ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

自分だけの真理、あるいは超人

2017年02月16日 | 思想・学問

   長い一日。
 長い一週間。
 切ないばかりに短い週末。

 これらを積み重ねて、人々は生きています。
 生きるということの意味を問う暇もなく。
 それは絶望に至る道なのでしょうか。

 美的な存在・倫理的な存在・宗教的な存在

 キリスト教を深く信仰した哲学者キルケゴールは、人間の在り様をざっくり上の三つに分類しました。
 私は西洋哲学には疎く、正確な理解ではないと思いますが、一時期、西洋哲学の書物を読み漁ったことがあり、その時のおぼろな記憶では、そんなようなことだったと思います。

 多くの凡人は、美的な生き方に甘んじているものと思われます。

 美的というと何やら高尚な感じがしますが、要は酒を飲んだりパチンコに興じたりする、平凡な生き方と考えれば分かりやすいでしょう。
 かくいう私もそうです。

 そこから一歩進んで、倫理的な存在があります。おのれの良心に従って、あれかこれかを選択する、意識の高い生き方です。

 しかしキルケゴールは、美的な存在も、倫理的な存在も、やがて絶望=死に至る病の淵に立たされるだろうと予言しています。

死に至る病 (岩波文庫)
斎藤 信治
岩波書店

 美的存在は虚無や不安などに襲われ、倫理的存在は自己の有限性に見舞われる、というのです。

 で、宗教的存在として、単独の人間として、神の前に立つことこそ、絶望から逃れる道だ、というわけです。

 そして、普遍的真理というものを疑い、自分だけの真理を求めるべきだと説き、絶対者としての神と結びついた時、人間の主体性が発揮され、自分一人の真理にたどり着くことができる、と考えたようです。

 しかしわが国は多神教の国で、神社に詣でたり寺に参拝に行ったりするのが普通ですから、単独者として神の前に立つ、と言われても、戸惑うばかりです。

 一方ニーチェは、キリスト教道徳を奴隷の道徳として、神は死んだ、という有名な言葉を残します。

 キリスト教から解放され、力への意志に燃える人間となって、新しい価値観を創造する人=超人となることをこそ求めます。

 ニーチェは現実世界を、何の目的もなく、意味もない、永遠の繰り返し=永劫回帰に過ぎないと考え、そのようなニヒリズムから脱するには、神なき世界を超人となって生きるほかない、と考えました。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)
Friedrich Wilhelm Nietzsche,佐々木 中
河出書房新社

 

超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

まんがでわかるニーチェ (まんがでわかるシリーズ)
白取 春彦,nev
宝島社



 キルケゴールもニーチェも普遍的真理を求めたヘーゲル批判から出発し、正反対のようでいてじつはよく似た境地に達しました。

  神と結びつき、自分だけの真理を求めるキルケゴール。
 神を捨て、己を限りなく高め、超人となって主体的に生きることを求めたニーチェ。

 神に対する態度は正反対ですが、求めている境地はよく似ています。

 現代哲学はもっと複雑になっているようですが、多くの旧制高校のエリートたちは、これら超人なり、自分だけの真理なりといった考え方に心酔したやに聞き及びます。

 これら実存主義と呼ばれる哲学の影響とは思っていませんが、私はかつてこのブログで、仏教や神道や各種思想のおいしいとこ取りをした、私が教祖で信者はいない、とびお教としか言いようがないものを信じている、と書きました。

 それはもしかしたら、自分だけの真理、あるいは超人を志向する態度と似ているのかもしれません。

 そんなことを夢想しながら、私は酒や物語に逃避する、美的存在でしかありません。
 
 いつか私も発心を起こし、悟りを求めて激しい精神的運動に入る時がくるのでしょうか。
 しかしその時も、仏教という主を持っていては、私だけの真理に到達することも出来ず、超人になることもできないような気がします。

 やはり私は、先人の思想や宗教に頼ることなく、私の魂の深淵を覗き込み、そこから私にだけ重要なものを発見するしかなさそうです。
 そんな面倒な作業を行う力がまだ残っていたら、の話ですが。


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