blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

延びた…。

2018-09-11 22:19:32 | 日記
月曜の朝、出社していちばんの確認事項は、私が人の動きの対象になったかどうかであった。
単なる「肩書きだけ異動」の人はやはり多かったものの、何度見ても私の名前はリストの中にはなかった。
下半期の初め、10月1日付けで私の環境が変わることはなくなった。

タイミング的には10月1日の1ヶ月ちょっと前に呼び出しを受ける形で、しかも特に希望を出していたわけでもなく、さらには上から出て来た話ということで、10月1日付けにかかるのは相当確率の高いことと思っていた。
もちろんその場では「10月とは限らないよ」という一言があったことは書いておきたいが、身構え心構え十分のところに結局対象外という事実には、相撲が始まったからではないが肩透かしを食った気分である。

10月ではなくなったとは言え、過日の話の内容からしてもう私の当地での時間は長くないことはハッキリしている。
一企業として、当然ながら次の半期は半期で予算というものが存在し、それに基づいて会社は動く。
我がチームにおいては、諸々の事情から仕事量は減少の方向だから、今いる人数では一人多いのである。
一人多いから私が動いて適正人数になるのかと思いきや10月には変わらなかったから、もし我がチームの人数を一名減で予算を組んでいるとすればそこだけでいうと整合が取れないことになる。
人が動くのは必ずしも4月7月10月1月だけとは限らないし、人数は小さいが左記以外の月にも人が動くことはある。
人が余っている部署なのに人を減らさないことは企業として通常はありえないので、私個人としてはとにかくもう動くのは近いという心構えは変えずに、引き続き動きやすい態勢を作ることを心がけたい。

思い出せばつらい話にはなるが、我が社の本拠地で事務方に就いていた時、毎日がクレーム対応窓口のような状況の中で精神的に追い詰められ、2ヶ月の休養を取ることになった。
確か2015年7月末までの診断書でもって休みをもらったが、7月末が近づいても人事担当からは音沙汰一つなかった。
さすがにたまりかねて連絡を取ってみたりもしたが、結局「その後」について面談の機会があったのは7月末をずいぶん超えてからになった。
しかしながら休む根拠がないまま7月末を超えて休むことはできないので主治医に診断書を延長してもらい、結局2ヶ月の休みが4ヶ月にまで延びてしまって、当時の職場にはロクに挨拶一つできずそのまま当地にその年の10月に来ることになった。

もちろん、ちょうど3年前に当地に来たのは会社の配慮、そして今当地を離れるという打診も会社の配慮の上でのことで、本拠地での失態は当地での3年間で何とか恩返しはできたとは思うが、当地で今年の春先に再度倒れた分の恩返しは次の環境で果たさなくてはいけなくなった。
思っていた日付より延びてやや拍子抜けしたところはないとは言わないが、会社としては、私をどこで使おうか鋭意検討中であるか、病歴があるだけに次の受け入れ先がなかなかスンナリとは見つかってこないかのどちらかなのであろう。

最悪の事態としては、当地に来る直前に「次んとこでまた病気になったら他に紹介できるところがないよ」という発言も本拠地での面談でされていることから、私などもう会社にいらないという意見も出ているのか。
特殊な事情があったとはいえ当地でも長期休養に陥ったこと、また特に復帰後は周囲からまるでいない人間のごとくに扱われている現状は事業所のトップも知っている。
それらも踏まえてのせっかくの事業所としての要望だからぜひ通ってほしいが、仮に通らないとなれば、もはや故郷がどうとか自分にフィットする仕事などとは言っていられない。
一人の人間として「生き延びる手段」を何とかして考えなくてはいけなくなるのかもしれない。