無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『あなた』はヒカルが初めて「母から息子へ」という視点で書いた詞だ、と珍しく(まともにリリースされる前から)言及していたのでこれは取り敢えず事実。しかし、歌詞として聴き手いや読み手は様々な事を考える。幾つも視点を変えてみるのだ。

・母から息子へ
・息子から母へ
・娘から母へ
・母から娘へ

わかりにくいが最初の二行の母はヒカルで、次の二行の母は圭子さんだ。娘はヒカルである。

どうでもいいといえばどうでもいいのだが、あたしたちはヒカルのお母さんをどう呼べばいいのだろうか? 演歌歌手としては藤圭子さんだが、ヒカルのお母さんやら照實さんの時々奥さんやらの時は宇多田純子さんだ。U3関係者としてみた時も宇多田純子さん。

勿論、演歌歌手として図抜けて有名なのだし、別に知り合いでも何でもないので芸名を呼び捨てにするのがあちしら庶民の対処法だと思うが、こうやって娘が母として歌詞に取り上げてくれている場合、「藤圭子」という"ブランド"は関係あるのだろうか?

歌詞の点でいえば、『大空で抱きしめて』の

『純なあなたが誤解するから』

の『純』は「宇多田純子」の純だと推理する人がいて、随分だなぁと感心したのだが、他の箇所に出てきた「純」であればそんなのはこじつけだと一笑に付するところを、この箇所に限っては、かなり明らかに『純なあなた』がヒカルのお母さんだと解釈するのが歌詞に対してかなり自然なので、その推理は多分に妥当だと結論付けたくなり、結果我々は歌詞について語る時、「藤圭子」ブランドよりも「宇多田純子」呼びを基本にした方がいい、のかも、しれない。

「どっちでもいい」。これも紛う方無き本音である。歌詞は結局虚構なのだから如何に現実に端を発する内容でもまるごと虚構として捉えておけばいいんだしそれならば登場人物のモデルが誰であろうと歌詞は歌詞として吟味するのが正攻法だ。そんな中でモデルの人の呼び方云々は確かに枝葉末節だ。

なので、今まで議論してこなかったが、ヒカル個人としたら何と呼ばれるのが嬉しいのだろう?というのがふと気になった。何しろ第一、普段の生活で母親の名前を呼びかける機会などなかなかない。「母さんちょっと」とか「うちの母が」とかいう感じで、「うちのせっちゃんが」とかいうのは結構珍しい。ヒカルも、ママだとかお母さんだとか呼んでいた筈で、極端な話こどもの頃は「藤圭子」はおろか「宇多田純子」という呼び方でさえもどこかヨソ行きというか、何だか遠い所の人になったみたいな感覚を味わっていたかもしれない。

と、言いつつ。「家業を継いだ」ヒカルにとって「藤圭子」はまさに「先代が守り続けた大看板」であって、存在を尊敬し精神を継承する対象だ。その想いもまた母に対する強烈な愛情として発現するハズなので、ヒカルにとって「母は藤圭子」という表現も大変リアリティがあるのだと思う。ズバリこの問題、ヒカルは真正面から検討した事がないかもしれない。「お母さんに会いたい」とか「ママ くま くま」とか歌っている間はそれが圭子さんでも純子さんでも同じなのだから。その中で『大空で抱きしめて』の歌詞は検討に値するのだがこれはなかなか確かめようもない。また折りに触れてこの問題は細々と探っていきたい所である。

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『Fantome』のリリース時に好評だったのが「プレイパス」の導入だった。CDを買った人にスマホへのダウンロードパスワードを贈るこの制度、「パソコンの円盤ドライブでリッピングして取り込む」のができない人や面倒な人にとっては朗報だった。私なんぞはあんな謎文字列入力する神経使う位やったらとっととPCに取り込むわい、と思う人種なんだが今の子たちはそもそもPC持ってないし、持っててもディスクドライブがあるとは限らない。そりゃまぁプレイパス様々である。

時限性だったのが気に食わないが、次回もこのプレイパスは導入されるだろう。前面に押し出す位がちょうどいいかもしれない。

「アルバム」という単位はPop Musicの歴史の中では後発である。クラシックやジャズと異なり、一曲毎がラジオでヒットするか否かが生命線だったのだから。いつのまにか(大体ビートルズのせいと言われてますな)アルバム主体の産業になった感じで。アメリカではストリーミング時代に合わせアルバムという単位を解体しプレイリスト主体で新曲をリリースするのも珍しくなくなっている。

プレイリストというのは要はパーソナルカスタマイズドラジオだ。曲をローカルに保存できるのにラジオと呼ぶのは違和感があるが、日本のラジオもタイムフリーのお陰でライブラリ化している事を考えれば「似たようなもんだ」と強引に言いたくなる気持ちもわかって貰えるかな。もう違いはDJが喋るかどうかだ。音声合成も含めて、これも垣根がなくなっていくだろう。

という訳で、ややこしい。

やはり、「なんか色々あってややこしいからCD買っときゃ問題ないだろ」と考えるのがアラフォー以上の世代では最大多数派のままだろう。『Fantome』のミリオンのうち3分の2以上がCDだ。あれからまだ2年。そうそう購買態度は変わるまい。

しかし、変わる時は変わるものだ。縦長シングルを出さなくなったのはいつから? VHSを出さなくなったのはいつから? 着うたをリリースしなくなったのはいつから? マキシCDシングルを出さなくなったのはいつから? 総て皆「いつのまにか」という感じで消えている。『桜流し』のDVDシングルをリリースできたのなんて奇跡に近かったのだ。

どのメディアも永遠に不変存在する訳ではない。「プレイパス」だっていつまで続くやら。その変化についていけないせいでヒカルの歌を買わなくなる人が出ない様な工夫が欲しくなる所だ。

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