曲ごとに分断された世界とそれに対する是々非々の評価。ヒカルの活動スタイルでは固定ファンがつきにくいがそれでもヒカルには固定ファンがついている。その理由は何か。
様々ある。顔が好き、メッセやツイートが面白い、それに伴って考え方や感じ方に共感した、性格がいい、兎に角心根が優しくて切なくなる、、、等々あるだろうが、要するに「人として好き」なファンが固定ファンとしてついているのだ。一貫して音楽を主軸に勝負してきた根っからの"音楽家"としては皮肉なものだと捉えられかねない状況ではある。
"人として"好かれている人間が目下"人間活動"に従事しているというのもまた皮肉といえるかな。或いは、人間的に愛されていく中で、それなら人間力をもっと高めようと思い立ったのかもしれない。わからない。兎も角どこか"音楽と関係ない所で"話が進んでいる。
更なる含意は、そうやって人間的な面を支持してずっと追い掛けているファンの方が、ヒカルの曲を、音楽を、その変遷を楽しみ尽くす事が出来ている、という面だ。是々非々というときこえはいいが、それはつまり一回耳にして気に入って貰えなかったらそれっきりという事も意味する。あっさりドライなのだ。ヒカルはそれを望んでいるのかもしれないが。
しかし、熱心に追い掛けているファンはまず、新譜新曲が出たら取り敢えず買って聴いてみる。この時点で既に違う。曲によってはタイアップが弱く、或いは偏っていて曲の存在自体が知られない、なんて事態も引き起こしかねないが、そういう事がないのである。
その上に、だ。一回聴いてそれほどピンと来なかったとしても、そこで放置してしまわない。「どういうことなんだろう?」と二度三度聞き込んでくれるのだ。この差がいちばん大きい。読者の皆さんも、「聞き込んでるうちに好きになっていった曲」が幾つもあるのではないだろうか。
これが、曲ごとに評価する層とアーティスト毎応援する層の最大の違いである。一見、偏らずにあらゆる音楽を曲ごとに評価するスタイルの方が幅広く音楽を楽しめそうな気がするが、その実、自分の感性自体は新しい領域に踏み込めない。広い世界を相手にしているようでいて、実際は自分の庭にとどまっているのである。
ひとりのアーティストを追い掛けていくというのは随分と偏った音楽の楽しみ方になりそうなものだが、そのアーティストが常に新しい領域に踏み込んでいく気質を持っていた場合、ファンもいつの間にかそれに連れられて新しい感性の領域に踏み出す事が出来る。こうなって初めて、"新しい世界"を知る事が出来るのだ。
突き詰めていえば、アーティストが(導き手として)信頼されているか、その点に尽きる。ヒカルは、音楽性が一定でない分、人としての魅力でファンをひきつけて、その上で音楽性でもって魅了している。仕組み、仕掛けとしてはなかなかトリッキーではないだろうか。
…まだ続く、かな? 別に続きものでなくてもいい気がしてきたけれども。
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