この世でおめでたいことと言えば、男女がカップルになって子供を授かる以上のことはありますまい。
最近差別してはいけないと言われるLGBT、もちろん彼ら彼女らを性的嗜好に依って差別する気はありません。
しかし子供を授かるという僥倖に恵まれないことについては、覚悟をもって生きなければならないと思います。
LGBT(特にLとG)に関しては自分の子孫は絶対に残せないということ。
男女であっても子供を授かることが出来ないカップルはいつの時代にも一定の割合で存在するものと思います。
そういう私たち自身、子宝に恵まれませんでした。
世界で一番おめでたいことを経験出来なかったことは残念に思います。
結果論に過ぎないのかもしれませんが、私たちもまた、LGBTの人々と同様、子孫を残せませんでした。
28歳で結婚し、40歳くらいまで子供なんて面倒な者はいらないと思っていましたが、子供が出来たら嬉しいんだろうなと思い始めました。
しかし、時すでに遅し。
年齢的に不可能になりました。
私が最近好んで観る中年ゲイカップルの日常を淡々と描いた「きのう何食べた?」において、ゲイである主人公は両親に孫の顔が見せられないからといって自分たちは不幸ではない、愛するパートナーに恵まれて幸福だということを伝えようとします。
同性愛者を表面的にしか理解できない親は葛藤し、観る者に幸福とはどういうことを指すのかを考えさせます。
子孫を残すことが最大で絶対的な生きる価値だと考えれば、子が出来ないということ、理由はどうあれ生きる価値が無いとさえ言えるのかもしれません。
しかしおそらくは、最大で絶対的な価値など存在し得ないでしょう。
それどころか、そもそも生きることに価値は無いと言えます。
価値が無いのに必死であるように振る舞うことは滑稽でさえあります。
出世しようと大金を稼ごうと、あるいは貧窮問答歌のごとき暮らしでも、どうでも良いことです。
ただし人間(あるいは他の生き物にも)には感情というものがあり、これはおそらく脳が支配しているのだと思いますが、幸福を感じる瞬間が存在します。
その幸福感を求めて、生きる意味のない人生を生きているのではないかと思います。
私は精神障害者ですから、幸福感というもの、実は薬物で強引に作り出せることを経験しています。
いわゆる麻薬ではない、合法の精神病薬にも、そのような作用があります。
脳の働きを強引に変換してしまうのです。
そうすると、今にも自殺しそうな病人が、突如として楽し気に踊ったりします。
そういう同病者を見たり、あるいは自分が経験したりすると、幸福感というものの在り方が歪んできます。
それらの経験が、私をして人生に価値は無いと言わしめているのだと思います。
少なくとも幸福感は強引に作り出すことが出来ると知ってしまった以上、その感覚に恃む気持ちにはなれません。
いっそ合法だろうが非合法だろうが関係なく、薬物のみを信じて乱用し、幸福感を感じ続けながら死んでしまえればこんなに安楽なことはありません。
老いて衰えたなら、なんとしてでもよく効く薬物を手に入れて、最後の安寧を得たいという思いを消すことができません。