blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

のんびり

2022-04-24 19:36:32 | 休日
4月は花の季節で、週末はわりあい天気にも恵まれたので県内各地に出かけて土日を過ごした。
花はタイミングを逃すとまた来年になってしまうから、例年見ているところを今年もほぼもれなく見ることができてよかった。

今週末はどうだったかというと、土日とも外に出たのは買い物などわずかな時間だけで、ほとんどの時間は自宅でゆっくりした。
見たいスポットはひと通り行ったこともあるし、今月になってからの仕事量増加に伴う疲れ、また予報ほどはスッキリした天気にならなかったこともあって、思い切って土日ともを休息に回して結果的にはよかったと思う。

今週は、我が現場も含めてミスが相次ぎ、必ずしもいい雰囲気で仕事ができたわけではなかった。
幸い直接の当事者にはなっていないが、他人のミスでもミーティングは全員でやるからイヤでも巻き添えを食らうことになる。
ルールさえ守れば防げるものをことごとく無視して自爆しているような事例ばかりで、毎回のことながら気分は良くない。

経験が決して短いわけではない人たちばかりだから本来はキチンとできるはずのところ、できないでミスになるというのは手を抜いているか物の順番を勝手に飛ばしてしまうからだ。
事例によってはヒマと言っていい時間帯でも起きているのは、明らかに何かが欠落したまま仕事を進めていると言われても仕方がない。

どこの世界にも、他人に面倒なことは任せっきりにしておきながら手柄は自分のものにしようとする人間はいるわけだが、そんなことばかりしていたら、同じ会社で何十年のキャリアを積もうと仕事を自分のものにすることができず、任せていた人がいなくなった途端にミスを起こす。
我が現場で久しぶりに出てしまったミスはまさにそんな背景があった。
頼りにすることとアテにすることとは行って帰ってを二往復するくらい違う。
どれだけ長く仕事に携わり現場のことを熟知しているとしても、他人に甘えてばかりで、他人に尻ぬぐいばかりさせてはじめて成り立っている存在など迷惑でしかないし本来はいらない。

あまりにもレベルの低い現状に管理者も嘆くばかりである。
メンバーのあらかたを信用できない状況は管理者にとって非常につらい。
信用できないからといってすぐに排除できるわけでもないからだ。

まだ経験の浅い私にとっても信用できない人が増えるのはきつい。
信用できないと分かって、それでも仕事を進めるためにはある程度のコミュニケーションは必要だ。
あからさまにバカにして接すれば相手はスネてしまい組織としてのパフォーマンスは落ちる。
落ちた分は余計な残業など後々響く事態を招く。

がっかりした気持ちを立て直すのに、今週末のんびりしたのはよかった。
余計な感情は今のうちに捨てて切り替えないことには大きな物量には立ち向かえない。
他人はどうあれ、プロとして恥ずかしくない仕事をすることだけを考えていきたい。

いやはや…

2022-04-22 21:20:59 | 日記
春の訪れとともにかなり忙しくなった我が職場では、容赦ない物量の増加に比例するかのように残念な事態が増えている。
何がどう残念かは詳しくは書けないが、社内的にも社外の顧客にも迷惑がかかっている。
何かが起こるたびに管理者は原因究明と対策を迫られ、傍目にはもうすぐ倒れてしまうのではないかと思うほどだ。

我々は作業が仕事だから、手順書やマニュアルは当然大事である。
物事を決められたルールに従ってやっていればまず間違いは起こらないし、全てが手作業というわけでもなく一部は機械の助けも借りるからシステム的にも限りなく間違いはゼロに近くなるように整備されている。

それなのになぜ間違いが起こるかといえば、ルールを守らない、これに尽きる。
仮におかしなルールがあれば声を上げれば良いし、声が抹殺されるような組織では少なくともない。
今あるルールは決してトップダウンで運用されているのではなく都度メンバー全員が話し合いに参加して決められている。
しかし誠に残念なことに、自分たちで、自分たちも参加して決めたはずのルールを簡単に破って間違いを起こし、ただでさえ時間がないところを対策のためのミーティングに取られ、長々とお説教を食らうハメになっている。

私のいる部署は現場が2つあって、今月に関しては私が属していない現場でけっこう立て続けに間違いが起きた。
属していないからとて同じ部署として他人事とも思えず、緊張感を持って仕事にあたり私自身は致命的な事態を招くことなくやってきたし、少なくとも年をまたいで半年近く私が属する現場では間違いは起きてこなかったから、良い状態がこのまま続いてほしいと考えていた。

我々は物を扱う仕事だから、在庫確認も重要な仕事のひとつである。
正式には半期に一度のようだが、仕事としては月イチで必ず数量を確認する。
すると今月はたった1つの品目がどうしても帳簿と合わないので調査をすることになった。
もう夕方も近くなり、例によって現場の整理をしていたら、聞きたくない事実が飛び込んできた。

ついに我が現場でも間違いが出てしまったかと残念な気持ちになったし、私自身は全く絡んでいない事象ではあったがメンバーの一員として現場での作業は中断してミーティングに出なくてはいけなくなった。
間違いが起きた後のミーティングが明るい雰囲気なわけはなく、当事者の弁によればやはり本来の手順をすっ飛ばしていたというので、こちらとしてはあきれ果ててしまい言い訳も聞き苦しいばかりでだんだん腹が立ってきた。

極端な話、初心者であってもルールさえ守って作業をするなら、ルールを守らない大ベテランよりは偉い。
いかに社歴が長くていっぱしのプライドがあったとしても、ルールを守らなければ昨日今日来た人間にも負けてしまうのが作業という世界だし、その意味では非常に公平な世界でもある。

至って公平な世界にいながらルールを守らず自爆してしまう人には同情の余地はないし、ひどい場合は現場を追われることにもなる。
破って何の得にもならないルールなら守っていた方がラクだとなぜ思えないのか。
下手にオリジナリティーを発揮したところで得るものがない世界にいてなお自分流の仕事がしたいと言われたら、管理者はもはや指導をする気をなくしてしまうだろう。

それでもごくごく小勢で回している今の現場、たとえ信じられない相手であっても一緒に仕事をしていかなければならない。
3月末で勇退され、私のような気性の荒いクセ者も熱心に指導してくれた某氏に恥ずかしくないよう、それだけを心に留めて今後はやっていこうと思う。

特急が消えた

2022-04-16 08:46:55 | 日記
4月に入り、いよいよ繁忙期に突入したわが社では冬の間では考えられないような物量を扱うことになった。
臨時の人員も確保して対応するものの、ある曜日にはその臨時の方々にも残業をお願いしなければ回らない状況にもなった。
商売だから毎日の流れには追加や変更が付き物で、予想はできないし、しても仕方がない。
毎日の仕事を終え、考えることはただただ体力の回復で、夕飯をいただきひと風呂浴びたら寝るまではいかなくても横になってしまう。

さて昨日から地元富山地方鉄道のダイヤが改正となり、ついに特急の定期運用がなくなった。
JR富山駅に隣接する電鉄富山駅から、県の観光地である立山方面あるいは宇奈月温泉方面を結ぶのが特急の大きな役割であった。
近年の感染症に伴う利用者減が強烈な痛手だったことはあるが、特に宇奈月方面に関しては北陸新幹線の開業により客の入り込みはJR黒部宇奈月温泉駅が起点となってしまった。
もともと安いとは言えない普通運賃、また特急料金の徴収に関わる人的コストも考えると、富山から通しの特急を運転する意味がほぼほぼなくなったというわけである。

また、今回の改正により、本線の電鉄富山~上市間、電鉄黒部~宇奈月温泉間はこれまでと同程度の本数が確保されるものの、真ん中の上市~電鉄黒部間は相当の減便となっている。
地鉄本線の中で旧北陸本線(現あいの風とやま鉄道)と並走している魚津市やとなりの滑川市の沿線の風景がより寂しくなるということである。
もともと旧国鉄との並走には国鉄側が難色を示したらしいが、広域輸送と地域間輸送の住み分けという理屈で押し切った歴史があるらしい。
北陸新幹線の開業により旧北陸本線があいの風とやま鉄道になったことで、皮肉にも地域間輸送どうしの競合が発生し、もともと速達性や運賃で劣っていた地鉄がこの区間にメスを入れざるを得なかったのは仕方がないことに思える。

それにしても、幼少時に買った鉄道に関する書籍に大都市の私鉄に混じって地鉄が載っていたのも特急が運転されていたからであって、富山という田舎にあってはひとつの誇りでもあった。
それがなくなったことで、地鉄はあまたあるローカル私鉄のひとつにくくられることになってしまった。
利用者の推移を見ながら、あるいは多客期での臨時の運用は検討されているということだから、在野の人間としては待つよりほかにない。

ラクとは言えない経営の中でも鉄道の魅力を少しでも発信しようとSNS等を使って懸命に努力していることが伝わるだけに、ひとりのファンとして今後の復活を切に祈りたいと思う。

スキがないのも

2022-04-03 18:33:05 | 日記
3月のアタマから作業補助者として高齢の方をお招きしていることは書いた。
いよいよ繁忙期に差し掛かり、人員に余裕もない中でいかにスムーズに戦力になっていただけるかで管理者と一緒になって様々な策を講じてきたのは既報の通りである。

ところが、考えたものをいろいろやっていけばいくほど自発的とは反対の方向になってしまい、お世辞にも不安がないとは言えないまま月をまたぐことになった。
急遽話し合いを持ち、彼らが今まで腹の中にため込んでいたものは吐き出せてはもらえたが、感情的なしこりが取れたから、言いたいことを我々にぶつけられたからといって彼らの仕事が上達するわけではない。

時間の制約などを考え、いわばカンペのような資料まで作って支援した結果が不満や批判や罵詈雑言というのは我々にとってやりきれないの一言である。
では、ここまで不満をため込まれた原因は何だったのか私なりに考えた結論はこうである。
「我々の資料や指導プランが一分のスキもないものだった、それがかえって悪かった」のだと。

よく大学生くらいの若い人が通り魔的な無差別殺傷行為に及ぶ事件が何年かに一回は必ず起きる。
こういう事件を起こす人の家庭はさぞやすさんだものかと思いきや、大概は表面的には「立派」な家庭であることが多い。

両親がともに社会的には地位の高い職業に就いているケースが分かりやすい。
特に親が子どもに自分の後を継がせたいと強く思っている場合、子どもはけなげだから幼少から親の圧力を感じながら懸命に努力する。
しかし最大限の努力をしても望む結果が得られず悩むところに、親が輪をかけてさらに圧を加える。
どれだけがんばっても自分は親の域まで行けないとなった時に、ため込んでいた感情が爆発する。
外に向かえば他人に危害を加えることになるし、内に向かえば精神を病むか無気力になる。

長年親の顔色をうかがい優等生を「演じて」生きるしかなかった子どもの苦悩は計り知れない。
どこまで行っても立派で正しいことを要求され続けると、そうなれないと思った刹那、子どもはひねくれるか開き直るしかなくなってしまうのだ。

我々が高齢の方々に要求していたことはこれと同じではなかったのか。
水も漏らさぬ完璧なプランでもって指導したことが、かえって彼らを追い詰めたのではないか。
完璧なプランを提示されて、もしその通り動けなかったら何を言われるかと逆に彼らを萎縮させ指示待ちに陥らせてしまったのではないか。

我々の仕事は営業さんとは違って作業だから、ある程度ゼロヒャク思考が通用するとは思う。
初めての人でも決められた手順を踏めば同じ結果が出せるからだ。
しかし、それを要求できるかできないかは相手しだいなのであり、受け止める力が足りない人にとっては圧力でしかないわけだから、正論ぶっこみだけではうまくいかないということになる。

管理者の方も私のこういう意見に対して「その見方は知らなかった」と言った。
教える立場にありながらも学ぶ部分がまだまだ大きいことを思い知らされた。
正しいことを押し通すだけではダメな相手には、たとえ不本意でも違う接し方をせざるを得ないということである。