無意識日記
宇多田光 word:i_
 



さて話が偏ってきたので話題を変えてみよう。光は復帰後、どんなサウンドで来るのだろう?

最近、商業音楽レベルで"流行りのサウンド"というのが乏しい。この年代のクセ、みたいなのは何となくあるけれど(ミスチル聴いて育ってきたんだなぁこのコたち、みたいな)、どん!と押し寄せてきて百花繚乱、的な展開がない。Lady Gagaが売れようがAdeleが売れようが、要は彼女たちの個性の賜物であって何かのムーブメントとは違う感じだ。

これは、例えば日米2ヶ国を取り上げてみれば似た事情と異なる事情がある。似た事情とは両国とも21世紀に入ってアイドルがチャート上位を占拠するようになった事だ。日本はまぁ元々そんな風合いなのだが、米国ではアメリカンアイドルの成功が大きい。お馴染みバンマス・マット・ローディも一時期アメリカンアイドルのプロデューサーを務めた事があるという。それによって何が起こるかといえば、職業作曲家に対しての注文が具体的で細かいものになる、という事だ。こういうコが居て、こういう路線で売り出したいからこれこれこういう曲調で書いてくれ、という依頼。これの相手をし続けていれば、既存のサウンドジャンルに即したものが出来上がってくる。日本の場合はこれに、今米国で流行ってるヤツ、といったファクターも入ってくるがいずれにせよ同じである。アイドルが売れると、新しいサウンドは浮上しにくくなるのである。

日米で異なっている点の方。米国では、ジャンルの細分化が進みきってもう安定しているようにみえる。それぞれのジャンルの大御所がチャートの上位に現れておお~っとなり、しかし前後の順位のミュージシャンとは何の関係もない。一体、グラミー賞は現在何部門あるのだろう。ノミネート作品まで合わせたら年間数百とか千とか選出されてないか。紅白の出場歌手数なんて及びもしない。秋元康ファミリー全員の名前を列挙でもしない限り。まぁそんな訳で、ジャンル毎の棲み分けが出来てしまっているから、どこか特定のシーンで評価されないと浮上し難い。どこの馬の骨ともわからないアーティストは、ブルックリンでひねくれた人たちの感性にでも触れない限り道がないのである。よう意味わからんけど。

その日米両方の特徴の狭間みたいな所に、UtaDAのExodusは位置していた。当時光は頻りに「私は日本のブリトニーなんかじゃない」と強調していたが(同じ文句訳すの飽きる位にな(笑))、それはアイドルとして売り出そうという雰囲気を醸し出していたレコード会社へのクレームであり、紋切り型の見出しを欲しがるメディアへのコーションでもあった。当時21歳のプリティー・アジアン・ビューティーだったUtaDAは、アイドルとしてデビューするのを拒否したのである。

一方で、じゃあアーティストとしてどのジャンルに食い込んでいくのかというヴィジョンも持ち合わせていなかった。いや、ヴィジョン自体はこれ以上ない程に明確に持ち合わせていた。Opening&CrossoverInterludeで歌っている通り、「ジャンルの壁を超えたい訳ですらない」という、ジャンルという枠組み自体をあぼーんする、一種ラジカルな思想だったのだ。

こうなるとレコード会社は手詰まりである。折角若くて可愛いのにアイドルとしても売り出せない、ミュージシャンとしてアーティストシップを強調するからではどのシーンに殴り込もうかといえば、ジャンル分けそのものにも興味がないという。誤解を恐れずに言ってしまえば、ある意味レコード会社に同情してしまう。「どないしたらええのん」になってしまうわなそりゃ。

いやまぁだからって本人の嫌がるベスト盤をリリースしていい道理はないのだけどな。


あれ、前振りの前振り位で時間が来てしまった。続きはまた次回。

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人間活動の"成果"があったとしても、直接的にアーティストシップに影響を与える訳ではないんじゃないか、という見解をこれまで何度か繰り返してきた。それは即ち戻ってきた時に特に何の変化もないだろうという"安心材料"を与える事にもなるのだが。

人間活動突入前のコンサートの名称が"Wild Life"だった事。Lifeという語を使った曲といえばまずFlavor Of Lifeが思い浮かぶ。その味が『淡くほろ苦い』だった所から"Wild"とは随分と勇ましいなぁと思ったが、考えてみれば(世間的には)病気から結婚という流れで皆が"Hikkiも落ち着いちゃうのかな~"と思いかけたタイミングでは"20代はイケイケ!"というタイトルを打ち出していた。

そこらへんのバランス感覚である。これをどう解釈するか、だがやはり「元気出していこう」と自らを奮い立たせる面もあるのではないか。人間活動宣言からのち数ヶ月間元気にアーティスト活動に励んでいたものの、何だかんだで疲労は蓄積していた訳で、それをどうにかしようと"Wild Life" という勇ましい名称に辿り着いた、とも考えられる。

ここでのポイントは、ここでアーティスト活動休止に入るという事でその"どうにかしよう"が恒久的な効果を発揮できるかどうかである。つまり、これによって無期限休止はキャリア上最後になるんじゃないかという期待。願望も多分に含まれるのだが、今までの「頑張り過ぎて倒れたり倒れなかったり」という状況からの脱却を狙っているのではないか。確かに、自滅って野生っぽくないのよね。別に光が今まで病欠したのって他者に原因がある訳じゃない。寧ろもっと早く休む所を引き伸ばして頑張り過ぎてぷっつん、というイメージが強い。Deep Riverの時はそれでアルバムを完成させたし、Utada Unitedだって皆勤賞だ。素晴らしい。それでも結局This Is The Oneでの離脱は頭に残っていたのではないか。恒久的な対策を取りたくなっても不思議ではない。

ただ、そうすると"無期限"というのはどうなんだろう、とも思う。これが最後のLong Breakだというのなら、期限を区切らず自分が納得するまで、と捉えればいいか。

どう考えようが捉えようが、冒頭に書いた通り人間活動の影響が直接アーティスト活動に跳ね返ってくる事はないんじゃないかと思っているので、何がどうだったのかは光が具体的に語りおろすとかしない限り知りようもないかもしれない。ただ単に、待っている時間を納得する為の方便なのかな。でも、だとしてもそれがファンにとっていちばん必要な事なのだから、それはそれでいいような気もしている。

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