無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最近のツイートでも光は、見られる事で美しくなるが今の自分は見る番だ、みたいな話を呟いていた。

そこには、見られるという不思議がある。冷静に考えれば、振る舞って歌って何かを見せている、つまり与えているのはステージの光の方であり、それを被って心境なり行動なりを変化させるのは見ている方である。しかし光は見られる事での変化に着目していた。見られる事で美しく"なる"んだからそこには何かの変化(或いは成長)がある筈だ。見られる事の効果を光はよくよく熟知していたのだ。

だから少しずつより素直になっていったのだ。人は見られる事で何に"なる"かといえば"見せたい"何かである。大抵のひとは他人に美しく見られたいから美しくなるのだ。見られるとは、ひとが他者にどういう印象を与えたいかを自らが知る契機である。

当たり前の事しか言っていないぞ。ポイントはだから、宇多田ヒカルの場合見られる事で露わになった"欲望"は、自らの姿を出す事だった。なりたい自分は内に秘めた自分だったのである。ここが普通の人と逆なのだ。大抵は見栄を張って、自分をより大きく見せたり強く見せたりしようとする。よりよく思われたい、より魅了したいと思う。んだがヒカルの場合、強がって"悪く"取り繕う方向に行っていた、と解釈するのが妥当な気がする。この"悪く"は、彼女の感性に基づいた価値判断だ。それを止めにし、より魅力的に振る舞う為に自らの素を出す方向に傾いていった。何のことはない、どんな虚像や偶像よりも宇多田光がいちばん魅力的だっただけの事なのだ。

本当に当たり前の事しか言っていない。だからヒカルには夢がないのである。最高の理想は自分自身なのだから。

いちばん難しい問題は、それがただの真実であるという事だ。つまり、ヒカルがそう思っていようがいなかろうが、そう思い込んでいようがいなかろうが、そう思いたがっていようがいなかろうが、事態は健全である限り真実に近付くのである。

普通に考えて、少なくとも他人に対してヒカルが「私はあらゆる理想を超えたこの世でいちばん魅力的な女性です」なんて言う事はない。口が裂けても言わない。口が裂けたら言えない。まぁ、ひとりで鏡を見ながら「何私チョーかわいい」とか言ってるかもしれないが、結構な女子に心当たりがあると思うのでそれは何も特別な事ではないだろう。

構造としては、ヒカルの場合余りにも桁外れに"見られるパワー"が強かった為、なし崩し的に雪崩を打つようにそちらの方向に流れが行ってしまったという事だ。その大きな流れの中で、FINAL DISTANCEとUnpluggedがマイルストーンとして立ち現れてきたのである。

ならば、だ。その"見られるパワー"がほとんど0になった時に光はどう振る舞うか。そこでは、自分をよく見せたいというインセンティブのはたらき方が根本的に違ってくる。一般論から行こう。まず目を引こうとするのだ。見て貰いたいという感情。その為には何をすべきか。そういう所から組み立てていくので自ずとアプローチは違ってくる。自分が見られる事がわかっている時の化粧と衣装、それと人の注目を浴びたいと思う時の化粧と衣装は、同じセンスのひとがコーディネートしてもまるで違うものになるだろう。まずはその点を踏まえよう。次回に続く。

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"素を見せる"チャレンジのきっかけがUnplugged。とすれば2005年2月23日のNY Showcase Gigはその対極であった。

"舞台パフォーマとして"重厚な衣装をその身に纏い、Dark Princess~闇姫様を演じるその異様な威容の一旦は、Utada United 2006でも3曲で垣間見る事が出来るが、そこでのポイントは"誰にも見られていない"という感覚であったのだ。

結局その時の映像は、撮影はされたもののリリースには向かないという事でお蔵入りになっており、その様子を知るには想像に頼るか念力で送って貰うしかないのだが、聴くところによれば観客はさしてUtadaを気にもとめず談笑していたという。ショウケースとは元来そんなものでさして珍しい事でもないのだが、光にとっては初めての体験だった。

宇多田ヒカルとしてデビューして以来、いやデビューする前から彼女は衆目の注目の的であり続けた。常に人の視線に晒され、その中でどう歌うかが課題であった。スケールの違う重圧の中、それでも表現者として如何に誠実に自らの姿を打ち出していくか。その答えがFINAL DISTANCE以降の流れであった。如何に見せるか、である。

翻ってNYギグでは、"見られていない"状態においてパフォーマとして開眼する。そこでは、想像に過ぎないが、自分でない何者かを"演じる"コツを掴んだともいえる。Utada UnitedのUtaDAパートの光はコンサートホールの空気を一変させる非日常的な感覚をあの衣装と立ち居振る舞いで表現してみせた。選曲もそのコンセプトに沿ってEXODUSの中でもヘヴィ・サイドの3曲が選ばれた。

ここに奇妙な捻れがある訳だ。ひとは好奇の目に晒されると、自分を飾ったり取り繕ったり見栄を張ったりして自分以上の、自分以外の何かであるように振る舞おうとする。誰も見ていない所で一息ついて素の自分に戻る。

しかし光は"見られている"場所では等身大を見せようと奮闘し、"見られていない"場所では何者かを演じる事でパフォーマンスのコツを掴んだ。何れも結果論ではあるものの、果たしてこれはどういう事なのだろうか。以下、次回に続く。

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