blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

4月を振り返って

2018-04-28 22:55:14 | 月末振り返り
毎月最終日はその月を振り返る。
と言っても、4月はあと2日残っている。
わずかに流動的な部分はあるが、明日は所用をこなした後そのまま富山に帰省するつもりである。
いつまで経ってもスマホ入力がうまくならない私は、本欄の更新はPC環境がある今の自宅でと決めているのだ。(キーボード入力も自己流で決して速くはないが)
ちなみに、ブログテンプレートも月末振り返りに合わせて変えているが、5月はもちろん富山県の花でもあるチューリップとした。

3月末に疲れの蓄積から体調を崩して今は休みをもらっているので、4月は仕事という面では書くことは何もない。
許しを得て休んでいるので、マナーとしては平日に派手に動くことは避けて、元気な時と同じく遠出や外飲みは週末と決めているのは何度も書いている。
平日は自宅にいる時間が長くて退屈だが、こればかりは仕方がない。
会社や仕事のことを忘れてじっくり休んだおかげで、重い症状、気分の極端な落ち込みは案外早い時期に取れ、何とかここまでは余震の気配はない感じで来た。

先日は月イチで会社に出入りしているお医者様との面談、経過報告のためにひと月ぶりに会社に行った。
主治医の診断では、ほぼあと一ヶ月を休養期間としており、幸いにして落ち着いている今の体調が特別に大きく悪化さえしなければ、5月の最終週あたりで仕事に復帰するスケジュールが有力である。
お医者様と部署の上司と、同席ではないながら話した結果だから、こちらの努力としては完全に狂ってしまった生活リズムを会社仕様に修復していくことが求められる。

倒れたのもあまりに突然で部署にも多大な迷惑をかけたわけだが、土地こそ違え同じ会社で二度目の長期離脱ということで、今後は残念ながら「多くを求められない」ことになるかもしれない。
会社に気を使わせるのは本意でないが、与えられる仕事は私の意欲とは別の次元で考えられることになる。
いくら私自身の体力気力が回復して、休養前と同じように取り組みたいと思っても許されないことだってあるだろう。
さすがに同じ会社で三度壊れるということになれば、会社も私もお互いにもう縁がないと考えざるを得なくなるから、仮に意欲に見合わない不本意な役割を振られたとしても、長く会社を離れた以上は甘んじて受けなくてはならない。

こうして書いてくると、年齢から言ってもこれまでの経緯から言っても、私の会社員としての未来は必ずしも明るいとは言えないところに追い込まれたと言っていい。
額面だけなら給料は上がるが、消費増税や物価上昇によって、生活水準はほぼ変わらないまま時を重ねる。
定年が何歳になっているかは分からないが、そこまでに貯蓄と言えるレベルの貯蓄はできず、中途入社だから退職金には期待を寄せられず、年金不安はここ20年ばかり課題として変わらないままだ。

そんな先の読める人生をその通りにトレースしてたった一度の人生を終わっていいのか。
しかし、一発大逆転を狙うというのとはニュアンスが違う。
体を壊したこともあり、おそらく職業人としてキャリアらしきものを積めないまま終わるだろうと考えるなら、一個人として、今からでも、せっかく与えられた命(時間)の中で、小さくてもいいから花を咲かせたい、わずかでもいいから光を放ちたいという思いがふつふつと湧いて来たのがこの2018年の4月であった。
いずれの時期に、本欄においてもまさにこの2018年4月が私の人生の転機となったと書ける日が来ることを心から願っている。

*おまけ1=JR名古屋駅前と円頓寺商店街・四間町の風景











*おまけ2=4月のベストショットとして朝焼けに染まるJR新宿駅南口。


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お金より大切なものは?

2018-04-25 23:09:48 | 日記
タイトルにある問いかけを投げられたら、普通の人はどう答えるだろう。
多くの人は「命」だろう。
あるいは、お金のことを「命の次に大事な」という枕詞を使って表現する人も多い。

生きて行く上ではお金は確かになくてはならない。
そのお金を稼ぐために、毎日早起きをして電車に揺られて職場に向かい遅くなるまで働く人が大半である。
継続した収入の見込みがなければ、私的な計画も立てられないし、生活のベースであるところの衣食住のどれかのバランスが狂ってしまう。
毎日の生活に不安が少ないに越したことはなく、ある程度の安定がないと精神的にも落ち着かない。
我が国では、平成の御世も30年目となった今に至っても、組織の歯車となり身勝手な部下や理不尽な上司の振る舞いに耐えながら、会社が搾り取った後のおこぼれをいただいて生活の糧を得る人がほとんどである。

大企業といえばそれこそ安定の代名詞のように言われ、子供たちは親の世代からいい学校に行っていい会社に入ることを期待される。
今まさに就活中の学生さんの中にも「大企業=安定」というイメージは、昔ほどではないにしてもどこかには持っているはずだ。
御多分にもれず、しかし私の場合は特に親からもらった能力だけで何となく周囲がイメージするようなレールに順調に乗りすぎ、生きることについて真剣に考えることもなく流されるようにして学校時代を過ごした。
就職活動も周りに流されロクな自己分析もしないまま、地元の大企業というありがちな選択をして、数年後には大きな失敗に終わった。
その失敗の後も、形はともかく雇われて給料をいただくという働き方を生活する上での唯一無二のものと考えてやってきて、しかし今までの間に追い詰められるような経験は数えきれず、実際に数回倒れているのだから、一口に働くと言っても相当に大変なことに人生の多くの時間を費やしてきたのである。

ところが最近、ふと目に止まって聴きに行った講演会で、面白い言葉の解釈に出会った。
企業は「人を止める業」、安定は「安く定まる」というのである。
私も、会社は「社会」をひっくり返した言葉だから全て会社なるものは反社会的なものだなどと飲みの冗談で言ったこともあるが、さすがにこの二つの言葉をそうやって解釈した人には初めて会った。
若い頃から会社勤めに疑問を感じ、艱難辛苦の末に今は成功を収めている方の言葉だから説得力もある。

お金より大切なものは命、それは正しいし、命は「時間」という言葉にそのまま置き換えられる。
平日を会社で過ごし土日を観光や旅行で過ごすのも立派な時間の使い方だが、起きている7分の5の時間は会社にいると思うと、年齢を重ね「もう時間がない」という思いを抱けば抱くほど、7分の5をできれば小さくできないか、そこで得られた時間を社会や家族のために使えないかとも思う。
本当にそういう時間が欲しいと思ったら、お金をたくさん持っている方がいい。
お金のために時間を削るのではなく、時間のためにお金を稼ぐのである。
あくまで充実した時間を送るための手段として、お金を多く稼ぐことは決して悪いことではない。

消費増税や物価上昇で今のままでは安定どころか下降が避けられない市井の普通の会社員に今から何ができるのか、せっかくのお休みの時間だから、真剣に考え、できることは行動に移すべき時期に来ているのではないかと思う。

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前に出る!

2018-04-21 21:33:30 | 休日
タイトルは、故・星野仙一氏の著書である「迷った時は前に出ろ!」からいただいた。
日々生活を送る中では、小さなことではあっても基本は「選択して決断して実行する」この繰り返しである。
もちろん、選択しない決断しない実行しないでうまくいく場合もある。
ただ、自分がもし何かに悩むことがあったとして、怖がって後ずさりしていたのがむしろ若い頃、今は多少はマシになって、事の中身にもよるがなるべく前に出る選択を取るように心がけてきた。
そうしたためにショックを受けることもあるし、敵ができる場合だってある。
今に至っても打たれ弱い人間だとは我ながら思うのだが、最後は「死ぬわけじゃなし」で何とか心を収めるようにしている。

先月末に体調を崩して会社を離れてからもう1ヶ月近く、幸い重い症状はなくなって、近場なら何の問題もなく動くことができるようになった。
職場出入りのお医者様が近日いらっしゃるので、仕事には参加しないが経過報告という形でその日は会社に足を運ぶ。
面談は当事者とお医者様の1対1だから、率直にお医者様としての立場でのアドバイスを受ける。
会社や上司が考えていることは別にあるだろうが、その日に何か話があるかは分からない。
過去の経験も踏まえて、思ったよりも回復が早いことは確かだからそこは伝えようと思っているが。

会社とお医者様の承諾のもとに休みをもらっているので、基本的に会社が動いている時間帯に好きなように無節操に動くのは避けている。
もちろん自室にいるばかりでは退屈だが、私の代わりをしてくれている人のことなどを考えれば、元気になってきたからと言って平日も遊び回ってばかりになるのは人としての品性を疑われる。
いわゆる遊びは元気な時と同様、平日なら会社の定時を過ぎた時間帯、大きく動くとしたらやはり週末というのが最低限のエチケットかと思う。

その動ける週末は、「このままでいいのか」という気持ちに突き動かされるように、これまで見向きもしなかった分野の話を聴きに行ったり、自分に眠っているかもしれないものを探すかのような動きをしたりと、今回の体のアクシデントを何とかプラスに転化させようともがいている。
せっかく縁をもらった今の職場を足蹴にするつもりなど毛頭ないが、現実的には消費増税や物価の上昇で生活水準は何もしなければ安定ではなく悪化の方向に流れるのは誰でも分かるし、どれだけ貢献したところで一定の年齢になればいたくてもいれなくなる。
何もしなければ何も変わらない人生をわずかでも変えていこうとすれば、多少はリスクを背負うことも覚悟しなくてはならない。
リスクに直面して迷うのは人として当然で、何の不安もなく新しいことに挑戦する人はいない。
年齢を重ねるごとにそうした行動に向かう気力は残念ながら衰えて行くのが通常だ。
しかし、そこをあえて前に出ようとしている自分は、手前味噌ながらやはり人生の中でいちばん「生きようというエネルギー」は高い。
現在の仕事を生活のベースにしながらも、自宅と会社の往復だけにならずに、そしていつの日か職業人を終えた後も彩り多い時間を過ごしていくことができたら素晴らしい。

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今から変わるには

2018-04-18 20:03:48 | 日記
何度も書いている通り、私はもう中年と呼ばれる年齢で、東京五輪の年には50歳になる。
ここ数回のエントリーと通じるところもあるかもしれないが、この年齢からひとりの人間として劇的に何かが変わることは少ない。
サラリーマンをやっていれば、残された年数や会社あるいは上司の雰囲気などで、だいたいどのくらいまで行って終了か分かってくる。
私のように、地味で単調な肉体労働をやっていればなおさら、昇格や出世につながるパフォーマンスを出すことは至難だ。
花形もあればそうでない部署もあって成り立っているのがいわゆる組織というもので、必要でない部署などない。
しかしそうは言っても、やはり花形でないところは他より飛び抜けたことを要求されることはないから、特別に評価をされることも少ない。

業種や業界として必要な知識や経験がほとんどない私のような人間は、今の部署、今の仕事だから何とか今の会社にいられるのであって、突然事務方に放り込まれてもできることは何もない。
現在、アクシデントにより会社を離れてはいるが、体調さえ戻ればいずれは会社に戻る。
戻ったところでやることは変わらず、いや、むしろ自分が持っている資格や免許のことを考えれば変わらないほうがいい。
二年半で体にしみついたものはそう簡単には忘れない。
前期よりはさらに忙しくなっているであろう日々の流れにいかに早く対応するか、それだけが問題だ。

しかし、今の職場とてプロの世界、私がこうして体の調整のために会社を空けている間に誰かがポジションを奪っているかもしれない。
そうなった時はいよいよこの年齢からでも身の振り方について考えざるを得なくなる。
というよりも、今からもしもに備えて準備をする。
会社に復帰して、しかしその後不本意な現実を見せつけられてから考えていてはたぶん遅い。
若い人には時間というアドバンテージがあるが、中年のオヤジにはそんなものはない。
長い一日を草むしりと掃除と無駄話だけで終わらせる毎日はとても耐えられないし、そんなことになれば、せっかく与えられた一度きりの人生の無駄遣いとなり、親族やご先祖様に申し訳が立たないではないか。
生活さえさせてもらえればいいと寄生虫のように会社にぶら下がるのは本意でない。

今から私がもっと実りある人生を目指すならば、今の仕事に寄りかかっていてはダメだ。
寄りかからないで尽くすのかと言えばそれは違うし、本当に変わることにはならない。
時間のない中年が変わるためにできることは、好きなことや得意なことを手掛かりに行動を起こすことしかない。
苦手を克服している時間は私にはない。
たとえ今からでも、自分が本当に世の中の役に立つために何をすればいいのか。
これだけは誰にも負けない、負けたくないと言えるものがあるのなら、それで勝負するのもたった一度の人生の中で許されないことでもないのだろうと思う。

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考えるのは未来 PART2

2018-04-15 22:50:37 | 休日
一つ前のエントリーでは、過去を忘れ、一度自分を白紙にして、ひとつしかない体をどう使いどう世の役に立っていくか考えると書いた。
過ぎたことは変えようがなく、変えられるのは未来だけである。
私が男性の平均寿命あたりまで生きるとしても、とうに折り返しは過ぎ、残された時間はそう多くないと感じる。
ひとつしかない体、一度しかない人生、せめて悔いなく、やるだけやったと心から思って終わりを迎えたいと思うと、膨大な自由時間はついついそんなことを頭に描いてしまうことが多くなる。

今から人生の最期まででくくるとなると少し長いので、少し短く、例えば職業人としてはあとどれだけの時間があるだろう。
時代の流れで定年年齢も徐々に上がって、私の世代では65歳定年あたりが当たり前になっているかもしれない。
となると、今後どれだけ長くても職業人としてはあと20年足らずということになる。
中途入社の悲しさ、いくら株価が毎日新聞に載る会社でも月々の実入りはそう大きくない。
毎年一定額の昇給はあっても、手取りはたぶんそれほど変わらない。
がんばって出世すれば少しは変わるが、目立たない地味な仕事で標準を超える評価を得ることは正直難しい。
まして、明確な原因があるとはいっても同じ会社で長期離脱を2回もやってしまったから、この先自分が上の立場に行って応分の実入りを得ることは考えづらくなった。
あと20年近くを尽くして尽くして尽くしたところで、生活水準はほとんど変わらないまま職業人としての時間は終わるのだろう。

職業人としての時間が終われば、もとより蓄えと言えるほどのものもなく、我が国の社会保障制度の枠組みで支給される限られたお金でもってつつましく過ごし、たまの贅沢も半期か年に一度できればいい方か。
何かの拍子で手綱が緩めば、下流老人への転落も非現実の話ではなくなってくる。

あえて夢も希望もないようなことを記してはみたが、これとて勤務先が定年まで倒れないことを前提としている。
我が国を引っ張ってきた大企業であっても、一部門の大失敗により経営がおかしくなる時代にあって、職場が65歳まで存続している確率が100%かと問われるとそれは全く分からないとしか言えない。
もしもの時、もう50近くになった人間を拾ってくれるところはどれだけあるだろうなど、悪い方に考え出せば、際限のない底なし沼のような事態が頭に浮かんできてしまう。

もう年も年と余計なことはせず日々を無難にやり過ごして人生の最期を迎えるか、今からでも周囲の雑音を気にせず自分に正直になって未知の世界を覗いてみるか。
どちらが正解とは言えないし、他人から肯定否定を受けるものでもない。
行動しても行動しなくても同じだと決めつければ、人間は行動しない。
しかし、行動することでせめて「生きた足あと」のようなものを残せるのではないかと考えるならば、人間は動き出せる。
守りに入るのか、攻めを貫くのか、中年と呼ばれる年齢になってからでも変えられる未来などあるのか。
もう人生で数度目にもなる大きなアクシデントを機に、真剣に考える時間を今与えられているのだと思う。

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考えるのは未来

2018-04-12 20:44:23 | 日記
会社から離れてはや半月が過ぎた。
重い自覚症状はなくなり、気分の極端な落ち込みもない。
近い距離なら外に出て景色を楽しんだりできるようにもなった。
一時は食欲も落ち、ベルトの穴がごく自然にひとつ分多く締められるくらいに痩せてしまったが、今は食事も時間が不規則にならずにとることができて、仕事の時ほどは動かないから減った分は戻っているだろう。

お医者様の助言に基づいて会社も了承して時間をもらっているので、何はともあれ「元どおりの体調を取り戻すこと」が第一命題となる。
「自宅療養と言って、いったい何をしているんだ?」と疑問に思う人も少なからずいるだろうが、文字通り休んで心と体の回復にあてることが今与えられた任務とも言えるので、会社を空けているからと言って行動の中身まで詮索される筋合いはない。
勝手な推測ならいくらでもしてもらっていいし、たとえ根も葉も無い噂のような話が広がっていたところで、こちらは一時的とは言え塗炭の苦しみを味わい、その後正当な手続きを踏んで時間をもらっている。

自由な時間があって多少元気になったと言っても、無節操に活動していいとは思っていない。
会社が動いているウイークデーの日中に大きく動き回ることが果たしていいことなのかはやはり考える。
平日なら、今この時間帯も「宴たけなわ」という社員もいるだろう。
大っぴらに外に出るのは、仕事に出ている時と同じで、なるべくなら金曜の夜以後というのが基本的な考えとしてあることは書いておきたい。

せっかくいただいた時間だから、自分の生きてきた歩みについて思い描くことも今後のためになるかもしれない。
ただただ周囲に受け入れられることばかりを望み、他人様よりはかなり長く「自分」というものを持てないまま生きてきた20代まで。
その20代の終わり、今と同じように心身のバランスを崩したことを契機に、不安定な生活ではあったが少しずつ「好きなこと」に踏み出して行った30代。
周囲にも迷惑をかけ、もがきにもがいた30代を経て、今の会社と縁ができ、しかし若い時とは違って、誤解を承知で嫌われるのも覚悟で、ガマンし過ぎない振る舞いを不器用ながら徐々に身につけてきた40代。
しかしそうした試行錯誤を経てなお、同じ会社で二度目の長期離脱を経験している今ここにある、東京五輪の年には50代に突入する自分。

明日も平日、たぶん何も予定はない昼下がりは、過去を忘れ、一度自分を白紙に戻して、ひとつしかない大事な体をあと数十年どうやって使い、どう世の役に立てていけるかを考える時間になるのかもしれない。

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動けた

2018-04-10 10:35:42 | 休日
先の週末は、やや肌寒いながらも好天に恵まれた。
時間をもらっているからといって、毎日をダラダラと緊張感なく過ごすのは本意でない。
いずれは会社に戻り、日中は少なくとも定時までは精力を注がなくてはならない。
この週末は、少しずつ、近場からでも昼間を何らかの活動にあてようと考えた。
幸いにして重い症状も落ち着いたので、イザとなったらすぐに自宅に戻れる範囲で外に出ることにした。

とはいえ、思いがけず倒れたことで、近い週末どころか今年の大雑把な旅行の予定などもいったん白紙にせざるを得なかった。
白紙の状態から探して土曜に足を運んだのは「東谷山フルーツパーク」(名古屋市守山区)であった。
今年はソメイヨシノは早々に散ってしまったが、こちらの名物はしだれ桜で、花の盛りがソメイヨシノよりも遅い。
ある程度の姿を想像して久々に愛車に乗り込み向かうことにした。

滞在時間も短く、説明できる知識もないので当日の様子は写真を並べるにとどめる。
しだれ桜はもちろんのこと、違う種類で目についたものはカメラに収めてみた。











ちなみに、4枚目の写真は「ウコンザクラ」で、名前の通りウコンの色に似ている。
驚いたのは、ウコンを漢字で書くと「鬱金」となることだ。
ウツにカネでウコンとは何とも言えない取り合わせに思えるが、言葉なのだから仕方がない。

結局この日は昼前から出て自宅に帰ったのは夕方、特に疲れのぶり返しもなく夜の時間も普通に過ごせた。
今の段階では、このことだけでも喜んでいい。
先を見据えればもっと長い時間の外出も必要にはなってくる。
気分のままに朝から晩まで動いて、途中で疲れて帰ろうという気にもならずに動けたなら、体力的な面はずいぶん回復してきたと言っていい。
仕事になれば当然ストレスのかかる場面はある。
しかし、体力が戻れば多少のストレスには耐えられる。
体と心は一体だ。
十分すぎる期間をもらっているのだから、いろいろなシミュレーションをして、復帰の折にはスムーズに入っていけるようにしたいものだ。

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油断禁物

2018-04-05 22:33:23 | 日記
思いもかけない休養生活も、はや十日間を過ぎた。
今回は、アレっと思った時にはかなり重いものが来ていて、先週月曜朝の段階ではどうにもならなくなっていたのが実情である。
わずか二、三日の間に、主治医の前でも取り乱すような状態まで落ちてしまい、いつもはにこやかなお医者様もさすがにあわててしまうような有様であった。

二年半当地でほぼ休まずがんばってきたのに結果的にまた体を崩したショックに加え、当地に来る直前に「今度同じことになったら他に紹介できる場所が…」的なことを当時の某エライさんに言われていたことがずっと引っかかっていて、「辞めなきゃいけないのかな…」という極限の不安が重なっていた。
その後、事業所出入りのお医者様や部の上司とも直接話し、当時のその言葉は深く考えず、まずは調子を戻すことに集中してほしいということになり、段取りを踏んで今こうして時間をいただいているところである。

体の状態を地震に例えるのはあまり適当ではないと思うけれど、今回は自分でも兆候が分かりにくい「直下型」であった。
年明けからの激変から解放され、本担当も首尾よく終わらせ金曜の夕方までたどり着き、さあ後は締めの週をしっかり、と思っていたところにいきなり「本震」がやって来て身動きが取れなくなるなど考えもしなかった。
期の締めくくりは何度も担当して慣れているはず、初めてのエリアではあったが大きな不安はなかった。
思いのほか、特に年明けからのリズムの変化が負担となり、3月の最終週を迎える直前に体が悲鳴をあげてしまったのは大変残念なことであった。

ここまでは外出は必要最小限の買い物程度にとどめ、ひたすら休むことに専念した。
本震が来てまだ一週間あまり、外は初夏のような陽気が続いていても、横になっているのに頭が重くてゼーゼー言っている状態ではまず外に出ようという気にもならない。
ここ二日ほどは、目立って重い症状は出ず、ヒノキ花粉がしつこいことから来る鼻のムズムズのほうが気になったくらいだから、体の疲れはだいぶ取れて来たように思う。
ただ、本震があれば当然「余震」への警戒は必要で、少し上向いたからと急に動き出すとまた余計な疲れをため、状態が逆戻りということにもなりかねない。
過去、発症からかなり時間を置いて急なぶり返しや揺り戻しに苦しんだ経験からも、まだ本震から十日程度の今の段階では、多少調子がいいと思っても無理矢理に活動的になるのは避けたほうがいいだろう。

せっかく貴重な時間をいただいているので、繰り返しにはなるが、自らの「がんばり方」について深く思いを致し、来たるべき復帰以後は気持ちの波をできるだけ少なくしていければと考えている。

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