「概要」
火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵の二面性がはっきり読み取れる短編。
ひとり働きの盗賊・鷺原の九平は、故郷から江戸へ帰る途中、兇賊・網切の甚五郎との幹部二人が長谷川平蔵暗殺を企てている話を聞いた。
九平は、表向きは江戸で評判の芋酒の居酒屋を営んでいた。
評判を聞きつけた平蔵が、一人でふらりと店に来た。店の中の夜鷹とのやり取りに、この平蔵を火付盗賊改方の平蔵とは知らず、すっかり気に入ってしまった九平。(庶民に思い遣りのある優しい平蔵)
甚五郎一味は、大身旗本の最上監物の名を騙り、相談事があると言って、平蔵を、有名な茶屋・大村へ呼び出す。
事前に大村の主人や奉公人全員を惨殺して乗っ取っていた。
平蔵は、甚五郎の罠に嵌り、危機一髪の状況にあった。
甚五郎の企てを知っていた九平の自白で、火付盗賊改メが駆けつけ、甚五郎一味を捕縛する。しかし、甚五郎と幹部二人には逃げられた。
それから半月後、甚五郎ら三人が、大江戸を火の海にし、その中で平蔵を殺すという企てを話しているところを、甚五郎は平蔵に恐ろしい姿に斬殺される。(悪に恐ろしいほどの怒りを発する平蔵)
「あらすじ」
※ 作品の文章を抜粋して「あらすじ」に纏めた。
※ 青色の彩色部分は、私が補足したところ。
※ 下線部分は、私の心を打った文章。
一 序章
60を少し過ぎたひとり働きの盗賊・鷺原の九平は、ただ、
(死ぬ前に、故郷を見ておきてえ)
の想いやみがたく、帰ってきたのだ。村は変わっていなかった。
江戸へ帰る途中、九平は、倶利伽羅峠の地蔵堂の傍で、火付盗賊改方の長谷川平蔵の暗殺を企てる話をする人の声を聞き、その男たち三人の顔をはっきりと目にした。
二 平蔵の市井の庶民への優しい心根
九平の表向きの稼業は、近辺で芋酒が美味いとの評判の居酒屋・加賀やの亭主である。
九平は、店の一隅で、
(こうして、一人ぼっちで虫の声を聞いていると、どうも、自分が死ぬことばかり考えてならねえ……どこかでお盗めをして気を晴らそうか)
と、ぼんやりしていると、ぶらりと品のいい浪人風の中年の侍が入ってきた。
この侍が、火盗改方の長官・長谷川平蔵の巡回中の姿だとは、九平は思いもよらない。
九平得意の芋鯰を少し食べて、
「うめえぞ。こいつを女房の土産にしたい。何か入れ物に詰めてくれ」
侍は金一分を九平に渡した。
そこへ、
「じいさん。熱くしておくれ」
と、柳原土手を回って客の袖を引いている夜鷹のおもんが、顔を見せた。
頬被りの手拭いを取った顔は、しわ隠しの白粉に塗りたくられ、灯の下ではとてもまともに見られたものではない。
「お侍さん。御免なさいよ」
すると……。
「遅くまで、たいへんだな」
平蔵が、こだわりなく、おもんへ声をかけ、九平に、
「おやじ。この女に酒を……おれがおごりだ」
と、言った。
「あれ…」と、九平よりおもんが吃驚して、
「すみませんねえ」
気味の悪い色目を使い始める。
ー中略―
「おれも年齢でな。そっちの方は、もういけねえのさ」
平蔵はおもんに語りかけて、
「ま、だからよ、躰が暖まるまで、ゆるりと飲んでいきな」
声に情がこもっている。
「すいませんねえ」
おもんの眼から〔商売〕が消えた。
そのかわり年齢相応の苦労がにじみ出た。しんみりした口調になって、
「旦那。嬉しゅうござんすよ」
「なぜね?」
「人並みに、扱っておくんなさるからさ」
「人並みって、人ではねえか。おまえもおれも、このおやじも……」
見ていて聞いていて、九平は、
(この浪人さん。大したお人だ)
いっぺんに平蔵へ好感を抱いてしまった。
半刻も、平蔵は世間話をした。
おもんが先に出て行くとき、
「話し相手になってくれて、面白く時が過ごせた。ありがとうよ」
半蔵は、おもんへ、いつの間にしたものか、紙へ包んだ金を渡してやった。
おもんは涙ぐみ、深々と頭を下げ、土手の暗闇に消えて行った。
三 後をつけた九平に、役宅の門前でいきなりの平蔵の声
おもんが去って、しばらくしてから、平蔵は九平の店を出た。
九平は、今夜は早寝だと表戸を閉めた。
そのとき、土手道のどこかで、すざましい音が聞こえた。紛れもなく、刃と刃の撃ち合う音であった。
(まさか、あの浪人さんが斬り合ったのではあるめえな……?)
急に心配になってきた。
少しして、浪人さんが去った方角から、足音が近づいてきた。
「さすがは鬼の平蔵だ。関口さんも手に負えなかったな」
九平は戸口へ身をつけたまま、昂奮していた。足音の2人の声を思い出したからである。
この夏、倶利伽羅峠で盗み聞いた3人の男のうちの2人のものだったからだ。
九平は現場に急いだ。
番士5人が、提灯で死体を照らしていた。
(あっ……)
九平は、叫び声を必死にこらえた。
死体をあらためている侍が、先刻、店を出たばかりの〔好きな浪人さん〕であったからだ。
「すまぬが誰か、この死体を火盗改メの役宅へ運んでくれぬか。おれは先に帰っている」
と、番士に行った。
九平は、後をつけずにはいられない気持ちになっていた。
平蔵が、神田橋御門の堀端へ出て、清水門外の役宅へ入るのを、九平は確かに見とどけた。
平蔵は、役宅の潜り門の前に来ると、いきなり、後ろを振り向いた。
「おやじ。ご苦労」
彼方の平蔵が大きく声をかけてよこした。
陰に隠れていた九平はぞっとし、平蔵が門内に消えてからも、しばらくは、そこを動けなかった。
翌朝から、九平の家の戸は開かなかった。5、6日を経ても戸は閉ざされたままであった。
四 芋酒やのおやじと自分を斬りつけた死体が気になる平蔵
平蔵は、役宅に運ばれてきた死体を念入りにあらためた。そして、この人相書をすぐつくれと命じた。
「ときに、あの、芋酒やのおやじの行方は、まだつかめぬか?」
「それが、いまだに……」
と、答える筆頭与力・佐嶋忠介に、続けて、
「あれだけ顔の売れたおやじだ。人相書をつくらせ、密偵たちをつかって、早く探してもらいたい。あのおやじの足の運びようは只者でなかった。それに、あのおやじは、おれの顔を知らなかったのだ。ところが、あの騒ぎを知って、つい先刻までおのれの店で酒を飲んでいた男が火盗改方と知り、後をつけて来た……ということは、この平蔵に何やら興味を覚えているからだろう」
と、言って笑った。
◆
芝田町の線香問屋〔大島屋卯兵衛〕方へ兇盗が押し込み、17人を皆殺しにし、197両が盗まれた。
平蔵が柳原土手で斬りつけられてから7日を経ている。
その間に、同じような犯行が2件もあり、町奉行所も火盗改メも協同で探索を続けているが、一向に手掛かりはつかめていない。
もしやと、平蔵の脳裏に浮かんだのは、去年の春、立て続けに江戸市中を荒らし回った兇盗〔網切の甚五郎〕で、
(また、江戸へ舞い戻って来たのではあるまいか……手口がよく似ている)
どうも、そう思えてならなかった。
とにかく、甚五郎一味のような盗賊の仕事は、手掛かりを残さぬために、押し込み先で多くの人命を奪う。
こうなると、
(藁でも掴みたい)
心境になってきている。
それだけに、
(あの、妙な芋酒やのおやじを、何んとしても見つけ出したい)
のであった。
あの夜の、おやじの挙動を振り返ってみると、どうも腑に落ちぬのである。
(あのおやじは、おれに関わり合いのある何事かを、知っているに違いない)
平蔵のその確信は、日を追って強くなるばかりなのだ。
次の五章に続く