その前回の最後には「カレンダー通り」がかないそうになったと書いてある。
その日の事前面談の感触が良く、また仕事に復帰できるメドが立ったと思ってほっとしながら書いたのだろう。
実はその翌日、その仕事に採用にならないという連絡を受けた。
ショックはあったが、また何とか愛知で暮らしていくべく動いた。
一週間後、別の先様と自宅近くで待ち合わせすることになった。
しかし、待ち合わせ場所で約束の時間がだいぶ過ぎても先様の担当者は現れない。
仕方なく自宅に帰ってあらためて連絡すると、電話の向こうは明らかに動揺している。
どうやら、自ら指定した予定をすっかり忘れていたようなのだ。
その先との話がそこで終了したことは言うまでもない。
昨年の10月以降、こと仕事という面では苦労が続き、2月中旬にして入り口にも立てない事態が起きた時点で、私の中ではこれ以上地元富山を離れて愛知にいる意味はなくなったと感じ、愛知での仕事探しをあきらめたのであった。
心身の疲れもいよいよピークとなったので、何をおいても一度実家に帰って、充電と同時にこの先の方向について話をしようと思い、結果10日間ほど厄介になった。
病気という不運もあったとはいえ、生活力をなくして帰ってきた私を、両親は決して責めることはなかったし、故郷で出直すことについても賛成してくれたことは大きな救いとなった。
2月末に引っ越しの準備のためいったん愛知に戻った。
仕事もしない土地に長くいるのはムダでしかなく、本来なら3月の中ごろには帰っているつもりだった。
しかし、一度疲れのピークを迎えた身、日常の動きにも困るような体調の日もある中で思ったようには準備が進まずつらかった。
3月も半ばを過ぎようやく体も落ち着いて準備が進み、何とか3月中に帰る段取りを整えたところである。
実家に帰ったところで先のことは何も決まっていない。
高齢になった両親をこれ以上心配させたくなく、早々に地元で仕事を見つけるのが一番いい。
仕事が見つかったなら、新たな住まいを探して実家を出ることもできる。
しかし、私にとっては病気の再発が何より怖い。
焦って仕事を求め、結果また消耗してしまうようでは全く意味がない。
時間的な制約はあるが、よくよく慎重に選びたい。
せっかくふるさとで出直せるのだから、今までの「頑張り屋」をいい意味で少し緩め、時には「まぁいっか」と自分を許してあげられるようにしたい。
それができたら、他人のことも許せるようになるはずだ。
50を目の前にして課題は多いが、再出発にあたって今からより良く変われる機会があることに感謝をして、これからを大切に過ごしていきたい。