私が指導しているのは「立ち方」。世の多くの人は「立ち方」など教わらなくても、ちゃんと立てていると思っているであろう。と言うよりも「立つ」ことなど意識したことがないのではなかろうか。私がキチンと立てるようになったのはここ数年である。
「手を当て合う会(野口整体の愉気法のようなもの)」や整体など健康に良かれと思うものを長年やってきて、現在は「立つ会」を開いている。今までと違うのは、本人が「立つ」ことで変わるということ。整体のように指導者が「やってくれる」のではなく、愉気法のように誰かの手を期待するのでもない。身心は自分で何かをしなければ変われないということ、それに気が付き実践していく会である。ここでは、「意識」をからだとつながっているものとして同様に扱い、理想の立ち方に近づく。「意識」とは、物を一つに観て行くイメージのことである。普段私たちは物を相対的に(二つ以上のものを比較して)見ているのだが、それを一つに観ようとすることで「からだ」が変わる。完全にそのような物の観方ができているかどうかは、客観的な基準がなく、判断のしようがない。しかしながら大事なことは「観方ができるできない」ではなくて、身心が実際に変わったかどうかである。その変化は本人が身体感覚ではっきりとわかる。
「物事を一つに観る」という観方を持っていることは、生きて行く上でも大きな力になる。私はこの観方のおかげで、ずいぶんと生きやすくなっている。
「手を当て合う会(野口整体の愉気法のようなもの)」や整体など健康に良かれと思うものを長年やってきて、現在は「立つ会」を開いている。今までと違うのは、本人が「立つ」ことで変わるということ。整体のように指導者が「やってくれる」のではなく、愉気法のように誰かの手を期待するのでもない。身心は自分で何かをしなければ変われないということ、それに気が付き実践していく会である。ここでは、「意識」をからだとつながっているものとして同様に扱い、理想の立ち方に近づく。「意識」とは、物を一つに観て行くイメージのことである。普段私たちは物を相対的に(二つ以上のものを比較して)見ているのだが、それを一つに観ようとすることで「からだ」が変わる。完全にそのような物の観方ができているかどうかは、客観的な基準がなく、判断のしようがない。しかしながら大事なことは「観方ができるできない」ではなくて、身心が実際に変わったかどうかである。その変化は本人が身体感覚ではっきりとわかる。
「物事を一つに観る」という観方を持っていることは、生きて行く上でも大きな力になる。私はこの観方のおかげで、ずいぶんと生きやすくなっている。