無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Goodbye Happiness@UTUBE100万回再生まであと4万回を切った。順調にいけば週末から週明けにかけて大台に到達する筈である。

毎度の事ながら言い添えておくと、ひとりひとりがこの曲、このPVと共に過ごした5分55秒それぞれがPreciousなのであって、それを総合計して多い少ないを論じる事に大した意味はない。

しかし、それでもやはり凄い。そして嬉しい。この掛け値無しに素晴らしい作品が、これだけ多くの人々に愛され続けている事を誇らしく思う。私はいちファンで、勿論制作には何も携わっていないのだが、何だか自分の事のように嬉しい。何でだろうね。わかんないや。深く追求しない事にしよう。


この間照實さんがこのPV/MV(どっちでもいいか)のディレクターの名前が「"本名の"宇多田光」である事に触れていた。やはり、意図的というか某かの確たるコンセプトの下にあの表記を選択しているようである。

光が自身の名前の表記にこだわりがあるのは古いファンならご存知だろう。メッセも内容によっては"ひかる"からだったり"光"からだったりする。その割にメッセの名称は【Message from Hikki】なのだが。

そういえばこの"Hikki"という呼称、まぁ呼び名だから当然といえば当然なのだが、光自身は余り使う機会がない。今思い出せるのはWILD LIFEでの「私がおばさんになってもHikkiって呼んでくれる?」位だ。(今はうろ覚えで書いたので正確な言い回しは各自確認してください)

ニックネーム、呼び名、呼称というのは本人がどう扱うかは千差万別である。オジー・オズボーンは呼び名がそのまま芸名になってしまった。彼の名は元々ジョン・マイケル・オズボーンか何かで(例によってうろ覚え以下略)、オジーという呼び名は名字のオズボーンの短縮に過ぎなかったのだが、今や彼は世界中でオジーさんである。今年64だっけ? もう立派なおじいさんでもある。(それが言いたかっただけか)

光の場合、Hikkiという呼び名は主に「Hikki's Website」での使用であって、作品関連は日本では基本的にお歌も作詞作曲も編曲もプロデュースも、そして多分リミックスもピアノも「宇多田ヒカル」名義で統一されていて、クレジットに関しては何か捻りがあるとかはなかった。「歌:加山雄三/作:弾厚作」みたいな書き方はしてこなかった。

では、何故ミュージック・ビデオ・ディレクターとしては「"本名の"宇多田光」表記にしたのか。あれ、どこかで話してなかったっけ。もしその"どこか"を次回までに思い出せなかったら、試みにその理由を勝手気ままに妄想してみるとしようかな。あと、"Hikki"という呼び名についてもあらためて、ね。

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各社のプレイリストをみると(というかツイートで教えてもらうんだが)、この季節はやはりSAKURAドロップスがラジオでかかっているようだ。

ヒカル本人が言うように、この歌は初夏を想定していて、3月末から4月頭にかけるにはやや季節が早い。『やがて花を咲かす』と歌っているからには現在絶賛落花中なのだから。しかしそれでもラジオでかかるのは中の歌詞など関係なくタイトルに『SAKURA』が入っているからだ。

これも、実は冷静に考えるとおかしい。『ドロップス』はdrops、"落ちる"という意味で、タイトル自体は落花をばっちり宣言しているのだ。何故それでも初春にこの曲をかけれるのか。

理由は、今「冷静に考えると」と言い添えた点にある。ふと立ち止まって『ドロップス』の意味を考えないと、日本人はそれが"落ちること"だと気がつかないのだ。

想像してみよう。もしこの極のタイトルが『SAKURAチル』だったら? 多分、3月下旬だなんて微妙な時期にオンエアするのは憚られたことだろう。意味はドロップスと変わっていないのに!だ。因みに、"サクラチル"&"サクラサク"は合否の判定を遠隔地に報告する際、電報に記す文面である。電報は字数によって料金が決まる為、出来るだけ少ない文字数で伝達する必要があり、このような表現が生まれたそうな。"キトク"なんてのも同様である。

で、だ。ここらへんに光の日本語感覚の鋭さがある。桜が散る風景を描くのに、どのような表記にするか。桜を"さくら"にするか"サクラ"にするか"SAKURA"にするか、で大分違うし、散る事も英語ならFallとかでもいい。そういった様々な候補の中から"SAKURAドロップス"に落ち着いたのかといえば、"サクマドロップス"とよく似た語感にすることで曲タイトルを商品名、ブランド名のように扱えるようにしたかったからであろう。本人のいうように、仮に"ドロップ"だと一部の日本人はプロレス技のバックドロップを思い出してしまう恐れがあるが、ドロップスなら飴の方に印象が偏る。そう、これは"ドロップ"という外来語を巡る日本人のイメージ喚起傾向を十分に考察した上での名付けなのである。

この作用により"ドロップス"が"花が散り落ちる"という意味であることをぱっと聴きでは連想する事がなくなる。立ち止まって意味を考えてみないといけないのだ。そうであれば、ラジオで流す分にはリスナーには"SAKURAだから春の歌かな"という程度の印象しか残らない。ヒカルの作戦は、意図通りかどうかは別として、見事に奏功したのであった。

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