Goodbye Happiness PVディレクターの「宇多田光」名義について有り難くも早速タレコミがあったので紹介しておこう。以下コピペ。
「〈表現者としての宇多田光〉をコンセプトに掲げ、彼女自身が宇多田光名義で監督を務めたという本作。アーティストとしての宇多田ヒカルを演じるのではなく、〈表現=行為、生き方〉という意味での表現者、宇多田光をファンのみんなに見せたいという思いから、今回の実現に至ったという。自らコンテを描き、細かな打ち合わせにも参加、一発撮りで収録された映像には、彼女らしいエンターテインメント要素が盛り込まれている模様だ。」(タワレコ)
ふむ、要するに"ヒカル"は演技だが"光"は生き様なのだという事か。まだピンと来ない(笑)。歌手として、ライブパフォーマーとしてのペルソナを分ける所まではわかるんだが、音楽活動の大半、作詞作編曲プロデュースはそれなら"光"側の仕事じゃないんだろうか。最初の契約やら約束事やらで"ヒカル"名義で始めちゃったので以後もそうしてる、という程度の事なんだろうか。
映像として「見せる」要素が、他との違いを生んでいる、という見方がいちばん妥当かな。MTVをみるまでもなく、音楽に映像を付加するだけでファン層は異様な広がりをみせる。そういった、「聴く」に特化したファン以外にもリーチする事を考えた時、音楽制作の付随物にとどまらない、つまり"プロモーション"ビデオにとどまらない役割をこの作品には込めたのかもしれない。
しかし逆からみればこれは、"ヒカル"の方が演技、即ち"光"がロールプレイをする事によって生まれる仮想的な存在である事を露わにする。
GBHPVと(そして恐らく光PVとも)違って、その音楽家としての"ヒカル"の活動を演技によって表現したのが、Prisoner Of Loveだ。あれのお陰で、ナマのまんまではないにしろ「制作の舞台裏」を垣間見れた訳だが、今までの幾つかの点を踏まえるとそれは"演技の演技"だったのかという結論に至る。些か極端かな。
が、あのPoLPVの経験がGBHPVの作風をインスパイアした面はあると言うしかないんじゃないか。PoLPVは好評である。UTUBEではGBHPVの再生回数がいちばん話題になるが、PoLPVも先月500万回再生を突破した。曲自体の人気もさる事ながら飾らないヒカルの姿に惹かれてる、という向きも相当数居るんじゃないかとみる。その反応を光が知って「こりゃビデオ・ディレクションするなら本名の方がいいな」と思ったのかもしれない。これもまた、わからない。
いずれにせよ、本名名義での活動について、ヒカル名義での活動とはある程度区別しているとわかっただけで十分である。そこから先は、またここでこれから考えればいいさね。
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