無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品を集中的に堪能する期間なんてものを設けてしまうと、いざスタジオ盤のアルバム『初恋』を聴いた時に色々と引っ掛かる場面が出てくる。

「あれ?『あなた』の次が『道』じゃない?」とか「『too proud』が終わっても又吉が喋り出さないぞ?」とか「『本当は誰も知らない』の後に『風に吹かれ震える梢が』って歌い始めるのがえらく早いな!」とかまぁ慣性というか慣れって怖いねというのをよくよく痛感致しますのよ。


時々、ヒカルの昔の曲の事を忘れられたらなぁ、と思ったり思わなかったりする。“ライブバージョンならでは”を楽しむにはスタジオバージョンを聴き慣れている必要があって、「CDではあぁだったのにライブではこうきたか!」という驚きは、コンサートに挑む際にある程度頭の中にオリジナルバージョンの残像がくっきりと存在していないといけない。例えば「『Stay Gold』をバンドアンサンブルで!?」という驚きは、オリジナルのスタジオバージョンがピアノ主体のベースレスサウンドだということをインタビューで聴いてそのつもりでトラックを観賞してという一連のプロセスを経たからこそ生まれるものだった。それがなければ「なんか聴き慣れたのと違うなー」とか「この曲CMで聴いたことある!」とか「あー知らないや。新しい曲?」とかそういった反応になっていただろう。スタジオ盤を聴き込んでおくことは、特にライブコンサートに参加する時にはかなりの威力を発揮しよりコンサートの中身を味わえるようになる訳だ。

逆に、知らなかったらどうなっていただろう?という興味が湧いてくるケースもある。『WILD LIFE』での『愛のアンセム』はスタジオバージョンでの『Hymne à l'amour』と『Spain』のマッシュアップに慣れ切っていたからこそのサプライズなピアノと歌での一本勝負だったのだが、もしそのマッシュアップを知らずにあそこであの日の横浜アリーナで『愛の讃歌』のヒカル独自の訳詞による『愛のアンセム』を初体験していたらどんな気分転換だったろうか、と。スタンダードとしての「愛の讃歌」は知っているけどマッシュアップは聴いたことなかった、っていうね。サプライズの質がまるで違っていたのではないかと。

贅沢極まりない思考実験なのは承知。しかし、普段からこういった事まで考えているからコンサートの2時間余りを存分に楽しめるのだ。ライブの決まっていない時期もこれを自分が生で聴いていたら、なんて風に意識するかしないかで大分違ってくるのだ。そう、次のライブへの参加はもう始まっているのですよ皆さん。普段からヒカルの過去音源とどう接しているかで(果たしていつになるかわからない)次のヒカルのライブでの楽しみ方が変わってくるのです。『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品を観る時も「今度は(今度も)自分があそこに居るんだ」なんてことを考えながら堪能してみてください。きっと色んな聴き方を新しく発見出来ると思います。

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「聖域(Sanctuary)」での時間のありようは独特だ。どうしても「球形」という形容を使いたくなる等方性の感覚。

時間の流れというのは非対称的だ。過去はひとつに決まっていて確固たるもの、未来は未定であやふやなもの。そのイメージから抜け出すのはなかなかに困難だ。だが『Passion』と『Sanctuary』はそこから抜け出る術を教えてくれる。

『after the battle』の構成は、その神秘的な感覚を抽出した前半とそこから躍動感溢れる時間の流れが生まれる後半とで成り立っている。そこを繋ぐのがpassion flowerたるトケイソウの模様「時計」だ。

考えてみれば「時計」はとても不思議なものだ。それ自体は別に何も流れていない。同じところを同じように延々ぐるぐると回っているだけ。それはアナログ時計でもデジタル時計でも砂時計でも日時計でも変わらない。言うなればただの「振動」に過ぎない。

だが、我々はそれを見て冒頭で触れたように不可逆な、次々と未来が今を通して過去として固定化されていく“流れ”を感じ取る。それは時計のありようからは随分と離れたものだ。行ったっきり帰ってこない「振動」とは対局にある何か。

そのイメージのズレを、『Passion』と『Sanctuary』は埋めてくれているように思う。もしかしたら“時間の流れ”というのは、物理的に厳然と存在するというよりは、我々が『聖域』を感じながら「時計」を手にした瞬間に生まれ出でるものなのではないかと。

つまり、時の流れが先にあって我々がそれを時計を通して感じているのではなく、時計が先にあって我々の聖域と反応することで後から時間の流れが生まれてくるのではないかと。その見地に立った時に漸くヒカルの「今の22歳の私には12歳の私も42歳の私も共に在る」という発言の感覚の一端にふれれた気がした。

勿論、総てではない。ヒカルの感覚は宇宙から音楽を取り出せる超常的と言っていいものなのだからおいそれと理解したと言い放てるものではない。しかし、その表現物を通せばこうやってちいさなきづきを積み重ねていくことができる。僕らに対するお裾分けの蓄積である。それを知れれば、怖かったものも怖くなくなる…まではいかなくとも、その怖さの在り処を知る事くらいは出来るようになるかもしれない。そしてそれは、途轍もなく大きな事で、だから歌は振動を化身として球体の真ん中から僕らの誰に対しても響いてくるのだ。それは音すら超えた何かであって、やっぱり最初と最後は光なんだなと。そして時は流れ出すのだ。

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