スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典JBCクラシック&フーゴー・ボクセル

2016-11-06 19:38:40 | 地方競馬
 川崎競馬場の2100mで争われた3日の第16回JBCクラシック
 コパノリッキーの出方が注目でしたが,逃げるつもりはなかったようです。好発はホッコータルマエ。これを内から交わしたサミットストーンの逃げになりました。控えた2番手にホッコータルマエ。3番手はイッシンドウタイと,追い上げてきたクリソライトで併走。コパノリッキーはこれらの後ろでこれを外からマークする位置にアウォーディー。インフォーマーとノンコノユメが並んでサウンドトゥルーはその後ろから。ミドルペースでした。
 2周目の向正面でコパノリッキーが追い上げを開始。ここでイッシンドウタイとクリソライトが脱落。ホッコータルマエはコパノリッキーが来る前に動いてサミットストーンを交わして先頭。サミットストーンも後退。コーナーではホッコータルマエとコパノリッキー,そしてこれをずっとマークしていたアウォーディーの3頭が雁行。直線入口付近からコパノリッキーは遅れ始め,絶好の手応えだったアウォーディーがホッコータルマエも交わして先頭に。しかしここからホッコータルマエがアウォーディーに馬体を併せていくと盛り返してまた競り合い。手を焼いた感はありますが,アウォーディーが差し返しは許さず優勝。4分の3馬身差の2着にホッコータルマエ。コパノリッキーの外から脚を伸ばしたノンコノユメとサウンドトゥルーの3着争いは外のサウンドトゥルーの伸び脚が優り1馬身差で3着。ノンコノユメは1馬身半差の4着でコパノリッキーはさらに1馬身差で5着。
 優勝したアウォーディーは前走の日本テレビ盃まで重賞4連勝で計5連勝。大レースはここが初の出走で突破。距離は伸びた方がよいと思われるので,最有力候補と考えていました。2着馬もさすがの底力はみせましたが,それを振り切っての勝利。メンバーのレベルもかなり高く,ダート競馬ではトップに立ったとみていいでしょう。ただし,チャンピオンズカップは1800mになりますので,絶対視まではできないかもしれません。父はジャングルポケット。母はヘヴンリーロマンス。祖母がファーストアクト。半妹に昨年のエンプレス杯,ブリーダーズゴールドカップ,名古屋グランプリ,今年のエンプレス杯,ブリーダーズゴールドカップを勝っている現役のアムールブリエ。半弟に今年のUAEダービーを勝っている現役のラニ。Awardeeは受賞者。
                                     
 騎乗した武豊騎手帝王賞以来の大レース制覇。第5回,7回,8回,9回,10回,11回,15回に続き連覇でJBCクラシック8勝目。全体では9勝目。管理している松永幹夫調教師は騎手として第1回を制覇していますが調教師としてはJBCクラシック初勝利。全体でも初勝利でした。

 清水自身の主張の内容とはいっかな関係しないのですが,これまでに副題的には考察したけれど,主題としては考察していなかったある事柄について,考察する契機となるような部分が『破門の哲学』に含まれています。この機会を失うと次にまたいつその機会が訪れるか分かりませんので,それについてもここで考察しておくことにします。
 スピノザの文通相手に,フーゴー・ボクセルHugo Boxelという人物がいます。現行の『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡五十一,五十三,五十五がボクセルからスピノザに宛てられたもので,五十二,五十四,五十六がスピノザがボクセルに宛てた各々の返信です。
 書簡集に含まれている相手の中で,最も素性が知られていないのはヨハネス・ファン・デル・メールです。メールほどではありませんが,ほかの人に比べるとボクセルもあまり知られていません。畠中の解説だと,1655年から1659年まで故郷で秘書官を務め,その後で法律顧問になり,ヨハン・デ・ウィットJan de Wittが殺害された1672年までその職を務めたとあります。したがって地方の政治家で,党派的にはリベラルな議会派に属していたと考えられそうです。これ以上のことは僕には分かりません。スピノザとの出会いがいつであったか不明と畠中は書いています。計6通の書簡はすべて1674年9月と10月です。ボクセルはフランス軍がオランダに侵攻したとき,フランス軍の了解の下に執政政治の復活に尽力していたそうなので,スピノザのユトレヒト訪問のときに交流があったと想像できるとも書かれているので,おそらく畠中はそこがふたりの出会いであったと想定しているのではないでしょうか。
 これらはすべて遺稿集Opera Posthumaに含まれていました。元々はオランダ語でのやり取りで,スピノザがラテン語に翻訳してありました。書簡の主題になっていることは,現代の僕たちからみたらくだらないといっていいほどの事柄です。それを遺稿集に含めたのは,その中にスピノザの哲学的見解が含まれていたからだったと僕は考えます。ただ,スピノザが訳しておいたからとか,主題そのものが当時からみれば宗教的には重要であったからという可能性もあり得ます。
コメント
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