blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

5月を振り返って

2018-05-31 19:57:51 | 月末振り返り
毎月最終日はその月を振り返る。
4月の終わりにいったん実家に帰り、5月のスタートは故郷で迎えた。
もう5月の時点では、4月初めの頃のようなユウウツな気分はだいぶ取れ、単独もしくは両親と一緒に外で活動する時間もとれた。
5月5日の夜行バスで当地に戻ることにしていたから、当日は富山市内を一通り観光した後、夜はなじみの居酒屋に立ち寄って懐かしい顔に会い、無事に当地に戻ってくることができた。

戻ってからも体調に大きな変化はなく、平日に遊び回ることは避けるという制約は自らに課しつつも、気分的にはあっという間に過ぎていったのが2018年の5月であった。
何しろ、最初は軽い気持ちで自らの夢の扉を叩いてみたつもりが、幸いなことに段階がどんどんと進んでいくため、けっこう西へ東へ動き回ることが多くなったからだ。
ただその甲斐あって、今から数ヶ月の内には自分が4月から動いてきた証しが形としてこの世に現れる。
他の誰でもない、自分だけの、自分のために作られるものが、目に見える形でこの世に残るのである。
今は中身について書くことはできないが、当初はこの段階までたどり着けるとは考えていなかった。
いずれ本欄で明らかにできる時を楽しみに待ちたいと思う。

さて、当面の生活の基盤である本業のほうは月曜日から復帰した。
当然ながら、休む前と同じ役割は与えられず、新たな仕事を元々いる担当者に付いて一から学び直すことになった。
もちろん担当者は忙しく、私などにかまっていられない場面もある。
しかし、そのパートでは知識がない私は担当者の指示に従うしかない。
空き時間ができても、自分でできることがない以上は仕方がない。

不安だらけの中、2ヶ月ぶりに復帰して、気持ちばかりの手土産も持っていったが「おかえりなさい」も「ありがとう」も何もなかった冷たい職場にあって、今付いている担当者は大変優しく丁寧に接してくれるのが救いである。
当面はあまり先のことは考えず、一日一日を丁寧にこなすだけでよい。
周りが私をどう思っているかなどこの際どうでもいいし、どうでもいいものに引っかかっている余裕もない。
ある人が私をどうでもいいと思うなら、私もその人のことは私の人生には必要のない人くらいに考える、それだけでよい。

同じ会社で、場所こそ違え二回も壊れてしまった人間でもまだいていいということなのだから、その点はありがたく受け止め、しかし過去の反省からあまり思い詰めすぎることのないよう、いい意味で肩の力を抜いていきたい。
自分の夢はあるけれど、それが本当にかなうまでは、せっかく縁をもらっている今の環境に、日々誠実に、できる範囲で貢献していかなくてはならないと思っている。

※5月のベストショットは、富山駅北口と富山ライトレールのコラボとした。


予定通り

2018-05-25 20:46:53 | 日記
3月末からおヒマをいただいていた会社に週明けから戻る。
体も回復し、先延ばしなく戻ることがひとまずの任務だったからホッとしている。

これからの人生、会社と自宅の往復だけではダメだと、この2ヶ月はその手がかりを求めて動いてはきた。
しかしそれは現在進行途上の出来事であるし、決してお金目的の話ではなく個人的な夢のための動きであり、生活に彩りを添えることは間違い無くてもそれ以上を期待するものでもない。
やはり今、当地で身分不相応なキレイな部屋に住み、週末には近隣の名所を数多く訪ね、なじみと呼べるお店もでき、などのいろいろなことは、当然ながら会社での仕事と収入がベースにあったからだ。

今回は、明確な原因はあるとはいえ、長期離脱という事態に陥ってつらい思いもした。
当初の診断で2ヶ月という時間をもらい、何とかぶり返しなどなく順調に回復して、予定から延びることなく会社に戻ることができる。
木曜日には、お医者様及び会社の上司と話し合いを持ったが、予定通りの復帰を信じ、復帰後の仕事内容まで配慮してくれていたことには感謝の一語しかない。

今こうして職場に復帰するにあたり、たくさんの人が自分のことを思い支えようとしてくれていることに、自宅にこもる時間が多かったここまでは身勝手ながら気づくことが難しかった。
富山で同じように調子を崩し、当地にやってくることになった際には、とあるエライさんから、暗に「同様のつぶれ方はもうできないよ、もしそうなったら…」的なプレッシャーを受け、当地では絶対にそんなことになってはいけないという思いだけでがんばってきた。
2年半をほぼほぼ無休で乗り切って、何とかそのプレッシャーには打ち勝つことはできたと思った刹那に、年明けからの「一人二役」の疲れが襲ってきて倒れてしまった。
正直、転勤から2年半が経っていようと当時の富山での言葉は生きていると思ったから、困っていた私を拾ってくれた会社をいよいよ辞めなくてはいけないのかという極限の心理状態にまで追い詰められた。
しかし、実際にはそうはならず、この2ヶ月間を回復のためにしっかり使ってほしいという話で収まり、まずは予定通りの日程で帰ってこれるように気持ちを切り替えることができた。

仕事的には決まった担当を持つことからは一旦外れ、振り出しからの再スタートとなる。
振り出しからとはなるが、再度当地での仕事に参加はしていける。
もちろんこういった事態の後、倒れる前と同じ仕事にいきなり戻れるわけもない。
他人の手伝いから徐々に入っていって、体のリズムも含め、仕事仕様の自分に少しずつでも戻るように、また決して焦らず毎日わずかでもいいから役に立てればそれでいいと考えて、最初から無理をしすぎないことが大事になる。

休んでいる間は、会社員としてはもう先が見えてしまっただの上がり目はなくなっただの、どうしても内向きで暗い思考に陥りやすかった。
しかし、今こうして多くの人の思いに包まれて元の場所に帰ることができるありがたさを噛み締め、普通に会社に出られる体になれたことに感謝をしながら、誠実に勤め上げていきたいと思うのである。

この街をいつかは?

2018-05-20 20:50:56 | 休日


本日は、私がお世話になっている春日井市の市長と市議補欠の選挙があり、午前のうちに近くの小学校で投票を済ませた。
本欄を書き出したのはちょうど投票締め切りの時刻である午後8時だが、国政選挙のように出口調査もないから締め切りの瞬間に大勢判明ということはない。
まさにこれから開票作業が行われ、向こう4年間の31万都市の舵取りを担う人物が決まるということである。

市の庁舎を撮影したのは昨日、ちょうど正午になるかならないかの時間帯だった。
近くで食事に入っていて、すいていた店内が急に混みだしたから多分間違いはないだろう。
この角度で写真を撮るには、国道19号線沿いの歩道を少し歩く。
食事屋さんの駐車場にクルマを置きっぱなしにしていたので、ほんの数分とはいえ少しあせりながらの撮影であった。

ちなみにこの庁舎の12階には一般市民にも開放されるランチスペースがあって、市民の間では好評である。
1,000円を少し超えるような値段で、昼ごはんにはややゼイタクにも思える内容、また春日井市内をぐるりと見渡せる場所での食事は、私も一度だけ行ったが本当に素晴らしい。
役所に合わせて土日はやっていないのは仕方なく、平日にチャンスがあったら行ってみようとも思う。

いつでも行ける、いつでも見られる場所をわざわざ写真に収めたのは、選挙の横断幕がかかっているからではなかった。
前々からも書いている通り、私の当地での生活ももしかしたらそう長くないのかもしれないという思いがあるからだ。
当地の事業所に移って2年半、クセの多い人間に囲まれながらも仕事自体は楽しんでやることができて、またプライベートでもなじみと呼べるお店もできて、2年半という月日が経つのはあっという間だった。

ただ、特殊な事情はあったとはいえ、今の事業所での仕事で疲れが蓄積し今回のように長期離脱となってしまったのだから、同じ環境に復帰していくことは私でなくても不安がある。
富山で事務方をやって倒れた時には、新天地でがんばれという配慮のもと初めての土地にやってくることになったから、元の場所に足を踏み入れる機会がまったくなかったことが気分的にラクだったのは確かだ。

復帰直前には、出入りのお医者様と、さらには事業所の上司と、同席ではないにしても何らかの話を持つことになるだろう。
もちろんどんな話があるかは知らないし、今から前もって知ろうとも思わない。
ただ、四半期の区切り、7月の頭を見据えて「やはり環境は変えた方が…」という話を出すのに、皮肉にも復帰予定日が絶好のタイミングであることから、私がようやく慣れた当地を離れる運命にならないとは言い切れないのである。

Mr.Childrenのごく初期の曲に「星になれたら」という曲があり、私も何度かカラオケで歌ったことがある。
あの歌の中身は「自分で決めて違う環境に行く」直前の青年の心だが、私がずっと元気なままでいたなら当面は考えなかったことが、体を壊すという事態を受け、組織の命令という形によって、また新たな土地へという現実が案外すぐそこに来ているのではないかと考える日曜日の夜なのであった。

あてもなく

2018-05-16 22:19:43 | 日記
休職期間もあとわずかになった。
仕事のリズムに近い生活を少しでも早く取り戻したいが、やはり今はどうしてもという義務が存在しないために起きるのも寝るのも遅めである。
せめてものエチケットとして、会社が動いている時間帯は派手に外に出て遊び回ることは避けている。
自宅での時間が多くなるのはどうしようもなく、退屈な時間は何とかつぶすしかない。
精神的な疲れを取り去って、まずは予定通り復帰するのが第一の任務だからだ。

今日は夕食の準備を忘れてしまったので、20時前にクルマを出して名古屋市の北部あたりまで行って気ままに動いた。
地図も持たず、ナビは元からなく、本当に気分のままに約1時間で自宅に帰った。
知らない道も通ったが、走っていればいずれ看板が現れてどこをどう走っているかくらいは分かる。
日中動けず、夕方を過ぎて外に出たいと体がウズウズするくらいだから、普通に生活することだけで言えばほぼほぼ本調子に近くなったとは思う。

もちろん仕事場となると話は別で、親しく話せる人となると片手もいるかいないかだ。
私の所属部署には片手以上の人数がいるのにそうだということは、うまくいっていない、これからもうまくいきそうにない人が混じっている。
通常の生活と仕事場の環境はまったく違う。
一度弱って復調途上にある人間と分かって、ここぞとばかりに叩こうとしてくる向きもあるだろう。
復帰初日からいきなり重いプレッシャーを受けることも覚悟しなくてはならない。
しかし前々から書いている通り、今回の事態を受け、今後は多くを期待されないことになるかもしれないから、周りのどうでもいいような人間関係は横において、いい意味で力を抜いて臨めばよい。

今日は5月16日、復帰までは二週間を切ったが、それまでは本当にあっという間だろう。
今週はともかくも、来週は所用を多く抱えており、あれこれ考えを巡らす暇もないまま復帰の日を迎える。
仕事だから出ていく以上はベストを尽くしたい。
しかし一方で組織に属する人間として、何らかの指示があればそれに従う。

このふた月の間は、もちろん休息を第一としながらも、有り余る時間の中「このままでいいのか」と自問自答を繰り返す日々だった。
と言って、転職は年齢的にも難しく、副業は禁止である。
今までの、会社と仕事の往復という生活に何かをプラスしたいと考え、あれこれ調べ、行動もした。
今はその何かへの途上であり、目に見えるものが姿を現すのは数ヶ月先、しかし今年の内であることは間違いない。

ここまでのことをやったら他にもう何もいらない、もう死んでもいいと思えるくらいのことを、たった一度の人生の中で本気で追い求める時期がどこかであっていい。
かなり年齢的に遅めとは思うが、今そのさなかにいられる自分を幸せに思うし、機会を与えていただいた方々には今の段階で感謝の気持ちでいっぱい、何としても恩返しを、と心の中で誓うのである。

あと少し

2018-05-13 23:54:40 | 休日
こちらに来てから2年半、思いがけず体を悪くして休みをもらい1ヶ月半が経った。
重い状態からは早々に脱し、少しずつ外出の機会も増やし、あとはだいたい半月後の復帰を待つばかりである。
目に見えないことだけに油断はできないが、仕事から離れて休むことで活力も戻り、外出先でもあれこれ考えを巡らせながらアクティブに動くことができるようになった。
復帰直前には会社に出入りのお医者様に状況を報告し復帰への確認を含めた話し合いをもつ。
会社の上司からも何か話はあるだろう。
とりあえずは、主治医の診断で定められた期限から延びることなく復帰にこぎつけられそうで何よりである。

ただしそこはプロの世界、いくら本人に悪気がないとはいえ、病気で長く会社を空けた人間が休む前と同じ役割を与えられるか、同じような期待を持って扱ってもらえるかは不透明だ。
社内を見渡せば、ほんのわずかな仕事しか与えられず時間を持て余すようにしているベテランの社員も数人いる。
もちろんそんな扱いを受けるまでになったのには理由があるのだろうが、一方では毎日遅くまで残って働く人、他の部署からの手伝いをもらわないと回らない部署など全般的には忙しい中で、毎日簡単な掃除や草むしりだけで終わる人もいる。

復帰にあたってどのような話になるかは分からないが、体調は回復しても元どおりの役割になるかは話を聞くまで謎である。
長く一つのポジションを空け、代わりにあくせく動いてくれた人には感謝する一方、復帰するからすんなり戻してもらえると期待できるほど甘くはない。
上に書いたような「生かさず殺さず」の扱いを受けることだって、会社だから十分にある。
本人のやる気や意思とは無関係に、役割としては不本意な毎日が続くかもしれないし、もっと言えばちょうど四半期の第2クールに入る7月の頭をにらんで当地での役割を失い、他の事業所へ動くことも考えられるのだ。

この時点で言えるのは、復帰はさせてもらえるかもしれないが、少なくとも今の会社の中では「上がり目」ということになるとほぼ期待は薄くなった。
事務方をやって倒れ、配慮をもらって当地に移ったのにやはり倒れた人間をアテにできるほど会社には余裕はない。
「普通とは違う」と今の時点で思われているなら、この組織の中にいても未来はそれほど明るくない。
出世もせず給料もそれほど上がらず、しかし社会的な要請から支出は増えるばかりで、生活水準はむしろ下がる危険のほうが大きい。

そこまでを見通すと、今の流れそのままでただただ残りの人生を送ることはあまりにもったいなく思えてくる。
貴重な休みをもらっている間に、応分の投資もしながら、今の生活にプラスになる、人生に彩りを添えられるような何かを求めて動いてはきた。
今はまだ準備段階だから何かを書ける状況にはないが、要は残りの人生、仕事と並行でもいいから「好きなこと」を思い切りやると決めたのである。
生活や待遇が上向かなくても、心から好きなことをやって何か形のあるものをこの人生に残すことができるなら、今まで生きてきた意味もあるし、やり切ったと心から思えて人生を終われるのではないか。

体はひとつ、人生は1回。
誰にも平等に与えられた時間、今からでも私の時間を少しでも輝かせ、小さくても一輪でも花が咲くようなものにできたら本望だ。

骨休め

2018-05-07 21:06:27 | 休日
今年の大型連休は長めに地元で過ごさせてもらい、久しぶりの更新となる。
ちょうど4月の29日に、東京で所用があり、愛知に帰ってまた富山というのが面倒になったので東京駅から北陸新幹線に乗って帰った。
実家の最寄りは黒部宇奈月温泉駅、東京駅から速達型の「かがやき」に乗って長野駅に着くと、各駅停車の「はくたか」が待っていた。
長野駅からは各駅停車だから多少時間はかかるが、それでも東京駅発車から最寄り駅到着まで2時間20分くらいである。
もう開業から3年を経過したが、愛知に転勤になったことから乗車の機会はほとんどなく、しかしあらためて新幹線の速さを体感することになった。
上越新幹線に乗り越後湯沢もしくは長岡で在来線の特急に乗り換えていた頃は、ざっと3時間半というのがイメージだったから、1時間短いというのはかなり大きい。
在来線の第3セクター化など地元は決して小さくはない代償を払っているが、連休らしい人出の多さを見るにつけ交通インフラの重要性を肌身に感じた。
もともと北陸まわりの新幹線は東海道新幹線の代替機能も果たす目的で早くから計画はあったが、整備が完了したのは東北・上越に30年以上遅れを取ってしまったからだ。

さて、地元にいたのは実質6日ほど、雑事をしなくていいのはラクだし何の気兼ねもなく文字通りの骨休めにもなる。
その意味ではありがたいし、定期的に帰ることは必須くらいに考えている。
ただ、実家には自分専用のスペースはなく、もともと両親と兄家族4人の計6人がいる場所では、食事や入浴もすべて思い通りというわけにもいかず、気を使う部分もある。
今回はわりあい長くいたが、あまり長い滞在になると、うまく表現できないが互いのために良くない感じがする。
実家の雑事はほとんどオフクロが仕切っているので、ただでさえ多い人間がもう1人増えた状態はせいぜい3日か4日くらいが適当ではないかと思う。
当地に戻ると言って「もう行くの?」と言われるくらいがちょうどいいのだ。

今回の連休は天気が悪い日も多かったし、クルマで来なかったから外に出られた日はあまりない。
天気が良くて大きく動けた日としては1日と5日くらいだったか。
今回だけで写真は100枚くらい撮っているが、キリがないので5枚だけ並べる。
上2枚が魚津市内、下3枚が富山市内である。











連休明けとはいえ、仕事への復帰までにはもう少し時間がある。
生活のリズムを徐々に仕事仕様に立て直す必要がある。
仕事に出る日と同じような時間に起き、無駄な二度寝や昼寝をしないでできるだけ起きているようにし、その分夜はたっぷり時間を取って休む。
昼間に寝てしまって夜寝られず、夜型の生活に振れてしまっているのを少しずつでも元に戻していきたい。
今は体調そのものも普通に活動するには問題ないので、少なくとも今の状態を何とか維持して予定通りのスケジュールで復帰したいと思う。