・統一方面の直接的な縛りに加え、メディアを通した有名人で、自分がどう見えているかというイメージを裏切れない、裏切ったら見向きされなくなってしまう恐怖、それはまあ必死なんでしょう。自分自分自分。有名でなくてもスマホを離せない人たちも。

「自己調整的市場と擬制商品」という、産業革命以降の英国にもたらされた構造変化が、先進各国のパラダイム転換を促したと、カール・ポランニーの1944年の著書『大転換』で解説されている。「労働」「土地」「貨幣」の3つが擬制商品を成し、食料のような本来的商品と異なって、マーケットを介さなければ交換価値を発揮できず、価値は変動し、それらが相互に絡み合ってマーケットは一人歩きする。コントロールできない。恐慌や気候変動もその帰結。メディア上にのさばる、有名になりたい人、なった人、売名家・広告的人間は擬制商品の究極的な姿だ。アンジャッシュ渡部や香川照之のように、有名であることは借金のようなものでもある。あなたを縛る。

日本幻景 #32 — 軍国主義と朝日新聞

2022-01-28 19:46:59 | メディア・芸能
1918年8月26日、大阪朝日新聞(タ刊。以下「朝日新聞」で統一)は〈寺内内閣の暴政を責め 猛然として弾劾を決議した関西記者大会の痛切なる攻撃〉という見出しの記事を掲載した(一部現代表記にあらためた)。この記事のうち、寺内正毅内閣は以下の記述を問題視したのだ。

〈我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判(さばき)の日に近づいてゐるのではなからうか、『白虹日を貫けり』と昔の人が咳いた不吉な兆(きざし)が黙々として肉叉(フォーク)を動かしてゐる人々の頭に雷(いなづま)のやうに閃く〉

当時の日本は米騒動で紛糾しており、寺内内閣は朝日新聞からの糾弾を恐れていた。政権は朝日新聞を攻撃する材料を探していたわけだが、そこに先の記事が出た。(白虹日を貫けり〉とは中国の古典からの引用であり、「国に内乱が起きる」という意味だ。寺内内閣は「日は天子=天皇を意味する」と難癖をつけ、記者を新聞紙法の「朝憲素乱(ちょうけんびんらん)」違反で起訴した。「朝日新聞は天皇の暗殺をそそのかしている」と言いがかりをつけたのだ。 

朝日新聞が発行禁止までされることはなかったが、当時の村山龍平社長は辞任し、鳥居素川(そせん)編集局長と長谷川如是閑(にょぜかん)社会部長は退社に追いこまれた。記事を書いた記者や編集発行人は、2カ月の禁固刑を下されている(朝日新聞99年1月25日付、05年10月21日付より)。

白虹事件は、戦前の日本のジャーナリズムの中で非常にインパクトが大きい事件となった。大正時代の人たちは古典の教育を受けているため、記事中に中国の古典を援用する。その言葉の揚げ足を取り、記者に刑事罰を科したり仕事をできなくさせたりしたのだ。特別報道部から弾き出された依光隆明記者たち(注:吉田調書報道取り消しの当事者)を見ていると、私は「まるで長谷川如是閑のようだな。これでは平成の白虹事件ではないか」と慄然とする。

ちなみに、長谷川如是閑をはじめ朝日新聞を辞めさせられた記者は、このとき読売新聞に移籍した。それを見た日本の財閥は恐ろしくなり、内務省で警視庁警務部長まで務めた正力松太郎氏に「キミ、新聞を買わないか」と声をかける。
正力氏は内務省時代、思想警察を指揮して共産党を弾圧していた人物だ。この人物が財界の応援を受け、1924年に読売新聞を買収して社長に就任した。すると長谷川如是閑ら政権に都合の悪いジャーナリストは、読売新聞から追放されてしまった。

「白虹事件」は、政府への批判的報道を潰した第一歩だった。骨のあるジャーナリストを追放した戦前の朝日新聞では政府への批判的な報道が少なくなり、大本営発表を垂れ流す新聞へと成り下がっていく。そして日本全体が軍国主義的傾向を強めていった。

翻って現在の朝日新聞を見ると、14年9月11日の「吉田調書」報道取り消し以降、紙面からは調査報道らしい調査報道がほとんどなくなってしまった。調査報道の牙城が崩れ、政権へのカウンターがジャーナリズムから放たれなくなってしまったのだとすれば、まさに「平成の白虹事件」ではないかと私は危惧を強める。 ─(マーティン・ファクラー/安倍政権にひれ伏す日本のメディア/双葉社2016)



③昭和17年8月1日朝刊の企画記事「戦う日本」で紹介された東條英機首相。対米英開戦直前の16年10月から19年7月まで首相を務め、陸軍大臣・軍需大臣も兼任、23年末にA級戦犯として絞首刑に処された。朝日新聞は、まめに国民生活を視察する東條首相を好意的に報じたが、唯一、東條に批判的だった衆院議員・中野正剛の論文「戦時宰相論」が東條の逆鱗に触れ、同紙面は発禁、憲兵によって軟禁状態に置かれた中野は割腹自殺。



④細川隆元(たかもと)ブエノスアイレス特派員の署名記事が外報面に頻繁に掲載され、米国の政治・文化が堕落し、戦争でも日本に押されている様子を大げさに伝えた。戦後は日曜朝のテレビ番組『時事放談』などで政財界のご意見番として活躍。



⑤昭和18年3月7日朝刊、「撃ちてし止まむ」企画11回目として千葉県の女たちが竹槍訓練に励む様子を伝える。



⑥1940・昭和15年の紀元2600年(後世の創作)を記念し、ベルリン大会に続く東京オリンピック開催、万国博覧会、5000人収容の武道館建設などが計画されたものの、泥沼化する日中戦争の戦費は膨張し、一大プロジェクトは計画倒れに。左:奉祝演奏会のためリヒャルト・シュトラウス、ジャック・イベールら高名な作曲家が楽曲を献呈。右:万博の東京会場の計画。 ─(この項のみ朝日歴史写真ライブラリー『戦争と庶民①大政翼賛から日米開戦』より)


当時の日本人当局者は文民・軍人を問わず、広告というものを批判的な目で見ていたのに加え、広告業界全体を品のないものとみなしていた理由は理解しやすい。生理用品や青年の性的好奇心を刺激する機器等に関する露骨な広告が掲載される度に、日本社会は広告業界を非難していた。しかし、政府は広告業を営む専門家が、戦時下プロパガンダの制作に加担することをどうしても必要としていたため、一種のジレンマに陥っていた。言うまでもなく「宣伝製品」、すなわちプロパガンダ製品は、専門家により意図的に制作される必要があった。政府と民間プロパガンダ組織は、いずれも日本国内、および、さらに重要なこととして、海外で消費される多様なプロパガンダの創作と執筆、生成と出版を行える才能を持った人々を必要としていた。

他方で、広告会社の幹部や業界全体の視点に立つと、この政府の戦争遂行に便乗することで、広告業界の社会的地位を向上させることができると考えていた。この日和見主義と増収益への欲求は、熱狂的な愛国心を求める当時の雰囲気とうまく噛み合うことになった。軍や政府が所有するのではない小規模広告会社も、多くの場合政府広告や観光ポスター、その他関連製品のプロパガンダを制作している。これらの企業は、日本は近代的で効率的、さらに衛生的であるため、アジアを牽引するのにふさわしい国である、というアイディアをその広告にプロパガンダとして組み込んでいる。

(中略)1930年代前半になると、広告に関する研究会が早稲田・慶應・立教・明治といった一流大学で結成され始めていた。広告を研究していた人々の大部分が慶應大学に所属していたが、早稲田大学も一定の勢力を誇っており、『早稲田広告学研究』という雑誌を出版している。また、早稲田は山名文夫の報道技術研究会のような団体を生み出すには至らなかったが、『早稲田広告学研究』は中国における戦争や広告に関する学術会議の内容を掲載していた。本誌に掲載されている一般向け討論会では、コロムビア・レコードの幹部が他の参加者に対し、経済的な規制が強まっているこの時代には、広告はもう必要ないのではないか、という質間を投げかけている。この問いかけに対する回答の多くは、広告の将来について悲観的な見方を隠し切れないものが多かった。しかし、参加者の多くは、広告が無くなることはないだろうが、その見た目や中身は変えていく必要があるという意見に賛同している。討論参加者の多くが、広告は時代に適応していかなければ、戦時インフレと低下する可処分所得により絶命の危機に瀕するだろうと結論付けている。 ─(バラク・クシュナー/思想戦 大日本帝国のプロパガンダ/明石書店2016)




10億円の国有地を1億円で、という森友問題が明るみに出る前、安倍晋三・昭恵の側近や、大阪維新の議員・関係者が深く関与していたことについて、朝日新聞はつかんでいながらあえて報道しなかったという疑惑。安倍側近と大阪維新がつながっているというのは、大阪の自民党や府市民にとっては裏切り行為に等しい大問題である。

朝日新聞はあえて「反日パヨクの総本山」として叩かれ役を演じる一方、テレビ朝日や傘下のアベマTVを通じて安倍・維新・ネトウヨ寄りの日和見的な態度をとることで、自分たちさえ存続できればいいという戦時中と同じ過ちを繰り返しているのだろう。この保身は朝日に限ったことではないから日本は短期間でオワコン化してしまったのだ。

1956 ─ メルボルン五輪

2021-07-11 17:27:25 | メディア・芸能
オーストラリアのメルボルン=史上初めて南半球に招致された1956年夏季オリンピック大会は北半球では冬季にあたる11月22日~12月8日に開催された。イギリスとフランスが関与するスエズ動乱、ソ連によるハンガリー侵攻に抗議し数ヵ国が不参加。また中国も中華民国(台湾)の参加に抗議してボイコット、中国としての参加は1984年大会まで先送りされることになる。


オーストラリアの19歳、ベティ・カスバートが陸上女子200mでドイツ(東西ドイツが統一チームで出場)の選手を引き離す。100mと4×100mリレーも制しゴールデン・ガールと称された。


マラソンは戦争を経て独立する前のアルジェリア出身、アラン・ミムンが宗主国フランスに金メダルをもたらす。52年のヘルシンキ大会で5000・10000・マラソンの三冠に輝いたザトペック(チェコスロバキア)は6位。



競泳男子400m自由形のレース後、健闘をたたえ合う優勝のマレイ・ローズ(中央・オーストラリア)、2位・山中毅(日本)、3位・ジョージ・ブリーン(米国)。1500mも同じ3人が金銀銅。


競泳男子200m平泳ぎで大半を潜水泳法で泳いで優勝した日本の古川勝。この泳法は練習中に溺死の危険があるとして翌年に制限。こんにちのクロールやバタフライも元は平泳ぎをいかに速く改良するかという試みの結果であり、バタフライが五輪種目として独立したのもこの大会から。


体操の男子日本チームの活躍を伝えるアサヒグラフ誌面。団体総合で2位、小野喬が個人総合とあん馬で2位、鉄棒1位。しかし「ソ連」という略し方はいまになってみると奇妙な感じを受ける。


ハンガリーの伝説的なボクシング選手ラズロ・パップはロンドン大会のミドル級、ヘルシンキ大会のライトミドル級に続いて本大会でもライトミドル級を制し、ボクシングで3回オリンピックに優勝した初めての選手となった。翌57年プロに転向するが社会主義のハンガリー政府はプロ活動を認めず、国外でのみトレーニングと試合出場を行い、プロとしては無敗のまま引退。


1956年10月、ソ連の傀儡と化していたハンガリー政府に対し市民が武装蜂起するハンガリー動乱が起り、すぐさまソ連軍が侵攻し戦闘状態となってハンガリー側に17000人の死者・20万人の亡命者を生んだ。ソ連の蛮行は西側各国で報じられ、オリンピック大会でも各競技でハンガリー選手に声援が送られた。中でも水球の決勝ラウンドでは前回優勝のハンガリーとソ連が対戦して乱闘に発展、2得点を挙げたエルヴィン・ザードルが殴られて右目の下から流血したまま会場を去る写真が「メルボルンの流血戦("Blood in the Water" Match)」と報じられた。ハンガリーは予選から全勝し優勝。大会後、ハンガリー選手団100人のうち45人が西側諸国に亡命した。

 

【左】ハンガリー動乱、10月29日にはソ連軍が一時的に撤退し、優勢となった市民側が共産党ブダペスト地区本部から出てきた秘密警察員をリンチにかけて遺体を樹に吊るす動きがみられた(画像の遺体は秘密警察の大佐だという)。【右】鳩山一郎に続く新総裁を決める自民党大会が12月14日に行われ、東洋経済新報の社長を務めた開明派で中国との国交回復を目指す石橋湛山がわずか7票差で戦時の有力閣僚でA級戦犯から公職復帰を果たした岸信介を破る。しかし翌年病に倒れ首相の座は「昭和の妖怪」に転がり込むことに。ウソと欲にまみれた2度目の東京オリンピックにつながる痛恨の歴史である。

1980 ─ モスクワ五輪

2021-05-14 20:03:37 | メディア・芸能
1980年夏季オリンピック大会は7月19日から8月3日までの16日間ソビエト連邦の首都モスクワで行われた。 (ヘッダー画像右上から時計回りで①体操女子の平均台と床運動で優勝したルーマニアのナディア・コマネチ②ソ連による前年からのアフガニスタン侵攻を問題視し米国・西ドイツ・日本など66の国と地域が不参加③JOCが不参加を決め涙するレスリング代表の高田裕司④閉会式のマスゲーム、名残を惜しんで涙する大会マスコットのミーシャ)


18歳になったコマネチ。ホームタウン・ディシジョンがはたらき個人総合はソ連のダビドワに譲ったが種目別で意地。漫才ブームのピークは1980年でありビートたけしのコマネチ!はより大人の体形になったという含みがある。



アンドリアノフ! ディチャーチン!



サッカーはボイコットのため16ヵ国中7ヵ国が代理参加。チェコスロバキア金・東ドイツ銀・ソ連銅と東側諸国の独擅場。


陸上男子1500mを制した英国のセバスチャン・コー。保守党議員⇒爵位⇒ロンドン五輪組織委会長⇒世界陸連会長という陽キャのエリート。


西ドイツのディスコグループ、ジンギスカンが前年にヒットさせた「めざせモスクワ」シングル盤。より大ヒットした「ジンギスカン」が体操会場で流れていたと記憶する。この大会のテレビ中継は「中産階級ハーレム⑯プロレス」でも取り上げた三浦甲子二がソビエト共産党の意を受けて自民党の重鎮にはたらきかける工作員ということで慣例を破りテレビ朝日が独占契約。そしてボイコット。幻の代表となった柔道の山下、マラソンの瀬古、レスリングの高田、みな近年は顰蹙を買う存在になっていて奇妙なめぐり合わせ。

この次の1984年ロサンジェルス大会ではソ連・東ドイツ・キューバなどがボイコット。派手な演出に走って商業的には成功したとされるが肥大化の出発点であり、テレビで見ていてアメリカの自国中心に辟易させられたものであった。一方ソ連のアフガンとの戦争は泥沼化、ソ連圏崩壊の遠因に。与えて盗る・見せびらかして盗る。発想さえ持てないのだろう、陽キャのみなさん、自分たちが社会のお荷物でしかない卑屈な立場に追いやられることが。中止にせよ強行開催にせよ3度目の東京オリンピック招致は史上稀な速さで衰退する極東の島国を象徴することになりそう。

1996 ─ アトランタ五輪

2021-04-25 18:10:28 | メディア・芸能
レスリング・グレコローマン130kg級でソ連時代から五輪3連覇を果たしたロシアの英雄アレクサンドル・カレリン(右)。決勝の相手は米国のマット・ガファリ。


競泳は地元米国が32種目中13種目を制し、とくにエイミー・ヴァン・ダイケンは50m自由形や画像の4×100mメドレーリレーなど米国で初めて1大会で4つの金メダルを獲得した女性アスリートに。


卓球男子シングルス・ダブルス2冠の劉国梁。中国はほか飛込・重量挙げなど16個の金メダルを獲得、韓国は7個、日本は柔道の3個のみと戦後復帰を許されたヘルシンキ大会(1952・1個)以来の不振。しかし研究によれば日本の青少年の体格は生産年齢人口がピークに達した1996~97年に同じく向上のピークを迎えたとされる。


ヨット女子ミストラル級で優勝し英国統治下の香港で初めてのメダル獲得した李麗珊。97年の中国返還を控え表彰式で英国歌が流れることに。


ジョージア州アトランタ。ソ連の崩壊に伴って92年バルセロナ大会は統一チームで参加した国々が初参加(バルト三国は前回から参加)。画像左側は柔道男子78kg級3位のソソ・リパルテリアーニ(ジョージア)。



米国のマイケル・ジョンソン(2370)が陸上男子200mを驚異的な世界新記録19秒32で制し400mとの2冠。前半10秒12+後半9秒20。



女子10000mの前半先頭に立ち5位となった日本の千葉真子。左側、元・馬軍団の王軍霞(中国)が途中からリードし差を広げたが最後にポルトガルのリベイロにかわされ5000mとの2冠ならず。



コロナをばらまき醜態をさらす聖火リレー。アトランタ大会では元ボクサーのモハメド・アリ氏が最終ランナーを務め、パーキンソン病のため震える手で点火して感動を呼んだものだが、ギリシャで採火して各地を回り最後に開会式で競技場の聖火台に点火~というトーチリレー形式は1936年のベルリン大会、ナチ政権に忠誠を誓う組織委が、ドイツ人の優越(ユダヤ人の低劣)を示し国威発揚を狙ってさまざまな演出を導入したうちの一つだという。

賄賂とウソの招致、競技場やロゴのデザイン問題、相撲やアマチュアボクシングや日大アメフト部の不祥事、繰り返されるレイプや薬物事件、遠泳会場ウンコ水、オリン「ピッグ」…。アスリートががんばるのは自分が勝つため、あるいは就職で有利だからとか。「夢を与える」なんて手前勝手な言い分。世界的パンデミックのなかPCR検査数を抑えて感染を少なくみせかけてでもオリンピックを強行しようとする日本政府・東京都、傍観するIOCなどによってヒトラー以来の逆宣伝が完成し、オリンピックの価値は地に墜ちたのである。

肥大する刹那

2020-11-30 18:54:48 | メディア・芸能
人気商売はつらいよ。私が見たロンハーの最も面白い回は美人タレントがガチャガチャやり合う「格付けしあう女たち・まぜるな危険SP」。2015年2月と4月、格付け10名の顔ぶれが少し違うが2回ともダレノガレ明美と重盛さと美が大活躍。その後台頭してきた藤田ニコルや女芸人のゆりやん・おかずクラブ・ガンバレルーヤらと共にロンハーガールズ世代交代を印象付けた。もう5年経つんですね。深夜に移って翌年にはコロナ禍、低調になってきてつまらない回が続き、2ヵ月ほどチェックしていなかった間に深夜帯では初の格付け女が行われた(11月10日)と知り見てみた。

ノガレ・重盛以外の8人は「まぜるな危険」と重ならないフレッシュな顔ぶれで、序盤からこの2人に覇気がない。案の定1位・2位という「男と付き合ったらダメになる」悪い評価となり、重盛いわく「格付けって人として欠陥のあるメンバーでディスり合う感じと思ってたんだけど、きょうはしっかり者が多いので、マイナスイメージの付いちゃってるダレノガレさんと私は駄目だろうなって2人で話してた」。さらに、じゃあどんなメンバーがいいのと問われ「遠野(なぎこ)さん・misonoさん・脊山麻理子(呼び捨て)」。有吉「いいねえ」。有吉は前にもロンハーで脊山のことを「ヤバイ風俗嬢みたいで嫌いじゃない」と。

何も芸がないが呼ばれればどんな番組でも出たい。醜態をさらしても平気そう。なるほど風俗嬢だ。いや普通の風俗嬢は心身のストレスが大変だと思うので、ヤバイ風俗嬢。




きれいな女はきたない。若い美人でも、人生を通じてみると女は男より弱い立場に置かれ、より資本主義に隷属せざるをえない。なので若さや美貌をお金や地位に換えるよう仕向けられ、すると怪しい男たちがたかってくるという寸法だ。管理売春のオーナーがいくつも店舗を持ち、女の募集や管理やトラブル処理などでさまざまな業者・半グレ・不良が出入りし、権力者に上玉の女を融通したりする、秋元康のAKBとはそういう商売である。

またまたロンハーの話題で恐縮ですが、かつてツイッターでロンハー三賞というのをやっていて、いまは該当なしの週がずっと続くからロンハーそのものを見なくなったわけですが、初めて三賞独占を果たしたAKBの指原という女(2016年)。売れっ子芸人を含む10人の男を彼女がランキングする企画で、「わたし潔癖なので5位のヒロミさんからは洗濯物を一緒にできない」という一方「浮気山ほどしたんや」の陣内智則を1位に据えた。世の女たちに配慮するとすれば、浮気をギャグにするような男はたとえポーズでも退けるのだろうが、男相手の人気商売で競わされ、そこでトップをうかがうようなたくましい女は、精神的に管理側の権力者に同化し、うわべはきれいでも心は不潔になるのだ。








現代の職場環境は二極化が著しい。
2015年8月の猛暑の日、東急電鉄の駅構内で、階段下の高さ1メートルほどの小さな扉が大きく開かれていた。中を見たら、汗みどろで真っ赤な顔をした老人男女2人が壁際にうずくまっていた。駅構内の清掃担当者で、そこは清掃用具も置かれた待機室だという。斜めの天井は低く窓はなく広さは1坪ほど。扉は必ず閉めておくように電鉄から指示されていたが、暑くこもった熱気で気分が悪くなり、外の風を入れようと扉を開けた。私が目撃したのはその一瞬だったのである。
こんな現場がある一方、最近ではあえて「見せる」清掃もある。空港や巨大モール、レジャー施設、美術館などでは、若者たちが一点のシミもない制服を着て、清掃道具を積んだカートを押して歩いている。「ここでは清掃員まできれいでカッコいい」とアピールし、客の施設への憧れを強める。時給は1200~1300円と高めだ。 —(中沢彰吾/東大卒貧困ワーカー/新潮新書2017)

人生は危険な快楽の誘惑に満ちている。「誘惑に陥れないでください」というのはクリスチャンの典型的な祈りの言葉だ。人を誘惑に屈しやすくさせるものは、人を未来志向ではなく、今さえよければいい快楽主義に向かわせる。私が行った時間の感覚についての心理学研究では、現在志向の快楽主義者はあらゆる常習性物質や常習行為に屈しやすいことが明らかになった。これは、快楽主義に支配されているということが、絶え間なく目新しいものや強烈な感覚を求めていることを意味するからだ。
そういう人の決断は常に、自分がどう感じているか、まわりの人たちが何をしたり言ったりしているか、心をそそられるものはどんな見かけか、どんなにおいか、どんな味か、といった目の前の状況により下される。決して未来志向の人々のように、先々のリスクやコストにまでは考えがおよばない。つまり、気に入ったものがあるとそれを手に入れ、楽しみ、喜びを引き出す—そして、それに依存するようになる。こうして依存症は始まる。 —(Pジンバルドー、Nクーロン/男子劣化社会/晶文社2017・原著2015)


トランプはツイッターを始めるまではあそこまでひどい人格ではなかったと聞く。人は集団を形成しなければ生きられない。自分を測るのに他人の言葉や顔色が欠かせないし、ほめられればうれしいからかまってくれる人の望む方向へ本能的に寄せていく。星空サラだってそうだ。まして社会経験の乏しい子ども時代からスマホ(バカホ)とSNSで他人とつながっている世代はどうであろう。自己愛は誰でも持っていると思うが、もっと四六時中他人の目をうかがい、自意識が肥大した状態。不安で傷つきやすいのにそれでも刺激・変化を求めてしまうような。まるで多重債務者のようにその場その場をやり過ごすことしかできなくなる、肥大する刹那。

15 Best Kosakin Songs

2020-06-23 18:47:27 | メディア・芸能
資本主義はわれわれ一人一人にねだんを付ける。それは「時価」みたいに日々変動する。世間からみた評価よりも自己評価が高い者は借金を負わされ日々返済に追われているようなものでたいへん生きづらい。

会社の20年間、私の考える日本語はそこでは通じなかった。終始孤独であった。会社員2年目の1984年夏に、土曜の所ジョージさんのラジオを聞きながら寝てしまい、ふと目覚めると「わたしリカよ!」という前置きに続いてリカちゃん人形が奇想天外なことをしゃべっており、どうやらそういう設定の投稿コーナーであるらしい、投稿を読んでいるのは小堺一機さんで関根勤さんも一緒にやっているコサキンという番組。一発で魅了された私はそれから末期の長期入院時を除き会社員時代はずっとコサキンを心の友としていたのである。




Herb Alpert and the Tijuana Brass / Tijuana Taxi (1965 - Going Places!!)
コサキンは正式番組名や時間帯がよく変る。この曲は月~土の日替わり番組であった欽グルスショーの土曜日担当であった時代と、深夜ゴールデン水25~27時のほか土曜にコサキン増刊号がOAされていた頃の増刊号のOPテーマ。ずっと後にコサキンDEワァオ として最終回を迎えるときも私が聞き始めたときと同じ土曜24~25時に戻っていた。



藤島桓夫 / 若い元気なお相撲さん (1960 - Single)



喜美正二郎 / すずらん通り (1982 - Single)



大場久美子 / エトセトラ (1978 - Single)
『木藤たかおのオールナイトニッポン電話リクエスト』番組内コーナーを「クーミン」として務めた大場久美子さんの特徴あるしゃべり方を巧みに真似て珍妙な受け答えをする女性リスナーがコサキンのクーミン。ほか広川太一郎さんご本人も唸らせたモノマネの本業イラストレーター・もりいくすおさん、宅録の自作コサキンソングを投稿した男子など異能のリスナーが多数。ロンハー・アメトークの加地Pも投稿していたそうだ。



Screamin' Jay Hawkins / I Put a Spell on You (1956 - Voodoo Jive: The Best of Screamin' Jay Hawkins)



BARBEE BOYS / なんだったんだ? 7DAYS (1986 - 蜂 -BARBEE BOYS Complete Single Collection-)
1986~91年のコサキン無理矢理100%時代が全盛といえよう。男のオタク色が強い番組で女性ゲストが来ても沢口靖子さんなどは途中でぴあを読み始めてしまったり馴染めなかったがバービーボーイズの杏子さんとBABEの2人はたびたび招かれハマっていた。



小堺一機 / マージナル (1989 - 20 FAVORITE SONGS)



布施明 / ときめき (1969 - Single)



森田公一とトップギャラン / 人間はひとりの方がいい (1976 - 人間はひとりの方がいい)
構成作家が書いてコサキンが演じる「コサキンコント劇場」は目玉の一つ。作家陣のうち有川周一氏がカンコンキンシアターに出演していた女優と結婚、突然ブチギレる妻に振り回される有川氏の家庭生活を描いた「俺の愛妻物語」がシリーズ化。第2シリーズのテーマ曲。



杉良太郎 / 君は人のために死ねるか (1980 - 男 宇宙)



海道はじめとスナッキー・ガールズ / スナッキーで踊ろう (1968 - 幻の名盤解放歌集*日本コロムビア編 スナッキーで踊ろう)
マリア四郎 / もだえ (1968 - 幻の名盤解放歌集*日本コロムビア編 スナッキーで踊ろう)
92~94年のコサキン快傑アドレナリン時代には初期のコサキンソングに加え当時リリースされた幻の名盤解放歌集からの曲がいくつも紹介され「もだえ」の♪ウソでーもいいーかーらという部分を小堺さんが憑かれたように絶叫するなど音楽ネタで盛り上がった。「ウソでもいいから愛されたい」という歌詞は観念に縛られて資本主義の兵隊に仕立てられる様相をよく表していますね。ヘッダー画像の中央はキャイ~ンとコスモスが加わった当時のコサキン本より。



風間ひろしとメロディー・クイーン / 君が欲しい (1976 - 幻の名盤解放歌集*ポニーキャニオン編 男が死んで行く時に)



水木一郎, コロムビアゆりかご会 / ぼくらのバロム・1 (1972 - Single)



ハナ肇とクレージーキャッツ / こりゃシャクだった (1961 - Crazy Cats Deluxe)
関根さんの奇妙な替え歌や無関係な曲のイントロから連想ゲーム式に正解を当てさせるリスナー参加コーナーで多用された。布施明さんといい、志村けんさん死去に伴い各所でOAされたドリフの聖歌隊コーナーといい昔の日本は音楽性が高かった。高いというか欧米各国とそう変わらなかった。「こりゃシャクだった」も歌唱や編曲は見事だが青島幸男の歌詞がいま聞くと最悪。会社内での立場とお金のことしか言ってない。「サラリーマンは気楽な稼業」⇒思考停止した社畜。有名人に憧れるのは結構だが美人モデルも映画俳優も先行投資されている。有名人はあなたのことを知らないが、誰でも興味を持ってそうなりたい、おもしろおかしく生きたいと思わせるよう導く。私が心の友と思っても、小堺さんも関根さんも私の喜び苦しみを知ることはない。2000年代、私は会社を辞め、相変わらずコサキンを聞いていたが次第につまらなくなり(特に常連ゲストの木村大作と小林綾子が不快)、2009年3月には番組終了。ラジオの王位は伊集院光⇒雨上がり決死隊⇒しばらく空位⇒有吉弘行へと移ることに。

※2021年前半有吉弘行とハライチが弱体化、空気階段もそれを埋めるほどでなく再び空位に。24年後半、昼番組ながら中川家のラジオショーが王位に。歴代では現役時には聞いていなかったくりぃむしちゅーのオールナイトニッポンが断トツ、ループして何回も聞いている。

2005 — ヘルシンキ世界陸上

2019-11-02 17:37:24 | メディア・芸能
陸上競技の第10回世界選手権大会は2005年8月6日から14日までフィンランドのヘルシンキ・オリンピックメインスタジアムを主会場として開催。ロンドンでの開催が決まっていたが、主会場の建設の遅れと財政難のため、第1回大会を1983年に招致したヘルシンキに変更された。女子3000m障害が初採用され、50km競歩を除き行われる種目が男女でほぼ同じに。

米国のジャスティン・ガトリンは2日目の男子100mを9秒88で勝ったのに続き、6日目の200mも20秒04で制し、99年大会のモーリス・グリーン以来2人目となる両種目制覇。200mは米国勢が4位まで独占



2000年代後半、世界陸上や五輪の華であった棒高跳のイェレーナ・イシンバイェワ(ロシア)。自らの世界記録を1cm更新する5m01で優勝、以後09年の5m06まで記録を伸ばす。またこの大会は後のドーピングテストでベラルーシとロシアの選手5人がメダル剥奪された


女子5000mと10000mで上位を独占したエチオピア勢(写真は5000m)。19歳のティルネシュ・ディババ(先頭)が2冠となり姉のエジガエフ・ディババは両種目3位



混戦が予想された男子110mハードル。フランスのラジ・ドゥクレ(中央)はスタートで出遅れたが3連覇を狙うアレン・ジョンソン(米)、アテネ五輪優勝の劉翔(中国)を抑え優勝



五輪年の前年をケガで棒に振るなどこれまで屋外無冠のカイサ・ベリクヴィスト(スウェーデン)が2m02で女子走高跳を制す。身長1m75と走高跳の選手としては小柄



最終日の女子やり投げ、キューバのオスレイディス・メネンデスが1投目に自身の世界記録を16cm更新する71m70を投げてアテネ五輪に続き制す


最終日の女子マラソン、2時間15分台という圧倒的な世界記録を持ちながら前年の五輪で棄権に終ったポーラ・ラドクリフ(英国)が前回女王のンデレバ(ケニア)らを抑え栄冠



はんなり京をんな。早狩実紀、大舞台でアジア新!!(女子3000m障害12位)って、中国やインドが誰もやってないからでしょ、新興種目をガツガツ漁って富国強兵のつもりか(相手が本気を出すとボロ負け)。現時点ではアジア11位に後退。上位のバーレーン勢はケニアから国籍を移した選手で、世界でも上位


この大会は強風と豪雨に祟られ、棒高跳のマットが風で動いてしまったり、雨が止まないため競技時間の遅れや日程変更が相次いだ。男子400mハードル、2日目の準決勝を全体の6位で通過した前々回エドモントン大会3位の為末大は、4日目の決勝も悪天候に見舞われたことをチャンスと考えた。7レーンに置かれ、内側の選手が視界に入らないなか、得意の先行逃げ切りでさらに若い選手の動揺を誘えるのではと。実際そのとおりの展開で、9台目のハードルまでトップ、以降バーショーン・ジャクソンら米国の2人に抜かれたが3位を死守。2度目のメダルを決め感涙。

この涙は、これで競技人生を終えてもスポーツ周辺をウロチョロする広告人間としてメシが食えるという安堵の涙かも。彼は法大を出て大阪ガスに就職するも退社し、04年からAPF(アジアパートナーシップファンド)に所属するプロ選手に。高校時代には400m走で45秒台をマークしており、ハードル進出はそもそも自らの商品価値を最大限発揮するためということもあろう。

かつてTBSが世界陸上のおもな選手に付けたキャッチフレーズ、彼は「侍ハードラー」。05年大会でみせた勝負師の面に加え、APFの取締役にも就任してスポーツ普及&ビジネス面でも活発に発言するように。06年にはクイズミリオネアで獲得した賞金を原資に、丸の内のビル街での競技会をプロデュース。しかし「何やってんだよタメ!!」、07年大阪世界陸上は予選落ち、3度のオリンピック出場(00・04・08)も決勝に進めず、2012年に引退。地方の築古物件をスポーツ合宿所として再生するベンチャー企業の取締役に。

2013年、タイで事業を行っていたAPFグループの複雑な金融取引や増資が違法ということで証券取引等監視委員会 から史上最高額となる41億円の課徴金を命ぜられた。かつて取締役を務めた彼は「スポンサーという認識だったので、私の肖像や著書がもし仮に認識していたのと違う使われ方をされていたのであれば残念」と発言。彼には何冊も著書がある。スポーツを自己実現と結びつける内容が多いようだ。いまも大学やソシャゲー会社やプロサッカーチームとタイアップ。確かに彼は2度世界陸上でメダルを獲得した。発言も単なるスポーツ選手とは一味違う。しかしまともなビジネス経験などない彼が、引退後もカネとコネと知名度を保っていられるのは、わが国が資本主義の名を借りた官僚制の広告社会であるからに他ならない。

人は知らないこと・人物には警戒心を抱く。自分が知らないのはくだらないことだからというような防衛的な心理がはたらく一方、会ったことがない芸能人などでもテレビを通して親近感を覚えたりする。インターネットで玉石混交の情報があふれる時代となり、かえって普通の国民にとって旧マスコミの信用度が高まる傾向に。ゆえにたけしや松本のようなお笑い以外は三流四流の中高年男性がご意見番気取りでいつまでも大量露出していられるのである—

※写真・記録は陸上競技マガジン2005年10月号・国際陸連公式サイト・YouTubeなどより

1991 — 東京世界陸上

2019-09-25 19:13:12 | メディア・芸能
陸上競技の第3回世界選手権東京大会は1991年8月23日から9月1日まで行われ、43種目のうち3種目で世界新、15種目で大会新記録が生まれた。とくに男子走幅跳ではオリンピック連覇中のカール・ルイスと、同じ米国代表のマイク・パウエルが稀にみる水準で激闘を演じ、パウエルが5回目に跳んだ8m95は1968年のメキシコ五輪でビーモンが記録した8m90を23年ぶりに破るもので、この世界記録じたいも現在まで破られていないという歴史的なものとなった。ホスト国の日本からは谷口浩美が男子マラソンで優勝、女子マラソンでも山下佐知子が2位となって駅伝マラソンの人気をさらに高めたが、男子400mの高野進が決勝進出して「ファイナリスト」という言葉を一般化させるなど、それまでの駅伝マラソンに偏った強化・観戦が一般種目にも広がるきっかけとなる成功を収めた。


30歳となったカール・ルイス。同じクラブの後輩リロイ・バレルに男子100mの世界記録を更新され、世界陸上3連覇に黄信号が灯ったが、9秒台6人の決勝を9秒86の世界新記録で制す。この後の走幅跳の激闘、最終日には4×100mリレーも世界記録で制し、3つの世界記録すべてに絡むという千両役者ぶり。


マラソンは暑さを避け早朝にスタート。折り返し点手前ではソウル五輪覇者のロサ・モタ(595)、ポーランドのワンダ・パンフィル、日本の山下佐知子(右)と有森裕子らが先頭集団を形成。モタはその後棄権し、終盤パンフィルが逃げ切り優勝。


男子10000mは日本の3選手が決勝進出。この年の2月に初マラソンで優勝した森下広一(右)が10位、浦田春生が11位。ケニアのモーゼス・タヌイが優勝。


女子400mで優勝したフランスのマリージョゼ・ペレク。スーパーモデルのよう。


男子棒高跳は王者セルゲイ・ブブカ(ソ連)が苦戦。5m90を1回目失敗すると残りをパスして5m95に賭けたが1回目失敗、5m90を成功させたイシュトバン・バジュラ(ハンガリー)の番狂わせかと思われた。しかし最後のチャンス、ブブカは見事な集中力でバーを大きく超え、バジュラが失敗したため3連覇を決めた。ソ連でクーデターが起り、故国ウクライナが独立を宣言するなど政治情勢が影を差す辛勝。



8月30日の男子走幅跳。ルイスの8m91は2.9mの追い風参考ながら2番目の8m87は向い風(0.2m)で、ほかも見事な跳躍。彼の最後が8m84と表示されると、パウエルはルイスの肩を抱き、審判に抱きつき、喜びを爆発させて絶叫しながら駆け出した—


男子マラソンは有力者のワキウリやイカンガーが直前で欠場することになり、日本の3人の前に立ちはだかるのはジェリンド・ボルディン(イタリア)とスティーブ・モネゲッティ(左画像の51・オーストラリア)かと思われた。東京の猛暑は彼らのスタミナを奪い、中山竹通も棄権、先頭集団はみるみる絞られ、35km付近からジワジワ差を広げた谷口浩美が会心の勝利。補欠から出場することになった篠原太も5位と健闘。


最終日の男子4×400mリレーは米国と英国が終始接戦。アンカーに400m優勝のペティグリューを据えた米国が逃げ切るかと思われたが最後の直線で400mハードル3位のアカブシが逆転、英国が劇的な優勝(以上の画像は陸上競技マガジン1991年10月号などから)

志村けんプレイリスト

2017-09-04 19:32:01 | メディア・芸能
子どものころ父から「ドリフターズというのはアメリカに本家がいる。日本のは遠い親戚みたいな」と聞いた。遠い親戚でも私にとってテレビの王さまはドリフだった。最も初期の記憶に(3~4歳)、加トちゃんがオネショしてしまった布団をいかりやさんの母から隠そうとする、全員集合のコントの一場面がある。志村けんさんは付き人から見習いを経て、私が小4となる1974年4月に荒井注さんの脱退に伴い正式メンバーに。24歳と若く、マジメそうな風貌で、しばらく人気が出なかったが76年に合唱隊のコーナーで「東村山音頭」を歌って大ウケ。

一丁目は今にして思えばジェームズ・ブラウンそのもの。弟子入りの際もコント55号と迷い、元はコミックバンドで音楽に近いとの理由でドリフを選んだ志村けんさんの決めギャグは、音楽と密接な関係に。70年代終りのジャガジャガジャジャジャジャジャン! ア~アッ!というのも脱力を誘うがソウルフルだったし(ソウル婆ちゃんという名称らしい)、80年代に入るとテディ・ペンダーグラスの曲を用いたヒゲダンス、ウィルソン・ピケットのリフに乗せ、キャンディーズ「やさしい悪魔」の振りを流用しての早口言葉など、切れ目なく子どもの心を捉えた。

思春期に差し掛かった私はドリフから離れ、深夜ラジオやひょうきん族の方に惹かれ、19歳の時には小堺一機・関根勤による長寿ラジオ「コサキン」と出会う。加トちゃんケンちゃんごきげんテレビはたまに見るくらいだったが、やがてひょうきん族を再逆転。並行してフジの月曜8時に、志村さん中心の『だいじょうぶだぁ』が始まると、いしのようこ、田代まさしらとの息の合ったコントにより、お笑い番組があまたある中で今も記憶の王位に君臨。89~91年くらいは神の域だった—




志村けんさんが、お笑いの一線からやや引いた位置となり、コサキンも2009年に終った。いまや私はほぼテレビを見ない。録画したロンハーとアメトークのみ酒の肴に楽しむ。すぐに消してしまう回もあれば、繰り返し再生する回も。近年ではロンハーの格付け女・まぜるな危険SP(2015年2月と4月)、アメトークのナダル・アンビリーバボー(2016年9月と11月)が出色だ。ナダル回の1回目など十数回再生。何度見ても面白い。

でもそれは、両番組の総合プロデューサー・加地倫三氏の著書によると、ナダル回であればメイン出演者をドッキリで騙し、うろたえるさまなども周到に準備され、演出や撮影や編集、企画意図が完璧以上に実を結んだ、一つの集団実験作品なのだ。

加地Pは中学生当時コサキンに投稿ハガキを送っていたという。個々の芸人はもちろん、お笑い界全体を敬い、テレビ朝日に入るとまずスポーツ局で仕事を覚え、念願のバラエティへ配属されると、巧みな話術でキャバクラの酒席を仕切り、若手芸人や制作スタッフ、幅広い人脈を築いた。常にお笑い本位だから、同じように良いものを作りたい芸人・スタッフに慕われ、ロンハーの不道徳な企画や、アメトークのネガティブなテーマ(運動神経悪い・中学の時イケてなかった・好感度低い)も成功。ネタをやる番組ではないのにお笑い的なステータスが高い。

思えば、だいじょうぶだぁでは、脇を固めるいしの・田代・松本典子・桑野信義と、志村さん以外はアイドルと音楽出身で、常に一生懸命だがお仕事でやってます感のある松本典子に対し、やる気がないように見えてハマると無類に輝くいしのようこというのは、ロンハー/アメトークのノンフィクション性とも近く、全員集合の練られたコント、歌手などと組む合唱隊や小コントで培われた志村けんさんの芸が頂点に達し、次代への露払いともなった、貴重な瞬間だったろう。いしのとの夫婦コント、ひとみ婆さん、絶品だったなァ~




iTunes Playlist "志村けんプレイリスト" 54 minutes
1) Otis Redding / Security (1964 - Pain in My Heart)


2) Groucho Marx / Lydia the Tatooed Lady (1939 - The Very Best of Groucho Marx)


3) ラッツ&スター / め組のひと (1983 - Back to the Basic - Very Best of Rats & Star)


4) The Beatles / I Should Have Known Better (1964 - A Hard Day's Night)


5) Wilson Pickett / Don't Knock My Love, Pt. 1 (1971 - A Man and a Half: The Best of Wilson Pickett)


6) キャンディーズ / やさしい悪魔 (1977 - 2000 BEST キャンディーズ)


7) Randy Crawford / Almaz (1986 - Abstract Emotions)


8) Teddy Pendergrass / Do Me (1979 - Teddy)


9) 柳ジョージ&レイニーウッド / さらばミシシッピー (1981 - HOT TUNE)


10) Charley Patton / Mississippi Boweavil Blues (1929 - The Rough Guide to the Blues Songsters)


11) The Rutles / Cheese and Onions (1978 - The Rutles)


12) 中島みゆき / りばいばる (1979 - 中島みゆき THE BEST)


13) Santana / Africa Bamba (1999 - Supernatural)


14) Otis Redding / I've Been Loving You Too Long (to Stop Now) (1965 - Otis Blue/Otis Redding Sings Soul)


15) 喜納昌吉&チャンプルーズ / ハイサイおじさん (1977 - 喜納昌吉&チャンプルーズ)