無意識日記
宇多田光 word:i_
 



13日の金曜日というとBLACK SABBATHかQUEENの話をするのが通例になっている。前者が2月13日の金曜日に、後者が7月13日の金曜日にそれぞれデビューしたからなのだが今日は4月13日の金曜日。特にどちらでもない。まぁいいや。

光がフレディ・マーキュリーを尊敬しているもんだから毎度QUEENの話になる。だから今日はサバスの話でもしようかな。

ブラック・サバスはバーミンガム出身のヘヴィメタルバンド。というか、実質"メタル"と名のつく音楽の源流、総元締めみたいなもんだ。最早世代が交代し過ぎて彼らに直接影響を受けた…ってそんな話始めたら時間が幾らあっても足りない。要点だけかいつまもう。彼らは全世界規模でゴッドファーザー的扱いだが日本では人気がない。寧ろシンガーのオジー・オズボーンのソロ活動の方が人気ある位だ。何故か。彼らがデビューした70年代の10年間に一度も来日しなかったからである。

何しろジャンルのオリジネイターだからナマで体験しない事にはその凄みは伝わらない、というか、オリジナルの特徴とは、聴き手の中に新しい価値観を創発させる事にある。予め決められた評価基準では計れない何かを新たに人の心に介入させる作業。日本という国はブラックサバスについてこの作業を怠った。その為、サバスに源流を発するメタルの文化が育たなかったのだ。もっと踏み込んで言えば、サバスによって"音楽と接する"というライフスタイルを新たに獲得するはずの層を取り込み損ねたのだ。その結果何が起こったかといえば、「オリジナルサバスは日本人に合わない」という評価の定着である。違うと思う。サバスによって音楽を聴き始めるはずの人たちが音楽を聴く習慣を身につけなかったからだ。私は独断と偏見でそう推察する。

それ位にLIVEでの"体験"は影響力がある。ヒカルといえばCDや着うたの売上数ばかりに話がいくが、人の人生への影響力という点では恐らくLIVEの方が上なんじゃないか。光は歌は上手いがLIVEは決してうまくない。まだまだ成長の余地がある。歌はこれ以上どう歌うのかというレベルだ。それでもやはり、あそこに行ったら人生が変わる。変えたかろうが変えたくなかろうが変わってしまうのだ。それが最高に面白い。

その意味で、ヒカルのLIVEの本数が少なかった事は、オリジナルサバスが来日しなかったのと似た結果を生み出しつつあるのかもしれない。即ち、生まれたかもしれない文化が生まれ損ねている、或いは、規模が小さいままでいるかもしれない。わからない。今更言って仕方ない。学びたい教訓は、LIVEはやれる時にやれるだけやっといた方がいいというありきたりな話だ。しかし、サバス人気の彼我の差をみるにつけ、どうしてもたらればの話をしたくなってしまうのである。

何故こんなに私がLIVEにこだわるかというと、先程述べたようにそこに新しい価値観が生まれ得るからである。家で音楽を聴いていても、どうしても自分の価値観から抜け出た評価が下せない。そこが自分のHomeだからである。しかしLIVE会場はAway、相手の空間なのだ。そこに飛び込んでみる事で新しく生まれる事がきっとある。ちょっと理屈としてはなってないが、それが私の実感の表現である。確かに、私が光のLIVEに行かなかったら、いろんなことがこんな風にはなってなかっただろうから…


…だなんて書き方をすると最終回フラグみたいで笑える。勿論、次回以降もいつも通りへらへらと続きますよと(笑)。

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人間活動で人間力(?)が上がれば、復帰後はLIVE活動が盛んになるのではという期待も、なくはない。が、あの才能の多彩さを考えれば寧ろもっと活動の幅が広がり、LIVEはますます貴重になるかもしれない。それは危惧となる。

前からこの問題には触れているが、LIVEのプレミア感が増しすぎると内容の評価が不自然な方に傾く恐れがある。見に来れただけで満足、みたいな空気は必ずしもアーティストの為にならない。楽しみにきてるんだから評価云々みたいなギスギスした空気を持ち込まないで欲しいと感じる向きもあるだろう。私もそうだ。が、昔競技場をコンサート会場にするような超ビッグなバンドがコアなファンしか楽しめないようなショウを展開するのをテレビで見掛けた時、「やっぱりLIVEは熱心でない人たちにも観てもらった方がいいかもな」と思った。

コアなファンだけでスタジアムが埋まってしまうと、感覚が麻痺をする。何しろ、それ以上大きな会場がないんだからそこから何かを根本的に改善しようだなんて思えないからだ。観客が減るリスクをとる位だったら、確実に今までやってきた事をそのまま続ける方がいい、となるのは当然の成り行きというヤツだろう。

んだがしかし、私がヒカルに求めるのはそっちではない。出来れば、いつも言っているように、その晩暇な人がたまたまふらりと立ち寄った時に魅了できるようなコンサートを開いて欲しいのである。今のところ、しっかりそっちの方向で成長しているので心配はしていない。

送り手側がここから「内向き」になっていくとは考えづらい。寧ろ、ファンの側が内向き志向になりはしないかという懸念の方が大きい。そうならない為にもツアーを適切な規模で行っていった方がいい、となるのだがそこまで体力がもつかどうか。

ここらへんは二律背反なのだ。光がもし、更に新しい分野に進出したら―例えば小説を書いたとしよう、そこで新しくファンになってくれた人たちがLIVEに来るかもしれないのである。自分で書いた小説のイメージソングまで自作しちゃったりなんかしたら尚更だ。そうなるとますます「外向け」のLIVEをする必要が出てくる。嬉しい事態ではあるのだが。

逆の考え方も出来るか。本数を抑えればなれ合う事もなく常に新鮮な気持ちで向かい合う事ができる。それは確かにメリットだが、先程触れたプレミア感のデメリットとのバランス次第か。

活動毎に様々なファン層が流入してくるならば、ますます「生身の光に会える」LIVEの場の重要性は高まる。それと共に中身の充実度と普遍性も問われてくる。逆にいえば、LIVEを主軸にしてスケジュールを立てれば見通しはよくなると思うのだがそこから先は光の人生の生き方の話になるからじーっと見守るしかない。はてさて人間活動はどちらの道への助力となるか、やはり興味津々である。

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