5ー 博士の不思議な能力と博士への野球観戦のプレゼント
数学の才能と関係があるのかないのか不明だが、博士には不思議な能力があった。何故、そんなことができるのか尋ねてみたが、自分でもよく分からないようで、特別に訓練を積んだわけでも、特別努力したわけでもなく、殆ど無意識のうちにできてしまうらしい。
まず一つは、言葉を瞬時に逆さまにすることができた。私が「世界ビックリ人間ショーにだって出演できます」と言うと、「すまきでんえつゅしてっだにうょしんげんにりくっびいかせ」と言うのだが、博士は少しも嬉しそうではなかった。
もう一つの才能は、誰よりも一番星を見つけられることだった。夕方には早すぎる、まだ太陽が空の中ほどで照っている時分でも、空を指さし、一番星だと言われるが、私には見えなかったのです。
[ある日、私が、書斎の本棚を整理しているとき、一番下の段で数学書の山に押し潰されているクッキーの缶を見つけた。意外にも中味は野球カードだった。
40センチ四方ほどの缶に、びっしりと一分の隙もなくカードが一枚一枚クリアーケースに納められ、投手、セカンド、レフト等と手書きされた厚紙により分類がなされ、各分類ごとに阪神の選手のカードがアイウエオ順に並べてあった。ただ一人、江夏だけが特別で「江夏豊」の厚紙で仕切られた一角を与えられていた。]
[私は、5月の給料日に阪神対広島のチケットを3枚買った。この町にタイガースが遠征に来るのは年2回ほどなんで、この日を逃すと当分チャンスは巡ってこなかった。クッキー缶に入った野球カードを見つけた時にふと思ったのだ。]
重い病を抱え、一日中、数の世界を探索している老人と、物心ついたころから毎晩母親が帰ってくるのを、ただひたすら待ち続けてきた少年に、一日くらい野球の試合を見せてやったって罰は当たらないはずだ。正直に言えば内野指定席3枚の出費はいたかった。
しかし、予想に反してルートの反応は鈍かった。「博士は賑やかな場所は嫌いだよ。博士は時間的に明日のための心の準備っていうものができないんだよ。それに、博士が知っている時代のタイガースの選手は誰も出場しない、皆、引退してるんだよ」と言った。
私は、ルート自身の気持を聞いてみた。絶対に行きたいと言う。
[私とルートは、その日になってルートが学校から帰ってきてから二人で自然の雰囲気の中で野球観戦を持ち出した。博士から、江夏に会えるかなと言われ、一昨日巨人戦に先発したからベンチ入りしていないんだ御免と言い、「博士と一緒のほうが楽しいよ」、この一言が決め手となり、博士は承諾した。]
バスに乗ってからは、博士は緊張して座席の肘当てを、降りてからは、ルートの手をきつく握っていた。
後年、私とルートは折に触れ、あの特別な一日について語り合ったが、博士が実物の野球を心から好きになってくれたかどうか二人とも自信がなかった。博士は、球場内で物の長さや重さなどの数字や打率データなどの計算にだけ興味があったように見えた。
次章に続く