という事で【ripped, wrapped and trapped 05】です。
音楽性で勝負している筈なのにヒカルのファンが音楽ファンである/になる確率は相対的に低い、みたいな話だったな。
わかりやすくいえば、その都度楽曲勝負なのでヒカルに対する期待感というのは常にあやふやというか、少し高次な話になってしまう事がままある。例えばTUBEの新曲が出たと聞けば夏場のドライブのBGMに最適かな、という期待が醸成される。喩えがベタな上に昭和な気がするがまぁいい。いやそれはどうでもいいや。ヒカルの場合、新曲が出るといった時に何を期待していいかわからない。「また切ない曲が聴けるのかな」と思っても、次にぼくはくまがリリースされたりする。いやあの曲も最高に切ない、という見方が出来るけれども。
音楽性以外でよく聴くのが、アイドルばかりのチャートに本物のアーティストとして風穴をあけて欲しい的な事だ。ここに至っては何だかアーティスト代表、ミュージシャン代表みたいな肩書きを背負わされそうなんだが、ヒカル自信はそういう気負いはサラサラ無い。
期待感、という点でいえば、いつのまにやらタイアップの楽曲に対して、タイアップ先との相性抜群な楽曲を書く人として認知されつつあるようには思う。Can You Keep A Secret?はそんなに合っているとは思わなかったが、光&PassionやFlavor Of Life、何よりBeautiful Worldの成功が大きかった。他のタイアップと違って、"誰も足を踏み入れたくない茨の道"に踏み込んで火中の栗を拾って飲み込んでみせたのだ。Q極の、いや究極の手際だったといえるだろう。あれ以来、宇多田の楽曲はタイアップ先とよくマッチする、という神話が出来上がった。
これもまた、具体的な音楽性に対する期待感ではない。やはりひとつ高次の、抽象的な機能としての音楽を作り出す事を期待されている。他のアーティストならば、たとえば夏の海の映画ならサザンが担当すれば大丈夫だろう、とか等身大の女の子を描いたドラマならaikoだろう、とか(さっきから微妙に例が古いなぁ)そういったある程度固定化されたイメージに基づいてタイアップへの期待感が醸造されていくだろう。しかしヒカルの場合、どんな作品が来ようが「ヒカルなら何とかしてくれる」と仙道的なポジションを期待されてしまうのだ(だから喩えが微妙に古いってばw)。これが"高次"たる所以である。
そんな感じなもんだから、実は"ヒカルのファン"って、離れ易いのだ。いちばんの原因は、作詞作曲プロデュース期間などに音沙汰がなくなって痺れを切らされてしまう事なのだが、その他に、「ふと気がついたら何をこちらから期待したらいいかわからない」状態になってしまう事も、ファンが離れ易い原因のひとつになっている気がする。
前からヒカルは"季節の風物詩"的な役割を果たす気がない、なんて事を私は書いてきた。折しも、丁度今の季節は各所でSAKURAドロップスが鳴らされる時期である。まだ咲いてもいないのに散る歌ってのはちょっとばかし気が早いなぁとは思うものの、こうやって季節ごとに思い出して貰えるのは有り難い。
しかし、だからといってヒカルは「SAKURAドロップスPart2」みたいなものは書かない。書けないと言ってもいい。普通は、既にやった事はもうやらない、なんていうアティテュードを掲げると"音楽性の劇的な変化"で賛否両論、みたいな展開になるのだが、ヒカルの場合は前は前、今は今、次は次、という風に楽曲ごとに物語が分断される為、ひとつの曲を気に入ったからといってそのまま"宇多田ヒカルファン"になるケースも、相対的にみれば少ないような気がするのだ。
話が一向に収束する気配がないが、たぶんまだ続きます。
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