先般、縁あってささきふさという女流作家の「おばあさん」という小説を読む機会に恵まれました。
浅学非才の身であれば、モガ(モダン・ガール)と呼ばれ、戦前から戦後の風俗を写実的に活写したこの小説家の存在をこれまで知らなかったことは、いたしかたない仕儀と言うべきでしょう。
「おばあさん」という小説は、都内で長男夫妻と同居する93歳の母親を、伊東に住む末娘夫妻が引き取る話です。
引き取るとは言っても、表向きは一週間程度伊東で温泉につかったり、おいしい海の幸を食したりして保養するために末娘宅へ旅行する、ということになっています。
しかしそれは、実は折り合いの悪かった長男夫妻のもとから、末娘夫妻のもとへ死にに行く、死の準備だったのです。
おばあさんが長男の元を離れなかったのは、大酒のみで独身の次男の存在がありました。
次男はおばあさんと一緒に長男の家の離れに住んで、庭に畑を作って新鮮な野菜を母親にふるまう孝行息子の側面もありました。
小説の一節に、
おばあさんの隱居所は長男の邸内の片隅に在るのだが、本家で百姓につくらす野菜は枯れがれなのに、隱居所の縁先はいつも青あをと、心丈夫な眺めだつた。
とあり、それとなく、長男と次男の母親に対する接し方を対比してみせます。
次男はロシア文学の翻訳を本業としていましたが、ついに成功することなく老母を残してはかなくなってしまいます。
次男の死が、おばあさんに伊東行きを決心せしめたと言って良いでしょう。
おばあさんは伊東で朝夕温泉につかり、海の幸を堪能するうち、肌つやもよくなり、体重も少し増えて、いたって健康に楽しく日々を過ごします。
そんな折、ある出版社から次男が翻訳したロシア文学を出版したい、という話が持ち上がります。
それも相当の高額報酬つきです。
それを聞いたおばあさんは、顔色一つ変えず、次男の一周忌に間に合うかしら、などと心配し、高額報酬はすべて末娘にこれまでのお礼として譲る、と言いだします。
固辞する末娘に、
そして又不意に冴えざえとした目に戻つて、いたづらさうに云つた。
「いいですよ。私はちやんと遺言に書いておくから。」
これがこの小説のラストです。
おばあさんはその後伊東で幸せに人生を全うしたのか、あるいは長男夫妻のもとに帰ったのか、次男の一周忌まで生きていられたのか、何も書かれていません。
冷静な筆致のなかに、人間の情というものが、悪い感情も良い感情もさりげなく描かれていて、「東京物語」を始めとする小津安二郎の映画を観るような、抑えた構成が、より一層抑えられない感情を持つ人間の業を感じさせて、不思議な感慨を覚えました。
今となっては忘れ去られた感のある作家ですが、時代に忘れさられてもなお、時の風雪に耐えた作品が持つ魅力を感じさせられ、深く感銘を受けたしだいです。
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