スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リコー杯女流王座戦&神との類似

2016-12-02 19:03:33 | 将棋
 11月25日に静岡で指された第6期女流王座戦五番勝負第三局。
 加藤桃子女流王座の先手で里見香奈女流名人のごきげん中飛車。⑤から①-Bの変化に合流。先手が右の銀を進出させて一歩得を果たしました。
                                     
 先手が2筋突破を目指して歩を打った局面。公式戦に二局の前例があり,☖9四歩でいずれも後手が勝っていたそうです。先手がそれに挑んだのはおそらく研究があったからでしょうが,後手の方から☖2三同歩と変化しました。後手には別の研究があったということでしょう。
 ここは☗2三同銀成もありそうですが☗2三同銀不成でした。☖2六歩と打たれたら☗3四銀成と指そうという意図だったと思います。不成でしたので後手は☖3三金と逃げ先手は駒得を目指して☗2二歩。
 そこで後手は☖5六歩と突きました。後手から角を交換されては王手飛車があるので☗4四角☖同金としてから☗5六歩。当然☖同飛でここも☖5五角があるのでひとまず☗5七歩と受け後手は☖7六飛と王手で回りました。
                                     
 僕はまず並べたときにはこんな手順で後手がよくなるわけがないと思いました。今は指さないとはいえ居飛車党ですので,こんな手順でよくされてはたまらないという気持ちもあったかもしれません。
 先手は駒を取ることが見込めるので固く☗7七歩と打つのも有力だと思います。ただしそれは指し方としては弱いのかもしれません。実戦の☗7七銀の方が目一杯に迎え撃っている感じがあります。
 後手はそこで☖2七歩と叩いたのですが,対して☗4八飛と逃げたのが悪く☖3六飛☗2一歩成のときに☖5六歩☗同歩☖5七角と攻め込まれました。
                                     
 5八に飛車を逃げていればこの順はありませんでした。この手を境に後手がよくなったようです。
 3連勝で里見名人が女流王座を奪取第3期以来3年ぶり2期目の女流王座です。

 スピノザが精神mensと身体corpusを同一個体とみなすことは,優越性を広く解する場合には,おそらくそれ自体が論難の対象になります。
 フーゴー・ボクセルHugo Boxelは,最初は明らかに幽霊が物体corpusでもあると主張していたと僕は解します。ところが,書簡五十五ではあたかもそれが思惟の様態cogitandi modiであって物体ではないかのような主張をしました。そしてその中でボクセルは,幽霊は霊の一種であるから神Deusに類似するのであるといっています。ここで霊といわれているのは思惟の様態と解して間違いないと思います。つまりここでボクセルは,もし幽霊が物体であるならそれは神に類似しないであろうといっているか,少なくとも幽霊が物体としてみられるなら,それが神に類似しているかどうかは自分には分からないといっているのです。これは人間に変換すれば,人間は身体を有するから神に類似するとはおそらくボクセルは認識しないのであって,人間が精神を有するから神に類似するのだと認識するのであろうことを容易に推測させます。
 デカルトの哲学では物体的実体substantia corporeaというのは神ではありませんでした。これに対して思惟的実体というのを仮定すればそれは神です。したがってこの見解はボクセルの認識と似ているところがあるといえるでしょう。デカルトの哲学においてもし人間が神に類似しているというとすれば,それは人間の精神が類似しているのであり,人間の身体が類似しているということにはならないであろうからです。そしてフェルトホイゼンLambert van Velthuysenはデカルト主義者だったのですから,おおよそその種の見解を有していたと判断してよいものと思います。
 つまり,ボクセルにせよフェルトホイゼンにせよ,単に人間がその他の物体ないしは物体の観念ideaと比べて優越的である,あるいは完全であると認定していたのではたぶんないのです。むしろかれらは,人間の精神が人間の身体に対して優越的であるあるいは完全であると認定していたのです。だから,身体に対する精神の完全性perfectioあるいは優越性を否定するスピノザの見解には同意できないのです。
 では,スピノザはどうしてその種の優越性あるいは完全性も認めないのでしょうか。その答えが第二部定理七系です。
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