ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

我と我々

2022年05月01日 | 思想・学問

 今日は昨日とうって変わって冷たい雨の一日になりました。
 ゴールデンウィークというと、初夏を思わせる日が続くイメージがありますが、今年は違っているようです。

 朝は小雨でしたので、今のうちに買い物を済ませようと近所のスーパーへ。
 同じようなことを考える人が多かったのか、日曜日の午前中にしてはお客さんが多かったように思います。

 お昼は近所のお蕎麦屋さんでとろろ蕎麦を食しました。

 それ以外は家でゴロゴロ。
 
 同居人、仕事と介護で疲れ切っている様子で、お昼寝中。
 同居人の仕事と介護をこなす様子には、頭が下がります。

 同居人と私は職場の同期。
 ただし同居人は一浪して大学に入っているので、年は私より一つ上です。

 正直、出会ったばかりの頃は、田舎くさい、冴えない女だと思って、近づきもしませんでした。
  しかし同期ということで、酒を飲んだりしているうちに、考えが変わってきました。

 まず第一に、嫌いなものが一致したこと。
 私が大嫌いな尾崎豊を、彼女も毛嫌いしていました。
 犯罪奨励ソングを歌って小銭を稼ごうなどと、愚かな考えを持っているとしか思えない不真面目な態度が嫌いでした。

 そしてまた、好きなものが一致したこと。
 幻想文学などの、この世ならぬ存在への予感を持ち続けていることが一致して、当時一部から熱狂的な支持を得ていた「牧歌メロン」という雑誌への興味も一致しました。。
 この雑誌は知る人ぞ知る無名なもので、それを知っていること、そればかりか所有していることに、お互い驚きました。
 なにしろ妖しい雑誌なのです。

 私はそれまで、女性の精神性ということにあまり興味が無かったのですが、同居人の精神に深く接したいと思うようになりました。
 そうなってみると、容姿についても好ましく思うようになりました。
 
 その頃、小説家を目指してせっせと書いていたのですが、これを同居人に読んでもらって、意見を聞くようになりました。
 これが同居人との馴れ初めです。

 嫌いなものと好きなものが一致するということは、そこに同志のような連帯感が生まれます。

 そして、私はヘーゲルが問題にした、我々なる我、我なる我々ということに、少し、糸口を見つけたような気分になりました。
 もちろん、ヘーゲルの著作は難しいし、浅学菲才の私には、正確に理解することなど不可能です。

 

 哲学上の難問はとりあえず置くとして、私は同居人との間に、我々なる我、我なる我々というものが存在していると、予感するようになりました。

 そして同志愛でしかなかったものが、いわゆる恋に昇華していったものと思われます。
 その恋は、同志愛的な要素を濃密に漂わせながら、少しづつ、深められていきました。

 ただし、私には浮気性なところがあって、同居人との恋も、やがて雲散霧消していくのだろうなと思っていました。
 ところが、入籍して24年間、喧嘩一つすることなく、我々なる我、我なる我々という言葉が、染み入るようになりました。

 結局、私は同居人に救われたということでしょうか。

 この静かな恋は、激しさを伴わないがゆえ、今も続いていると感じます。

 日々の仕事は憂鬱で、ため息ばかりついてますが、私たちはどこまでも我々なる我、我なる我々という言葉を、曲解でも構いませんから、胸に刻んで生き続けたいと願っています。
 


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