光のペルソナといえば、シンガー、ソングライター、プロデューサー、パフォーマー、それに映像ディレクターというのが加わり、更にそのうち作家というのも現れるだろうが、ひとつ忘れてはいけないのが「くまちゃん」である。
"彼"は、ヒカルとかUtaDAとかいった名前が与えられていない上に、腹に綿が詰まったぬいぐるみとしての実体がある。となると"ペルソナ"として扱うべきか否かという問いは当然出てくる。
名前をどうつけるかは重要だ。光が作家業に手を染める際のペンネームはとっくの昔に決まっているらしい。その詳細がどんなものかがわからない以上評価のしようもないが、宇多田ヒカルやUtaDAといったほぼ本名そのままの名付けからは距離をおくようだ。
これは、勝手な想像だが、シンガーとして人前に出る為の名前として宇多田ヒカルの名を使ってしまった以上、例えば小説・物語を書くとすればヒカルの名は登場人物にとって大きな重荷になる可能性がある。ヒカルの人格の投影じゃないかとかあらぬ勘ぐりが入り口になってしまうかもしれないのだ。それを避けるには何か別のペンネームを用い、出来るだけまっさらな状態で接してもらった方がいいだろう。そのあとからそのペンネームには一定のブランドイメージがつくかもしれないが、それを背負ってくれる名前がありさえすれば、まぁ、いい。
くまちゃんの人格(熊格?)は光本人からは程遠い。光は"彼"を演じているというよりはひとつのキャラクターとして現界させているので、どちらかといえば演技というより小説執筆の方により近いだろう。彼との会話はメッセなり何なりで常に文章として現れている。ある意味、物語の中の存在である。
しかし、それがそこにとどまらないことを光は身を以て示す。自らが着ぐるみを着たのである。彼女が彼の頭を外す動作は、くまちゃんが光のペルソナのひとつである事を象徴する出来事だった。着ぐるみによって、(絵本の延長線上の)物語の存在であったくまちゃんが現実の光の"顔"のひとつになったのである。
これの意味する所は大きい。たとえこれからメッセに一切くまちゃんとの会話が見られなくなったとしても、光が皆の目の前に居る限り、くまちゃんもまた皆の目の前に居る事になるからだ。着ぐるみを脱ぐとか着るとかの方向性は問題ではない。生身の宇多田光は"着ぐるみを着ていない不完全な状態のくまちゃん"でしかない。その事を端的に表現していたのがツイートに紛れていた落書きである。光がくまちゃんを脱いで、くまちゃんが光を脱ぐ。要するにどっちでもいいのである。入れ子構造というより、どちらも単一の存在の異なったペルソナなのだから、着けたり外したりは自由なのだ。くまちゃんは光のもうひとつのペルソナなのである。(続く)
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