無意識日記
宇多田光 word:i_
 



4月というと何となく「光」の季節だ。発売日は3月20日だが(あ、しまった、発売10周年祝わなかったな)、発売後に3週連続1位を記録した事が今でも印象に残っているからだ。中旬から下旬にかけてはSAKURAドロップスやLettersをテレビで披露してくれたしラジオもすっかりそちらの2曲にシフトしていたけれども、カウントダウン番組でいちいち笑顔でお皿を洗うヒカルが映し出されていたそのインパクト(?)も相俟って、この時季に聴く「光」には妙な感傷が立ち入る感じがするのだ。あれからもう10年か。

シングル盤もインパクト(??)が強かった。縦書きの歌詞カードなんて久方ぶりだったし、これがバイリンガルとして世間を賑わしたヒカルの新曲なのかと感慨に耽ったものだ。今まででいちばん「日本側」に傾倒した曲といえた。その分、Simple And Cleanがいいバランスをとってくれた訳だがそれはまだここから少し先の話。

リミックスの出来もグレイトだった。多分、当blogで唯一、ヒカル本人のアレンジより優れた面があると認めたバージョンではなかったか。あ、もしかしたらYMMWTBAMのリミックスにも似たようなこと言ったかもしれない。まぁいいや。

当時、FINAL DISTANCEからtravelingときて、俄然ヒカルのシングル盤に同梱されていたリミックスバージョンへの注目度が高まっていた所だった。そこにこのGodson Mix。やや踏み込んで言えば、よい流れにある表現者の許には本人が手を下さなくても自然によい素材が集まってくるものなのだ。ここらへんのリミックス群を耳にする事で、ヒカルが"ゾーン"に入りつつあること、絶好調であることが如実に伝わってきた。しかもタイトルは自らの本名の漢字を冠した「光」だったのだから、「勝負に出たな」と感じさせるには十分だった。十年前の今頃は、何か特別な流れの中に身を委ねていた気がする。

で、程なくしてヒカルは体調不良を訴えてプロモーションを半ばでキャンセルする。そのニュースとアルバムDeep Riverのアートワークがダークなトーンだった事から、ムードは一気にシリアスになる。メッセも途絶えた。本当に10年前のこの3ヶ月余りは、感情のジェットコースターだったのだ。

普段「宇多田ヒカル」と名乗っていながら、「光」という名の歌を発表するのはどんな気分だったのだろうか。Goodbye HappinessのPVを撮影して発表する際も、「宇多田光」という表記を用いる事で期するものがあったのかもしれない。確かに、どちらのPVも「普段の生活の中での光」をスタジオで再現したコンセプトである。その共通項を「光」の一字が結びつけている。8年経とうが変わらぬ何かが、8年分の成長とともにそこに記録されていたのだ。やはり、光が映りっぱなしのPVがいちばんいいやね。


…結論そこかいな。

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前回、前々回と光のネーミング・センスに注目した。楽曲にしろ自分のクレジットにしろ、そこには言霊レベルの集中力が費やされている。

今回ミュージックビデオディレクターとして「"本名の"宇多田光」を使った理由として考えられる事。実は未だにサッパリ思いつかない。ひかるとかヒカルとか光とか、ひらがなにカタカナに漢字にと表記があれこれあるのだが、この「宇多田光」は、漢字表記である事に意味があるのか、それとも本名である事に意味があるのか。

元来、"宇多田ヒカル"という表記は芸名でありブランド名である。いわば職業上の通称であって、それはプライベートの自分とは異なるという感覚があった筈だ。なので、本名の方は仕事上では使わないのじゃないかと勝手に思っていた。

しかし現実は異なり、こうやって仕事上の名前で本名を使っている。そうする事でプライベートとパブリックの境界が曖昧になる事を恐れなかったのだろうか。昔とは感覚が違っているのかな。

或いは、今までの仕事とは異質であると表明したかっただけかもしれない。となると候補は平仮名の"ひかる"か漢字の"光"の2つしかなく、今回は後者にした、という話だったり。

職種によって名前を変えるというのはずっと想定されていた事で、まだ公表されていないが、光が作家デビューする時のペンネームは既に決めてあるらしい。人の名前からとった何かが含まれるようだが、実際に遣う段になって、それが宇多田ヒカルと同一人物だとひとめでわかるものなのか、一見しただけでは誰かわからないのか、それもまぁわからない。

その点今回(ってもう2年近く前だが)の名付けは本名だけあって一目みて誰だかわかるようになっている。それも狙いなのだろうか。しかし、ならばなぜ普通に他の裏方役のクレジット同様宇多田ヒカル名義にしなかったのか、相変わらずわからない。そしていちばん興味があるのが、今後またこの名義が使われる機会があるかどうかなのだが、勿論こればかりはわからない。映像監督としての仕事にこだわりがあるから本名を託したのか、或いは逆に、自分の部屋のレイアウトをさらけ出すような特殊な状況下にあった為の今回だけの特別クレジットなのか。出来れば私としてはまたあの手腕の再来を望みだいところだが、それにしても名前の書き方ひとつでここまで悩ませてくれるとは流石に「特技:惑わすこと」な人である。

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