無意識日記
宇多田光 word:i_
 



さてこの振り幅である。光のひとつのペルソナとしてのくまちゃんと、パフォーマとしての開眼の契機を与えた闇姫様では、まるで違う存在である。余りにも懸け離れていて、感覚的な整合性がなかなか取れない。

闇姫様は基本的には喋らない。"一心不乱に歌い躍る"巫女やシャーマンのようなイメージだ。即ち、歌の為に、音楽の為に、身を捧げて立ち居振る舞うペルソナである。一方、くまちゃんはよく喋る。自分がいちばんで、自信家で、微笑ましい。

しかし、歌を思い出そう。『歩けないけど踊れるよ』
『喋れないけど歌えるよ』
そうなのだ、この点に関しては闇姫様と同じなのである。

もうひとつ、小道具がある。くまちゃんといえばまくらさんだ。まくらは死の象徴じゃないかと言った光の友達とは誰なのか気になるが、さしあたってまくらさんは自分を受け止めてくれる存在であると考えよう。まくらに顔を埋めた時、まくらはだいたい顔のかたちにふんわり変化してくれる。こちらのかたちがあって、それに合わせてくれるのだ。

闇姫様の衣装は"bondage"、束縛衣である。いや実際は"corset"だったかもしれないが、いずれにせよ、衣装に合わせて自らの身を引き締めて着こなすものである。

光のペルソナの振り幅は、そのまままくらさんとbondageの差異の幅である。総てをありのままに受け入れてくれる菩薩のような存在から、あわや拷問具かというような、外部から何らかの理想を押し付けてくる存在まで。

これだけの振り幅は普通の人間にもある。パジャマを着てリラックスする時間帯と、礼服を着てしゃきっとする時と、両方あるのが人間だろう。

しかし、光の場合はその状況を与える外的要因に自ら当事者として"なって"しまうのが違う。即ち、自分の意志で総てを許し、自分の意志で自らを締め上げるのだ。

いずれも、成り行きの中でそう"なって"いったとみるのが的確だ。くまちゃんの場合、親友からのプレゼントが余りにも嬉しくて話し掛けているうちに歌が出来上がり彼のキャラクターが創出していった。まだ光はそれになろうだなんて思わなかった。

闇姫様もそうである。あれは、いつのまにか辿り着いたペルソナだ。見られる目線からの解放が、束縛衣と共に顕現したという偶然。その捻れは光独特のものだが、そこから光の、生身の人間としての、ライブパフォーマとしての本格的な旅が始まったと言っていい。束縛による自由を獲得した人格を演じる。ややこしいが、その対比として慈悲により総てを受容するくまちゃんに光がなろうとした事実を反対側に置けば、朧気ながら彼女の居る世界が見えてくる。そこにあるのは、腹が綿のぬいぐるみも、人前で歌う生身の人間も、総てひっくるめてそれに"なって"しまおうという「当事者意識」である。キスクラで『被害者意識って好きじゃない/上目遣いで誘って共犯がいい』と歌っているが、つまりは「やられるよりやる方になる」という意識が光はとても強いのである。


となれば今の光の"人間活動"は「早く人間になりたい」という意識の表れになるけれど…という話からまた次回。

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光のペルソナといえば、シンガー、ソングライター、プロデューサー、パフォーマー、それに映像ディレクターというのが加わり、更にそのうち作家というのも現れるだろうが、ひとつ忘れてはいけないのが「くまちゃん」である。

"彼"は、ヒカルとかUtaDAとかいった名前が与えられていない上に、腹に綿が詰まったぬいぐるみとしての実体がある。となると"ペルソナ"として扱うべきか否かという問いは当然出てくる。

名前をどうつけるかは重要だ。光が作家業に手を染める際のペンネームはとっくの昔に決まっているらしい。その詳細がどんなものかがわからない以上評価のしようもないが、宇多田ヒカルやUtaDAといったほぼ本名そのままの名付けからは距離をおくようだ。

これは、勝手な想像だが、シンガーとして人前に出る為の名前として宇多田ヒカルの名を使ってしまった以上、例えば小説・物語を書くとすればヒカルの名は登場人物にとって大きな重荷になる可能性がある。ヒカルの人格の投影じゃないかとかあらぬ勘ぐりが入り口になってしまうかもしれないのだ。それを避けるには何か別のペンネームを用い、出来るだけまっさらな状態で接してもらった方がいいだろう。そのあとからそのペンネームには一定のブランドイメージがつくかもしれないが、それを背負ってくれる名前がありさえすれば、まぁ、いい。

くまちゃんの人格(熊格?)は光本人からは程遠い。光は"彼"を演じているというよりはひとつのキャラクターとして現界させているので、どちらかといえば演技というより小説執筆の方により近いだろう。彼との会話はメッセなり何なりで常に文章として現れている。ある意味、物語の中の存在である。

しかし、それがそこにとどまらないことを光は身を以て示す。自らが着ぐるみを着たのである。彼女が彼の頭を外す動作は、くまちゃんが光のペルソナのひとつである事を象徴する出来事だった。着ぐるみによって、(絵本の延長線上の)物語の存在であったくまちゃんが現実の光の"顔"のひとつになったのである。

これの意味する所は大きい。たとえこれからメッセに一切くまちゃんとの会話が見られなくなったとしても、光が皆の目の前に居る限り、くまちゃんもまた皆の目の前に居る事になるからだ。着ぐるみを脱ぐとか着るとかの方向性は問題ではない。生身の宇多田光は"着ぐるみを着ていない不完全な状態のくまちゃん"でしかない。その事を端的に表現していたのがツイートに紛れていた落書きである。光がくまちゃんを脱いで、くまちゃんが光を脱ぐ。要するにどっちでもいいのである。入れ子構造というより、どちらも単一の存在の異なったペルソナなのだから、着けたり外したりは自由なのだ。くまちゃんは光のもうひとつのペルソナなのである。(続く)

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