無意識日記
宇多田光 word:i_
 



何度だって言うけれど、『Passion ~after the battle~』のヒカルの歌唱はやっぱり絶品だ。今の発声で歌うとどうなるかも知りたいわ。


『Passion』の世界では時間が流れていない。それを理解するには、まずヒカルの時間の感覚がどんなものなのかを知らねばならない。例の「12歳22歳42歳」発言だ。

「22歳の私には12歳の私も居る」というのはわかるのだ。例えば私が今こうやって日記を書けているのも12歳までの私がちゃんと国語の授業を受けて漢字を覚えていてくれたからだというのは日々実感している。勿論殆ど無意識に出てくる事なのでそうそうはっきりとした感覚ではないが、「ゆ」の書き取りをしながら「お魚みたいだなぁ」とぼんやり考えていた6歳の頃を思い出したりする。暗算だって料理だって何だってそう。昔の自分に助けられていまの自分は動いている。今年の自分は来年の自分に貢献できるのだろうかと考えると正直に言えばもう心許ないのではあるのだけれどね。

しかし、ヒカルは未来の自分もたった今共に在ると仰る。これがわからない。22歳の時点で42歳の自分の存在をも感じているのだと。20年後なんて生きてるかすらわからないのに。未来の自分なんてそういう生死まで含めて可能性があり過ぎてとても傍に居るようには感じられない。過去ですら分厚過ぎて全部を活かし切るなんてとても出来ないというのに。

しかし、ヒカルの感覚はそういうことではないのだろう。それこそ『Passion』に描かれているように、未来とは、もっと未来から振り返ってみれば過去と同じようにひとつに決まっている何かなのだと。確かに捉えづらい感覚だが、だからこそこうやって歌にして音楽にして表現する価値があるのだろう。

ここまで来ればヒカルにとって時間とは川のように流れていくものではなくなっていた。確かに『DEEP RIVER』まではヒカルにとってももしかしたら時間には流れがあったのかもしれない。何しろアルバム・タイトルからして流れの象徴である「河」だしね。それが『ULTRA BLUE』に至って、青空のような広い広い何か、青々とした天球のような丸い何かになっていった。そこのところを表現したのが『Passion』だった。

この曲を直感で理解出来る、説明や分析無しで納得できるというのは、少なくとも『ULTRA BLUE』の頃のヒカルの感覚を持っているということだ。自分にはそこまでの感覚はなかった。だが、そうなのであろうなと推測する事は出来た。だから次(の次)に『This Is Love』が来た時に納得出来たのだし、30秒で5000字も書けたのだ。懐かしいな13年半前。

今で言えば『夕凪』だろうね。タイトルが暮れる太陽と止まる風。凪というイメージに時間の止まった感覚を重ねる。ただ、これは本当にお母さんの時間が止まったことをも連想させる為、『Passion』の描く“聖域”からは少し遠い気がする。聖域での時間とはもっと……という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




QWERTYにも慣れてきたので今度はSimejiをテストしてみる期間。ポケベル入力が懐かしい。

自分の場合入力方法は内容に直結している。あらかじめ何を書くかが頭の中で定まっている場合はどんなキーボードを使おうが変わりはないのだが、この日記は多くのケースで行き当たりばったりなのだ。考えながら書いたり書きながら考えたり、しまいには書いてから意味を考えたりと非常にせわしい。そういったケースでは文字が生成されるペースと頭が考えるペースのレシオ、比率が重要になってくる。

ガラケー時代からよく「その文字数を親指1本で」と呆れられてきたものだが、スピード自体というより寧ろ比率の影響が大きい。考えてる事を文字にするといっても、例えば自分の場合ありきたりなコラムを一篇800文字整えるのに約15秒かかる。が、800字を15秒でタイピングする方法はない。両手キーボードでも数百秒かかるだろう。日本語は変換が入るのでアルファベットとは事情が違う。予測変換を駆使しても数十秒単位の短縮だ。レシオの前にスケールが異なる。

なので逆にタイピングスピードがある程度遅くレシオが整数比になってサイクルが安定する方が書きやすい。次の展開を考えて組み立ててというひとまとまりとタイピングのペースが噛み合えばスムースに文章が生成される。そうなるとさほど推敲の手間も要らず後始末は誤字の掃除だけで済む。このサイクルが合わないと無駄な文章が差し挟まれたり必要な一文を飛ばしてしまったりして推敲にやや時間が取られる。タイピングが速くなったからといって完成が早くなる訳では無いのである。わかってもらえるかなぁ。


ヒカルさんの制作と創作にはこのサイクルという概念が無い。ゆえに大したインターバルでもないのに少し音沙汰が無いと健康を心配されたり事務所に問題があるのではとかレコード会社がどうのとかレーベルがどうのとかまで言われ始める。懐妊説も飛び出した。まぁその場合はおめでたいので歓迎なのだが、要はピッチや頻度自体よりもサイクルなのだ。まだ復帰して3年半、その間にレコード会社移籍を伴ったりして慌ただしくまだ「新譜発売からツアー」の流れも1回しか完遂していない。これではリスナーもサイクルを感じる事が出来ずに不安になるのも仕方がない。

2010年より前にある程度ファンをやっていた人間ならば「宇多田ヒカルはサイクルがないのがサイクル」と禅問答並みの悟りを開いているので問題は無いのだが、周りのスタッフは若いファンに対してその境地を知れという態度では少し冷たいのではないのかなとも思う。スタッフとはいえ公式がほんの少しファンとツイッターで戯れるだけでも大分違う。ヒカル以外の仕事もあるからというのならその旨呟いてしまえばよいのだ。確かに「それもバランス」ではあるのだが、不用意な発言さえなければ露出は一定の頻度である程度は確保されていた方が印象はいいだろう。気まぐれアーティストであるヒカルさんのフォローはそうやってなされるべきだと、コンスタントさ重視の無意識日記さんとしては思うわけですよっと。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )