無意識日記
宇多田光 word:i_
 



音楽がどんどん小さい単位に切り刻まれていく中で、人は常に自らの嗜好に基づいた選択を強いられる。それが心地よいと思う向きもあればそれは窮屈だと感じる向きもあるが、実際に欲しいものや選択肢の多さやそれに伴う自由、ではないだろう。音楽に触れた時の感情をこそ欲しているのであり、それが得られるなら、寧ろ選択の手間は煩雑ですらある。ぐうたらを極めれば、寝ているだけで自分に感動的な音楽が次から次へと流れてくるのがいちばん好ましい。

いや勿論、実地の楽しみはそれにとどまらない。煩雑さも趣味の世界では醍醐味のひとつですらあるといえる。マニアは、広大な砂漠の中から砂金を探し出すような執念で隠れた名曲、隠れた名盤を見つける事に快感を覚えたりする。そこまでの苦労は御免かもしれないが、多少の煩わしさもまた魅力のひとつではあるだろう。

斯くして状況は二分される。細分化され整理された選択肢の中で、常に自らの感性をはたらかせて取捨選択していく道と、何かを信じてついていき、そこに運命を託してしまう道とだ。

ヒカルを熱心に、プライオリティとして追いかける層というのは、知らないうちに後者の道に飛び込んでいる。別に自らの感性の新しい側面を発見したくてヒカルを追いかけている訳ではない。ただ好きだからいつの間にか後を追っているだけだ。しかし、その足跡の何と豊かな事か。果たして、00年代にひとりのアーティストを追ったとして、これより豊かな楽曲群に出会う事が出来ただろうか。誰か居たのなら教えて欲しい。まぁ尤も、生の演奏会という面ではくじ引きばかりでまともに見た事もない人が大半だろうが。

まぁそれで勝ち誇る事も出来ようが、そんなにそんな気分でもない。ここまで連れてきてくれて感謝、としか言いようがない。ひとつひとつのまるで異なる、恐らく他の道筋でやってきても気にとめなかったかもしれない魅力にいちいち気づかせてくれた事。ヒカルが歌ってくれたから耳を傾け、喜ぶ事が出来たのである。最高の導き手といっていい。

一曲単位どころかパーツ単位で音楽を取捨選択して楽しんでいる世代に、ひとりの人を執拗に追いかけて耳を傾けている層がどれ位居るだろうか。少なくとも、昔に較べて目移りするものが目の前にあり、それを手にとる事も格段に簡単になった。移ろい易い人の心が実際に移ろえる環境は整っているのだ。

いや確かに、私は考え違いをしているのかもしれない。移ろい易い世の中だからこそ、何か確固たるものに縋って安心したい、という心理がはたらくのかもしれない。だとしても、宇多田ヒカルという人は縋るには非常に不都合な人物だ。なにしろ、何かあったら常に「いきあたりばったり」が発動する。強いプロフェッショナル精神によって、いちど引き受けた仕事はきちんと遂行するがでは次がいつ何になるか、という"予定計画表"はなかなか定まらない。その上、オーバーワークで度々身体を壊すという事態を招いている。別に身体が弱い訳ではなく、限界を知らないと気が済まないという感じな訳だが、そんな彼女を多くの人は心配ばかりしている。安心を与えない人間に縋る、なんて事はなかなか出来ない。それでもついていく人は居る。

結局、結果論なのかもしれない。別に深く考える必要はない。ただ好きだからここに居るだけだ。難しいのはその「好き」をどう持続するか、離さないか、だろう。

この点について私は、正直に告白せねばなるまい。「そんな事で悩んだ試しがない」のです、すいません。もし何かあるのなら、好くとか惹かれるとかいった感情自体を裏切る事態に陥った時だろうか。まぁそこに至っているなら心は完全に壊れてしまっているともいえる。そうでもならない限りそういう悩みは有り得ない。

何故私はそんなに"自信めいた態度"で居られるのだろうか。それは、こういう風に常に分析的だからである。ヒカルのしている事はこれこれこういう事で、してきた事は今となってはこんな感じで、これからする事はこういう風ではないかと考えられ、かつてこうなるのではないかと考えた事はこう裏切られこう的外れだった、そんな事ばかり毎日考えて感じていると、彼女を見失わないのだ。何かこれも逆説的ではある。分析とは切り刻む事であり、対象を本来でない姿に崩すような印象もあるからだ。しかし、こうやってblogを書いているとそうではない事を痛感する。

その証拠に、と言っていいのかどうかわからないが、光の新曲がつまらないと思った試しがない。これは、ちょっと変かもしれない。光自身は曲ごとにその都度好き嫌いをみてくれればいいと考えているのだから、どの曲も素晴らしいと言われても嬉しくないのだ。これは好きだけどこっちはそうでもない、と正直に言って貰った方が参考になる、為になるのだもの。でも、私はそうしている。一曲ごとに判断しているのだ。それでも、毎回絶賛せざるを得ない。

勿論大前提として光の作る曲が総て精魂と丹精が込められているという事実がある。しかしその事実を感じとれるかどうかは別だ。こうやって、楽曲が世に出る度にこれは今までの楽曲とどういう関係性にあり、どういう風に特異であり、何が似ていて何が違っているのかを常に見極めてきたから、新曲が出る都度そこにある新しい創造性に気がつく事が出来ているのだ。今までのことがアタマに整頓されて入っているから次を受け入れる準備が整うのである。その意味において私は音楽家としての宇多田光を見失っていないのだ。これからどうなるかはわからないけれど。

つまり、trapとは音楽との接し方が多様化する中で、分解と統合のプロセスの中で、自らが何に惹かれてここに居るかを見失わせる数々の要素の事を指すのだ。それは、音楽をパーツにまで分解し、更にそのパーツ同士の関係性を包括的に捉え得るパースペクティヴを得る作業を通じて避けていく事ができる。技術的に発展した今の状況を最大限利用するのである。ripとwrapの相互作用でtrapを回避する事ができる。だが、ripの流れに飲み込まれてしまうと容易にtrapに巻き込まれる。適宜rip&wrapを繰り返す事によって、貴方の知っていた魅力を見失わずに済んでいく。私がこうやって長く居られるのは、偏にその帰結なのである。


まぁ、"そうしていられること"が、望ましいことなのかどうかは、私にはわからないが。ただ、今まではそうであった、というだけの話。そして、それを変える気がない以上、暫くはこのまんまだろうなぁ。たぶん、ずっとなんだろうが今は控えめにそう述べる程度にしておこう。

流石にもう続かない(笑)。でもま、このblogは全部が続編みたいなもんだけれどね。

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曲ごとに分断された世界とそれに対する是々非々の評価。ヒカルの活動スタイルでは固定ファンがつきにくいがそれでもヒカルには固定ファンがついている。その理由は何か。

様々ある。顔が好き、メッセやツイートが面白い、それに伴って考え方や感じ方に共感した、性格がいい、兎に角心根が優しくて切なくなる、、、等々あるだろうが、要するに「人として好き」なファンが固定ファンとしてついているのだ。一貫して音楽を主軸に勝負してきた根っからの"音楽家"としては皮肉なものだと捉えられかねない状況ではある。

"人として"好かれている人間が目下"人間活動"に従事しているというのもまた皮肉といえるかな。或いは、人間的に愛されていく中で、それなら人間力をもっと高めようと思い立ったのかもしれない。わからない。兎も角どこか"音楽と関係ない所で"話が進んでいる。

更なる含意は、そうやって人間的な面を支持してずっと追い掛けているファンの方が、ヒカルの曲を、音楽を、その変遷を楽しみ尽くす事が出来ている、という面だ。是々非々というときこえはいいが、それはつまり一回耳にして気に入って貰えなかったらそれっきりという事も意味する。あっさりドライなのだ。ヒカルはそれを望んでいるのかもしれないが。

しかし、熱心に追い掛けているファンはまず、新譜新曲が出たら取り敢えず買って聴いてみる。この時点で既に違う。曲によってはタイアップが弱く、或いは偏っていて曲の存在自体が知られない、なんて事態も引き起こしかねないが、そういう事がないのである。

その上に、だ。一回聴いてそれほどピンと来なかったとしても、そこで放置してしまわない。「どういうことなんだろう?」と二度三度聞き込んでくれるのだ。この差がいちばん大きい。読者の皆さんも、「聞き込んでるうちに好きになっていった曲」が幾つもあるのではないだろうか。

これが、曲ごとに評価する層とアーティスト毎応援する層の最大の違いである。一見、偏らずにあらゆる音楽を曲ごとに評価するスタイルの方が幅広く音楽を楽しめそうな気がするが、その実、自分の感性自体は新しい領域に踏み込めない。広い世界を相手にしているようでいて、実際は自分の庭にとどまっているのである。

ひとりのアーティストを追い掛けていくというのは随分と偏った音楽の楽しみ方になりそうなものだが、そのアーティストが常に新しい領域に踏み込んでいく気質を持っていた場合、ファンもいつの間にかそれに連れられて新しい感性の領域に踏み出す事が出来る。こうなって初めて、"新しい世界"を知る事が出来るのだ。

突き詰めていえば、アーティストが(導き手として)信頼されているか、その点に尽きる。ヒカルは、音楽性が一定でない分、人としての魅力でファンをひきつけて、その上で音楽性でもって魅了している。仕組み、仕掛けとしてはなかなかトリッキーではないだろうか。

…まだ続く、かな? 別に続きものでなくてもいい気がしてきたけれども。

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