スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典名古屋グランプリ&自然法

2016-12-16 19:19:38 | 地方競馬
 昨日の第16回名古屋グランプリ
 ケイティブレイブが楽にハナへ。アムールブリエが2番手でがっちりとマーク。3番手にメイショウヒコボシ。この後ろにストロングサウザー,リワードレブロン,トゥルーカラーズ,カツゲキキトキトの4頭が一団で1周目の正面を通過。ダッシュが鈍く最後尾に置かれたモズライジンが1周目の向正面にかけて外から徐々に位置取りを上げていき,メイショウヒコボシの外まで取りつきました。その後ろの集団は徐々にばらけていき,単独の5番手にカツゲキキトキト。少し離れてトゥルーカラーズ,そしてストロングサウザーが続くという隊列に。
 2周目の向正面からケイティブレイブが2番手以下を引き離していきました。一時的にリードは4馬身から5馬身くらいに。2番手のアムールブリエが1頭で3コーナー前から追い上げていき,直線の入口では2頭がほぼ並ぶ形。こうなれば追うものに強みがあり,直線ではあっさりと突き放して快勝。ケイティブレイブは3馬身差で2着。3コーナーでメイショウヒコボシを外から交わしたモズライジンのさらに外を回して追い上げたカツゲキキトキトが5馬身差で3着。
 優勝したアムールブリエは前々走のブリーダーズゴールドカップ以来の勝利で重賞6勝目。第15回に続く名古屋グランプリ連覇。このレースは2着馬とマッチレースになることが濃厚。斤量が有利になっていることと距離適性に一日の長があると思われ,どちらかといえばこちらが勝つ可能性の方が高いのではないかと思っていました。着差ほどの力量差があるわけでなく,やはりこの距離でのスタミナ面で優越していたということだと思います。これで引退するようなので,思い切って仕上げることができたということもこの差に表れたのかもしれません。母はヘヴンリーロマンス。祖母がファーストアクト。半弟に先月のJBCクラシックを勝っている現役のアウォーディー。同じく半弟に3月のUAEダービーを勝っている現役のラニ。Amour Brillerはフランス語で愛の輝き。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は第6回以来10年ぶりの名古屋グランプリ2勝目。管理している松永幹夫調教師は第15回に続く連覇で名古屋グランプリ2勝目。

 各々のものがなし得るpotentia,すなわち自然権jus naturale,naturale jusは,そのものの本性essentiaが異なるのと比例して異なります。これは本性というものを力という観点からみたならば実在性realitasであるということから明らかでしょう。なぜなら,各々のものの実在性という力の相違とそれらのものの本性の相違は,同一の相違だといえるからです。
 第一部定理二五が示しているのは,神Deusは各々のものが存在する原因causa efficiens rerum existentiaeであるばかりでなく,各々のものの本性essentiaeの原因でもあるということです。したがって神は各々のものの実在性の原因でもあるわけです。つまり各々のものの自然権の起成原因は神であると解さなくてはなりません。ただし,自然権というのは純粋に哲学的用語であるとはいえず,政治論的な意味をもちます。神が各々のものの本性の原因であるということは,神の本性の必然性necessitasによって各々のものの本性が生じるということです。このとき,神の本性の必然性という哲学的な概念が政治論的な意味においては自然法lex naturalisといわれることになります。つまり万物に共通の自然法によって,各々のものの自然権は決定されているということです。要するに「唯一」の神の本性の必然性によって個々の異なった本性が発生するということが政治論的な文脈に置き換えられたとき,共通の自然法から個々の相違する自然権が発生するということになるのです。このゆえにスピノザは,各々のものの力というのと,各々のものの権利jusというのを,概念としてあたかも同一のものとして規定することになります。
 このことから理解できるのは,もしも共通の自然法から発生する個々の自然権の間に何らかの優劣があるとするなら,やはり共通の神の本性の必然性から発生する各々のものの本性の間にもそれと同じだけの優劣がなければならないということです。フェルトホイゼンLambert van Velthuysenやフーゴー・ボクセルはそのことを肯定していて,スピノザはそれを否定していると解するのが正しいだろうと僕は考えます。そして僕の見解でいえば,フェルトホイゼンやボクセルのように主張することは,実は神にある種の不完全性を付与することに繋がるのです。だから僕はスピノザの見解の方が正しくなければならないと考えるのです。
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農林水産大臣賞典全日本2歳優駿&自然権の優越性

2016-12-15 19:29:52 | 地方競馬
 昨晩の第67回全日本2歳優駿
 リエノテソーロの逃げもあるかと思っていましたが,ローズジュレップが主張して逃げました。発馬直後に外によれてしまったシゲルコングが長い直線で追い上げて2番手に。リエノテソーロはその後ろに控え,メイソンジュニアと併走での追走に。前半の800mが49秒8のハイペースになったのですが,不良馬場になった影響が大きかったようで,ここで前の位置を取ることができた馬たちだけのレースになりました。
 3コーナーを回るとシゲルコングがローズジュレップに並び掛けていき,さらにその外にリエノテソーロも並んで3頭が雁行。メイソンジュニアは一杯になり突き放されました。5番手をネコワールドと併走していたハングリーベンはレースに参加すべく追い上げようとしていましたがまだメイソンジュニアより後ろで前3頭のレース。一番外のリエノテソーロが楽々と抜け出して快勝。シゲルコングもローズジュレップは捕えて3馬身差の2着。逃げたローズジュレップが1馬身半差で3着。4着以下はここから4馬身離されました。
 優勝したリエノテソーロは前走のエーデルワイス賞に続く重賞制覇。デビューから4連勝での大レース制覇となりました。今年の2歳馬はエピカリスが過去最強クラス。その他の馬は例年のトップレベルに達しているかどうかも不明なところがあったので,今回の出走馬が決定したとき,14頭のうち10頭は勝つ可能性がある馬というのが個人的見解。その中で最も底を見せていなかったのがこの馬で,その点に魅力を感じていました。課題は距離延長でしたが,このレースをみる限りではこの距離ならさほど問題にはならないようです。ただ,スピード能力の方が優越していると思われますので,さらに距離が伸びることがプラス材料になるとはあまり思えません。その意味では不良馬場になったのはプラスだったでしょう。大成するならスプリンターとしてではないでしょうか。
                                    
 騎乗した吉田隼人騎手は昨年の有馬記念以来の大レース2勝目。管理している武井亮調教師は開業から2年9ヶ月で大レース初勝利。

 人間の自然権jus naturale,naturale jusとライオンの自然権では,どちらが優れた自然権であるかを決定できるでしょうか。まずそこから考えていきます。
 間違いなく人間はライオンより多くのことをなし得ます。つまり人間の自然権はライオンの自然権より広範にわたります。だから人間の自然権の方がライオンの自然権より優れた自然権であると結論するなら,これはいささか短絡的にすぎるでしょう。このことは人間の自然権がライオンの自然権より広範であるということだけを示しているのであって,ライオンの自然権として含まれている事柄のすべてが人間の自然権に含まれているということを示しているわけではないからです。むしろライオンの自然権には含まれているけれど,人間の自然権には含まれていない事柄もあります。いい換えればライオンにはなし得るけれど人間にはなし得ないということもあるのです。
 さらに,現実的に存在する人間とライオンが,武器を持たずに一対一で戦えば,おそらくライオンが勝ちます。つまりこの意味においては,ライオンの自然権が人間の自然権を凌駕するのです。もしかしたらライオンはその一点をもって,ライオンの自然権は人間の自然権より優れた自然権であると主張するかもしれません。ですがそれもまた短絡的な主張といわざるを得ないでしょう。それはちょうど,人間の自然権がライオンの自然権より広範にわたるという一点をもって,人間の自然権の方が優れた自然権であると人間が主張するなら,それは短絡的であるというのと同じです。
 こうした考察は,スピノザが書簡五十六でいっていた,三角形が口をきければ神は優越的にeminenter三角だというだろうという主張とパラレルな関係にあります。つまりここでいう人間の主張は人間的な主張であり,ライオンの主張はライオン的な主張であるということです。そしてこうしたことがおおよそ現実的に存在するすべてのものについて妥当しなければなりません。よって優れた自然権なるものは存在しないといわなければならないでしょう。
 このことは,自然権というもの,他面からいえば各々のものがなし得ることが何によって成り立つのかということからも説明できます。
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叡王戦&適用の条件

2016-12-14 19:17:59 | 将棋
 11日に迎賓館の和風別館で指された第2回叡王戦決勝三番勝負第二局。
 佐藤天彦名人の先手で急戦矢倉。先手での急戦矢倉は最近では珍しい戦型ではないかと思います。後手の千田翔太五段も積極的に攻め合う対応をしました。
                                     
 8筋を突き捨てた後手が8七に歩を打ち,先手は6六に角を逃げて後手が飛車を走った局面。
 攻めの継続を図るなら☗4四銀ですがそれは無理とのこと。ならば受けに回ることになりますが☗5九金と寄りました。この手が好手で先手の勝因のひとつになったのではないかと僕は思っています。
 後手が☖6五桂と跳ねたのに対して先手は☗7七桂とぶつけました。
 ここは☖同桂成から激しく攻めていくのが有力で,あるいは最善だったかもしれません。しかし☖8八歩成と成り捨ててから☗同金に☖7七桂成と迂回しました。単に☖7七同桂成だと☗同金と取る余地が先手に残るのを防いだ意味。この場合は飛車を成られてしまうので☗同角の一手です。
 飛車取りなので☖8五飛と逃げ,先手はまた☗6六角と上がりました。一歩は捨てましたが手番は握れたのでそう悪い交換ではなかったと思いますが,意外と攻める手は難しかったのかもしれません。☖8六歩と垂らしました。
 先手はそこで☗4四銀。これは単なる攻め合いではなく銀の入手を見込んだ手。☖8七歩成のときに☗3三銀不成☖同桂と交換して☗9六銀と打ちました。
 ここは放置して角を狙いにいく方がよかったかもしれませんが☖6五飛と逃げたので☗8七銀で先手はと金を取れました。
                                     
 ここで後手は☖5四桂から攻めていきましたが足りませんでした。☖5五銀から攻めていくのも芳しくないようなので,第2図は少し先手がよいのでしょう。後手はこの陣形で戦うのは難しいのかもしれません。
 佐藤名人が連勝で優勝。2011年の新人王戦以来となる3度目の棋戦優勝です。

 第五部定理四〇証明の手続きからすると,もし神Deusの属性attributumに包容される限りにおいては同一の本性essentiaを有するふたつの個物res singularisが現実的に存在する場合には,より能動的であるものの方がより完全であるということは理解できます。おそらくより完全な人間の精神mens humanaとそうでない人間の精神が現実的に存在することは多くの人が認めるところなのであって,この人間観については異論は出てこないものと思います。ただスピノザの哲学においては,この相違が,より完全な人間の身体corpusとそうでない人間の身体の相違と同じ関係にあるというだけです。
 しかし,神の属性に包容される限りで異なった本性を有する複数の個物が現実的に存在するという場合に,この定理Propositioをそのまま適用することが可能であるとまではいえないかもしれません。もちろん形式的にはより能動的であるほどより完全であるとはいえるわけですが,ある個物が能動的になし得る事柄は,本性の相違に比例して異なるからです。たとえばカラスは能動的に飛ぶことが可能かもしれません。ですが人にはそれは不可能です。このゆえにカラスの方が人よりも完全であるということはできないでしょう。それとは逆に,人は能動的に難解な数式を解きますが,カラスにとってそれは不可能です。ですがこのゆえに人間の方がカラスよりも完全であるということもできないといわなければなりません。
 よって人間がほかのものより完全であるということをいうためには,少なくとも能動的になし得る事柄が他よりも多いということ,他面からいえば他が受動的にしかなし得ない事柄の多くを人間は能動的になし得るということを示し,かつその相違が第五部定理四〇に適用し得るということを示さなければならないのです。
 スピノザの哲学においては,各々のものがなし得る事柄がそのものの力potentiaであり,これを政治論に適用すると権利jusとみなされます。すなわちそれが自然権jus naturale,naturale jusです。いい換えれば哲学的な意味の力と政治論的な意味の権利は同義です。そしてなし得る事柄を自然権とみなす限りにおいて,人間には人間に固有の自然権があるように,ライオンにはライオンの自然権があるというように考えることができます。
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九十九島賞争奪戦&第五部定理四〇証明

2016-12-13 19:01:11 | 競輪
 被災地支援競輪として開催された佐世保記念の11日の決勝。並びは新山‐神山の東日本,郡司‐小埜‐石井‐武井の南関東,稲垣‐中川の西日本で香川は単騎。
 稲垣がスタートを取って前受け。香川が3番手に入り,4番手に新山,6番手に郡司の周回に。残り2周のホームの入口から郡司が上昇。新山も応戦はしたもののホームでは郡司が稲垣を叩いて前に。うまく対応した稲垣が5番手に入り香川は7番手。新山が8番手の隊列に。バックに入ると郡司が本格的に発進して打鐘。稲垣がホームから発進しようとしましたが無理とみて自重。ここで香川がインを上昇していたため5番手が香川と稲垣で併走のような形に。バックに入ると後ろから動かれる前に小埜が番手発進。稲垣もまた踏もうとしましたが石井の牽制もあって失速。小埜が先頭で直線に入りましたが番手の石井が差して優勝。小埜が4分の3車身差の2着で千葉のワンツー。ホームで稲垣が動こうとしたときに連結を外し,最後尾から自力で大外を強襲した中川が4分の3車身差で3着。
 優勝した千葉の石井秀治選手は2014年10月の大垣記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは注目ポイントがみっつ。まず郡司が自分が勝つレースをするのか,マークした自力ある千葉勢を引き出す競走をするのかという点。次に郡司の先行になるにしても新山がどの程度まで抵抗するのかという点。そして西日本で結束しなかった香川の南関東分断作戦があるのかという点。結果的に郡司が発進したときに新山があまり抵抗できず,香川も分断策には出なかったので,打鐘の時点で千葉勢にはかなり有利なレースに。小埜がバックから発進したので,やはり自力のある石井にはかなり有利になりました。南関東勢の結束がもたらした優勝といえるでしょう。ただ,現時点の力関係だけでいえば郡司は優勝候補なのであって,決勝で小野や石井のために捨て身の競走をするランクの選手ではないという感想を個人的には有します。

 個物res singularisが現実的に存在する限りは,より完全なものとそれに比して完全でないものが存在することをスピノザは認めます。つまり完全性perfectioに優れた物体corpusもあればそれより劣った物体があることを認めます。また,完全性に優れた精神mensもあれば完全性に劣った精神もあるということを認めます。何度もいっていますが,スピノザの哲学では,すべてのものが精神を有することになっているので,後者の場合,論理的には人間の精神をほかのものの精神と比較する場合にも有効ですし,現実的に存在するある人間と別の人間の精神を比較する場合にも有効です。そして実際の人間観として問題となるのはこの部分でしょう。いい換えれば,個物が神の属性に包容されている場合については,人間観の相違として,スピノザと異なった見解をもつ人には,さほどの興味がないことではないかと思います。
                                     
 スピノザが第五部定理四〇のように主張することについて,僕はその意味を次のように解します。ここでスピノザは,働きをなすagereほど,すなわち能動actioが多いほど完全で,働きを受けるpatiほど,つまり受動passioが多いほど完全ではなくなるといっています。これを人間の精神について考察すれば,ここでスピノザがいっていることがもっともだということが理解できます。なぜなら,第三部定理三は,精神の能動Mentis actionesが生じる観念は十全な観念であり,精神の受動passionesが生じる観念は混乱した観念であるということを示しています。しかるにスピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念の関係は,単に前者が真理veritasであり後者が虚偽falsitasであるということだけを意味するのではありませんでした。同時に有と無の関係をも意味するのです。したがって,精神の能動が生じるのが有である十全な観念であるのに対し,精神の受動が生じるのは,それ自体でみれば無である混乱した観念であるということになります。つまり精神の能動というのは実在的なものから生じるのに対して,精神の受動は,その人間の精神とだけ関連付けられるなら実在的なものからは生じないのです。そして完全性の尺度は実在性です。よって精神は働きをなすほど完全で,働きを受けるほど完全ではなくなるということが帰結します。
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香港国際競走&第五部定理三七備考

2016-12-12 19:10:56 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で開催された昨日の国際競走。今年は数多くの日本馬の参戦がありました。
 香港ヴァーズGⅠ芝2400m。スマートレイアーは中団外を追走。道中で徐々に位置を上げていき,直線に向かうあたりでは3番手。サトノクラウンは内で控える形。最初は中団でしたが,後方よりに位置を下げていく形に。ヌーヴォレコルトは後方の外にいましたが,ゆっくりと控えていき,集団の最後尾を追走。このレースは逃げていた馬が直線で後続を引き離して独走。ですが道中で馬群の中を漸進し,最後も集団の中を割って抜け出たサトノクラウン1頭だけが追い詰め,フィニッシュの前ではついに逃げ馬を捕えて半馬身差で優勝。ヌーヴォレコルトはほぼ直線だけの競馬で直線は馬群を割って伸び4着。とはいえ勝ち馬からは8馬身差。スマートレイアーは直線で粘る競馬となりそこから4分の1馬身差の5着。ただこの2頭は距離が長いと思われ,善戦といえるでしょう。
 優勝したサトノクラウンは2月の京都記念以来の勝利。重賞4勝目で大レース初制覇。このレースは2着馬の実績が断然。その馬が逃げて後続を引き離したところを1頭で追ってきて差し切ったのですから立派なもの。事実,3着馬に6馬身半もの差をつけているのですから,2着馬も力を出し切ったとみてよく,この馬もそれだけの力があったということになります。これでみればこれくらいの距離が最適なのではないでしょうか。
 日本馬の海外での勝利は先月のレッドカーペットハンデキャップ以来。大レースは5月のイスパーン賞以来。香港ではチャンピオンズマイル以来。香港ヴァーズは2001年のステイゴールド以来15年ぶりの2勝目。騎乗した香港のジョアン・モレイラ騎手はチャンピオンズマイル以来の日本馬での大レース2勝目。管理している堀宣行調教師は天皇賞(秋)以来の大レース制覇。海外ではチャンピオンズマイル以来。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。ビッグアーサーは中団の外に位置し,4コーナーに向かって徐々に進出していく形。レッドファルクスは後方4番手から馬群の中を突いていくレース。ただ直線ではあまり見せ場はなく,ビッグアーサーが4馬身4分の1差の10着。レッドファルクスはさらに2馬身差の12着。スプリントは香港のレベルが高いカテゴリー。ロードカナロア級が遠征して勝てるというレベルですから,今年の2頭ではこういう結果も致し方ないのではないでしょうか。
 香港マイルGⅠ芝1600m。ネオリアリズムが外の2番手,発馬後のダッシュが悪かったロゴタイプは追い上げてその内と,レース前半はこの2頭が併走。サトノアラジンは最後尾に。ネオリアリズムはじわじわと進出して直線の入口では逃げた馬に並び掛け,直線で一旦は先頭に。しかしそこで一杯になり3馬身半差の9着。ロゴタイプはイン追走から馬群を割り,3着争いには加わったものの1馬身4分の1差で5着。サトノアラジンは直線で大外に。伸び脚はみせて2馬身4分の1差の7着。このレースは概ね後方に位置していた馬が上位を占めていますので,ロゴタイプは僕が思っていたより走りました。ネオリアリズムもひどくばててはいませんが,力不足だったということでしょう。サトノアラジンは控えたのは悪くなかったですが,大外を回るようではさすがに厳しいです。
 香港カップGⅠ芝2000m。最内枠のエイシンヒカリが前に行き1コーナーで先頭を確保。400m過ぎから23秒台のペースを刻み,2番手との差を広げていきました。ラブリーデイが3番手の内,ステファノスは5番手でしたが道中で漸進してラブリーデイより前の3番手に。クイーンズリングは8番手から。モーリスは発馬が悪く後方3番手になり,そこからはずっと内を回りました。エイシンヒカリは直線に入るところでも大きなリード。ただ結果的には暴走だったようで,直線の半ばでは一杯になり7馬身4分の3差で10着。ずっと内を回り,直線では前にいた2頭の間を割ったモーリスはまだ先頭だったエイシンヒカリをあっさりと捕え,ここからは概ねワンサイドで差を広げて優勝。3馬身差となっていますがもう少しあったような感じもします。ステファノスとラブリーデイは並ぶように伸びて3頭での2着争い。ステファノスが2着馬から半馬身差の3着でラブリーデイは差のない4着。この2頭は力を出しての結果でしょう。クイーンズリングは流れ込むような競馬でエイシンヒカリより4分の3馬身前の9着。僕の見解ではこの馬には距離が長く,ペースが遅くならなければ厳しかったということです。
 優勝したモーリスは天皇賞(秋)からの連勝で大レース6勝目。このレースはエイシンヒカリとモーリスの力が抜けていて,エイシンヒカリの方が自滅のようなレースになったので圧勝になりました。これで現役を退くようですが,歴史的な名馬の1頭でしょう。この馬の数多くのレースをみることができたのは競馬ファンとして大きな喜びです。父はスクリーンヒーロー。祖母が1989年のクイーンステークス,1990年の金杯とアルゼンチン共和国杯,1991年のアメリカジョッキークラブカップを勝ったメジロモントレーデヴォーニアメジロボサツの分枝。
 日本馬は昨年に続いての香港カップ連覇で5勝目。騎乗したイギリスのライアン・ムーア騎手は天皇賞(秋)以来の日本馬での大レース制覇。海外ではドバイターフ以来。香港では昨年の香港マイル以来。管理している堀宣行調教師は同日に海外GⅠ2勝という快挙を達成しました。

 第五部定理四〇が人間の精神mens humanaにだけ妥当するのではなく,すべてのものが精神animataを有するなら,すべての精神に妥当するということについての説明は不要でしょう。さらにいえばこの定理は別に思惟の様態cogitandi modiにだけ限定していわれているわけではないのですから,たとえばすべての物体corpusについて妥当するということはいうまでもありません。
                                     
 この定理は,各々のものが,働きを多くなすほど完全であるということを示しています。なので働きをなすagereものほど完全であり,働きを受けるpatiものほど不完全であるということを意味していると解さなくてはなりません。ただし,ここで不完全というのは,絶対的な意味で不完全ということではありません。働きを受けることが多いものは,働きをなすものと比べれば相対的に完全であるとはいえないという意味です。つまりスピノザはこの意味において,完全性perfectioについて優れているものと劣っているものとが存在するということは認めているのです。
 ただし,僕の解釈では,これは個物res singularisが現実的に存在している場合のことです。僕がそのように解釈する根拠は第五部定理三七備考にあります。
 「第四部の公理は,一定の時間と場所に関係して考察される限りにおける個物を念頭に置いたものであって,そのことは誰にも明瞭なことと信ずる」。
 第四部公理は,自然のうちに存在する個物はどんな個物であっても必然的に働きを受けるということを意味しているといえます。ですがこの公理の前提は,その個物が現実的に,すなわち一定の時間と場所に関係して持続して存在するという場合に限定されるのだというのがこの備考の意味するところになるでしょう。ということは一般的に個物が働きを受けるのは,その個物が現実的に存在しているからだということになります。しかるに働きをなすもののほど完全性に優れ,働きを受けるものほど完全性に劣るということは,その個物が現実的に存在している場合にのみ生じることだということになります。よって個物が神の属性に包容されているとみられる限りでは,各個物間に完全性の相違は発生しないということになります。しかし現実的に存在するならそれは発生するのです。
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農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&第五部定理四〇

2016-12-11 19:34:44 | 中央競馬
 第68回阪神ジュベナイルフィリーズ
 ゲートの中で暴れていたエムオービーナスは立ち遅れました。先手を奪ったのはアリンナ。2番手はショーウェイとゴールドケープで併走。この後ろにソウルスターリング。そしてレーヌミノル。ジューヌエコールとスズカゼが並んで続き,ブラックオニキス,クインズサリナ,ジャストザマリンの3頭。シグルーンが単独で続きポンポンとヴゼットジョリー。エムオービーナスとリスグラシューが後方3番手を並んで追走し,隊列の最後尾にフェルトベルクとサトノアリシアの2頭。前半の800mは46秒7のミドルペース。
 3コーナーを回ると2番手のショーウェイは一杯でゴールドケープが単独の2番手に。これらの後ろで機を窺っていたソウルスターリングは直線で最内に進路を選択。そのまま抜け出して後続の追撃を許さず快勝。外へ進路を選んだレーヌミノルが一旦は2番手でしたが,大外からリスグラシューがよく伸びてこれを捕え,1馬身4分の1差で2着。レーヌミノルが1馬身4分の3差で3着。
 優勝したソウルスターリングは7月の新馬戦と10月のオープンを連勝。ここは無敗馬がほかにもいましたが,その内容から1番人気に推されていました。2着馬に対しては枠順の差がありますので,着差ほどの力量差はないかもしれませんが,このレースを上位人気で制した馬は無事なら大成していますので,来年のクラシックの有力候補でしょう。ここまでの2戦が1800mだったので,むしろ距離が短縮することの方に不安があったくらいですから,距離延長は苦にしないものと思います。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は菊花賞以来の大レース制覇。第67回に続いて阪神ジュベナイルフィリーズ連覇で2勝目。管理している藤沢和雄調教師は一昨年の天皇賞(秋)以来の大レース制覇。第50回以来18年ぶりの阪神ジュベナイルフィリーズ2勝目。

 デカルト主義者であれ哲学的な確固たる見解を有していなかった人であれ,この当時の多くの人びとの人間観には,ふたつの特徴があったと考えられます。ひとつは人間の身体corpusに対する精神mensの優位性です。そしてもうひとつが,人間のほかの様態modi,modusに対する優位性です。この点では哲学的見解も宗教的見解も一致していたのだとみてよいかもしれません。もっとも,現実的にはデカルト主義は宗教勢力からは論難されていたのであり,この見解はスピノザの哲学からみた場合には,という限定を与えておいた方がいいかもしれません。デカルト主義者たちが躍起になってスピノザの哲学を批判したのは,宗教勢力による自分たちへの論難を排除しようという意図があったのも事実だと思います。
 スピノザは人間の精神がほかのものの観念ideaよりも高度の完全性perfectioを有していないという見解はもっています。他面からいえば人間の精神の本性natura,essentiaが神Deusのうちに優越的にeminenter含まれることはないという考え方を有しています。人間観の相違をこれ以上は擦り合わせることができないので,ここからはその見解について考察します。ただし,スピノザの哲学ではある人間の精神というのはその人間の身体と同一個体なのですから,デカルト主義的な見解や宗教的な見解からは受け入れられないでしょうが,これを考察するのは人間の身体をほかの物体corpusと比較することと同じです。スピノザの哲学がそうなっているのでこの点は仕方ないでしょう。
 スピノザは,絶対的な意味において不完全な精神が現実的に存在するということはおそらく認めません。ただし,より完全な精神とそれと比べれば不完全な精神が現実的に存在するということについてはおそらく是認します。第五部定理四〇では次のようにいわれているからです。
 「おのおのの物はより多くの完全性を有するに従って働きをなすことがそれだけ多く,働きを受けることがそれだけ少ない。反対におのおのの物は働きをなすことがより多いに従ってそれだけ完全である」。
 本来はこの定理は人間に限定していわれていると解するべきですが,ここではすべてのものが精神animataを有するという意味で,すべてのものに妥当すると解します。
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白夜&現世的と彼岸的

2016-12-10 19:21:21 | 歌・小説
 主人公がコキュであると亀山郁夫が指摘している小説のうち,『白夜』は1848年に書かれたもの。『貧しき人びと』で小説家としてデビューしたのが1846年で,思想犯として逮捕されたのが1849年ですから,その間のものです。ドストエフスキーの小説としては短いもの。単独で出版されているものもありますが,どうせ購入するならほかの小説と一緒に訳出された文庫本もありますから,そちらを買った方がいいだろうと思います。
                                   
 主人公は26歳の役人ですが,インテリの青年といった方がいいかもしれません。ただしよくいえばロマンティスト,悪くいえば自分の空想の中で生きているような男です。
 この男がある夜にナースチェンカという17歳の女に出会います。それまでかなり風変りな人生を送ってきた女です。主人公はナースチェンカに恋をします。ナースチェンカは主人公のその思いは受け入れてくれるのですが,別に愛している男が存在します。それはかつてナースチェンカの家に間借りしていた青年です。この青年はナースチェンカと将来の約束をしているのですが,出稼ぎに出ていて,主人公とナースチェンカが出会った時点では消息不明です。そこで主人公は,何とかふたりの仲をとりもとうとして奔走します。その努力が報われたというわけではないのですが,最終的には男は戻り,ナースチェンカはその男の下へと走っていきます。
 形だけでいうと,この主人公とナースチェンカの関係は,後の『虐げられた人びと』のイワンとナターシャの関係に類似したところがあります。ただ,コキュという観点からみるならば,僕はこちらの主人公の方にコキュらしさというものを感じます。それはおそらく,この主人公がナスターシャを男と会わせようとする思いの強さから発しています。

 書簡四十二でいわれている賞罰の配分が,現世的な事柄を意味するか彼岸的な事柄を意味するか僕は分かりません。ただ,どちらの場合でも,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが賞罰の配分を受けるのが人間だけであると前提していることは間違いないと思います。
 たとえばある異教徒の農夫がいて,この農夫が丹念に栽培した作物が,収穫の寸前に野生動物によって食い荒らされてしまったという出来事が生じたと仮定しましょう。このときフェルトホイゼンは,この農夫が異教徒であったがゆえに神Deusによって罰を下されたと判断する可能性は皆無でないと僕は考えます。しかし,野生動物の方が何らかの善き行いをしたがゆえに神から褒賞を受けたのだとはフェルトホイゼンは絶対に判断しないだろうと僕は考えます。褒賞を受けるにせよ罰を与えられるにしろ,それは人間に付与されるものであるとフェルトホイゼンは認識するので,野生動物に神から褒賞が与えられたなどという認識がその精神のうちに生じる余地はないだろうからです。これは現世的な場合です。
 熱心にキリスト教を信仰した人が,その死後に神の国に迎え入れられるという褒賞を与えられるという可能性について,フェルトホイゼンは肯定する可能性があります。しかし人間以外の動物が神の国に迎え入れられるということについては,間違いなく肯定しないでしょう。これは正確にいうと動物は信仰心をもたないということが前提となっていると思われますが,宗教的に善とみなされる行いのゆえに死に至ったという場合についても同様だと思われるので,その部分に執着する必要はなかろうと思います。たとえば友人のことを助けようとして事故で絶命してしまった人間は,キリスト教徒であるという必要こそあれ,神の国に迎え入れられる可能性をフェルトホイゼンは否定しないでしょう。しかし同じように自身が獲物とし人間に捕らえられることによって,群れのほかの仲間たちを逃がした動物がいたとしても,そのゆえにその動物が神の国に迎え入れられることはフェルトホイゼンは否定するであろうからです。これが彼岸的な場合です。
 どちらも人間に特別な地位が与えられていることになります。
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第四部定理一八&賞罰の配分

2016-12-09 19:29:18 | 哲学
 第四部定理五五および第四部定理五六は,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaと第三部諸感情の定義二九の自卑abjectioが,反対感情ではあるけれどもよく似ているということを示しています。しかし第四部定理五六備考によれば,自卑は高慢よりも容易に抑制され得るとされています。逆にいえば高慢という感情affectusは自卑という感情ほどには抑制されにくいということです。これはその他の条件が同一であると仮定すれば,高慢の方が自卑よりも感情として強力であるということを意味します。
                                     
 なぜ高慢の方が自卑よりも強力であるといえるのかは,各々の感情の定義から明白なのです。すなわち高慢とは喜びlaetitiaの一種であり,自卑は悲しみtristitiaの一種です。このことが高慢は自卑より強力であることの理由です。つまり一般的にいえば,喜びという感情は悲しみという感情よりも強力なのです。それを示しているのが第四部定理一八です。
 「喜びから生ずる欲望は,その他の事情が等しければ,悲しみから生ずる欲望よりも強力である」。
 この定理は,喜びと悲しみのどちらが強力であるかが比較されているというより,それらの感情から生じる欲望cupiditasではいずれが強力であるかが比較されています。ですが欲望というのは第三部諸感情の定義一から分かるように,受動的である限りにおいて人間の現実的本性actualis essentiaそのものです。ですから与えられた喜びないしは悲しみのどちらが強力であるかを比べるより,与えられた喜びおよび悲しみによってどの程度まで強力な欲望が自身のうちに発生するかを比べる方が,感情の強さを正しく比較する尺度となるのです。たとえばある人間を喜ばせたいという欲望と悲しませたいという欲望のどちらが強いかを比較することで,その人を愛しているか憎んでいるかがよりよく比較できるようにです。
 つまり,高慢の方が自卑よりも強力な感情であるということの具体的な意味は,高慢から生じる欲望の方が,自卑から生じる欲望よりも強力であり,そうした欲望を抑制することがより困難であるということなのです。

 書簡四十二では,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が提示する神Deusには支配や摂理の余地がなく,賞罰の配分が排除されていると批判されていました。僕はこのことを,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが人間的な力によって神の力を判断していたこと,いい換えれば神の力と支配者の力を混同していたことの証拠として示しました。しかし同時にこのことは,人間がほかのものより完全な存在であるとフェルトホイゼンがおそらく無意識的に前提していたことの証拠でもあると僕は考えます。なぜなら,フェルトホイゼンがここで賞罰の配分というとき,その配分を受けるのは人間だけであってほかのものではないと判断していたに違いないからです。他面からいえば,神が賞罰を配分するとすればそれは人間に対してだけであって,その意味において人間はほかのものと異なる特別の地位が与えられていると解していたに違いないからです。
 この書簡を正確に解そうとするなら,フェルトホイゼンは,神が賞罰,とくに賞を配分するのはキリスト教徒に対してだけであると判断していたとしなくてはなりません。つまりキリスト教徒は異教徒より完全であるというようにフェルトホイゼンは認識していたとみるべきです。同じ段落の中で,マホメットが預言者でなかったということを証明できないし,トルコ人,というのは異教徒,とくにイスラム信者のことを意味すると思われますが,かれらがキリスト教徒と異なっているということを示せないという意味のことを述べているからです。また,スピノザもそれに対して反論しています。そこではマホメットが預言者であるということは否定され,異教徒といえども敬虔pietasである限りキリスト者なのであるという主旨のことがいわれています。
 ですがこうした宗教的な文脈に関してはここでは考慮しません。というのは現在の考察の論点は,人間とほかのものとの完全性perfectioを比較することなのであって,ある人間と別の人間の完全性を比較するということではないからです。フェルトホイゼンは少なくともキリスト教徒が神の賞罰の配分を受けると思っているのであり,人間以外のものがキリスト教徒と同じように賞罰の配分を受けるとは思ってないでしょう。
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竜王戦&フェルトホイゼンの人間観

2016-12-08 19:37:52 | 将棋
 昨日から甲府で指されていた第29期竜王戦七番勝負第六局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4△2二銀。相腰掛銀に進みました。
                                     
 後手が先攻の構えをみせて組み上がったところ。待たずに△6五歩と仕掛けました。
 ▲同歩△同銀▲同銀△同桂と進行したのですが,桂馬で取られるのを先手は軽視していたようです。
 ▲6六銀と逃げるのは仕方がないところですが後手は△5七桂成と強襲。これは▲同銀と取ると△6九角で困るということなので▲同金と取りました。おそらくこのあたりの手順が先手の想定外だったものと推測します。後手は△6五歩と追撃。
                                     
 ここで▲7七銀と逃げると△3九角から後手の攻めは切れないようです。なので▲2四桂から攻め合いにいきましたが,放置して△6六歩と取り,後手の攻め合い勝ちとなっています。したがって先手が第1図のように組んではまずいということでしょう。
 丸山九段が勝って3勝3敗。第七局は21日と22日です。

 人間の身体corpusが人間の精神mens humanaによって統御されるべきものであるというデカルトの哲学の考え方については,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは踏襲していると解してよいでしょう。ですから,フェルトホイゼンが,人間がほかのものよりも完全であるというとしたら,その場合の人間というのは人間の精神のことでなければなりません。この点ではフェルトホイゼンの人間観とフーゴー・ボクセルの人間観とは一致しているといえるでしょう。ただし,デカルトの哲学では,人間というのが精神と身体が合一unioしたものであるというのは基本的な原理で,フェルトホイゼンがそのことを否定するとは考えられません。なので純粋に人間観だけを抽出すれば,人間というのは不完全である身体と完全である精神の合一体であると解するのが適当と思います。ただしそこで完全とか不完全といわれているのはあくまでも相対的な意味です。いい換えれば精神は身体より完全であり,身体は精神より不完全であるという意味です。延長が不完全で思惟が完全であるということは,デカルトの哲学の形而上学から絶対的な意味に解してもあまり問題ないと思いますが,人間の精神が絶対的に完全なものだということは,必ずしも肯定されないと解しておくのが安全だと僕は判断します。
 一方,スピノザがすべての個体が精神animataを有するという場合には,フェルトホイゼンはそのことを肯定しないでしょう。したがって人間をほかのものと比較して完全であるという場合に,人間の精神だけがその規準となるとしても,それをほかのものの精神と比較しようという意図をフェルトホイゼンはもたなかったろうと思います。他面からいえばフェルトホイゼンは,精神を有するのが人間だけであって,それが人間がほかのものよりは完全であると認識する理由になっていたものと推測されます。この点でも,その人間観はボクセルに類似すると僕は考えます。
 書簡四十二でフェルトホイゼンが述べていた事柄のうち,今回の考察ですでに示しておいた部分が,フェルトホイゼンがおそらくは暗黙裡に,人間だけが精神を有している特別な存在であるということを前提していたことの証明にもなるだろうと僕はみています。
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デイリー盃クイーン賞&ボクセルの人間観

2016-12-07 21:47:36 | 地方競馬
 第62回クイーン賞
 逃げることが予想されていたトーコーヴィーナスが発走後に外へ外へと行きたがる素振り。このため外枠の馬たちの中には不利を被ったものがあったかもしれません。発走後の直線が長いこともあり,徐々に立て直して内に入っていったトーコーヴィーナスが先手は奪い,予想された展開に。隊列が概ね定まったのは向正面に入ってから。単独の2番手にノットオーソリティ。3番手はマイティティーとトロワボヌールの併走。ララベル,ミスミランダー,リンダリンダ,タイニーダンサー,ヴィータアレグリアの順で追走。この後ろにジュエルクイーンとケイティバローズが並び,少し差がある後方3番手にタイムビヨンド。残りの2頭は取り残されました。最初の800mは48秒0のハイペース。
 3コーナーを回るとノットオーソリティがトーコーヴィーナスを交わして先頭に。さらに外からトロワボヌールが迫り,直線の入口ではノットオーソリティを交わして先頭に。コーナーでいい勢いで追い上げてきたタイニーダンサーが直線では2番手になり,一時的にはトロワボヌールとの差が詰まりましたが,フィニッシュに向けてはまた差が開いていき,早め先頭のトロワボヌールが快勝。タイニーダンサーが3馬身差で2着。大外から最もよい伸び脚を発揮したタイムビヨンドが半馬身差まで迫って3着。
 優勝したトロワボヌールは昨年のスパーキングレディーカップ以来の勝利で重賞3勝目。第60回に勝っていてクイーン賞は2年ぶりの2勝目。メンバー構成だけでいえば負けられないところ。ハンデ差があったことと,昨年末に故障があり,今年の10月まで長期休養していたため,以前の能力を取り戻せているかという2点が懸念材料でしたが,それらを払拭しました。レース内容と斤量差から着差以上の強さがあったと判断するのがおそらく妥当で,かつてのように牝馬同士ならもっと上のレベルで戦っていけそうです。母は2003年のクイーンカップを勝ったチューニー。Trois Bonheurはフランス語で3つの幸福。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はクイーン賞初勝利。管理している畠山吉宏調教師は第60回以来2年ぶりのクイーン賞2勝目。

 フーゴー・ボクセル書簡五十五で,幽霊は霊の一種であるから神Deusに類似するといっていました。これはスピノザの哲学に則していえば,幽霊は思惟の様態cogitandi modiであるから,少なくとも思惟の様態でもあるから神に類似しているといっていると解せます。また,デカルトの哲学における実践的側面においては,人間の身体corpusは人間の精神mens humanaによって統御されなければならないものです。このことからかれらは,人間の身体がほかの物体corpusより完全であるか否かについては,あまり重きを置いていないと理解しても差し支えないだろうと思います。少なくとも人間の身体と人間の精神とを比較したときには,精神の方が完全であって身体の方が不完全であるとみなしているであろうからです。要するに人間の身体より完全な様態が存在するということについては認めているのですから,もしもあらゆる物体の中では人間の身体が最も完全であるとかれらが主張したとしても,このことは,かれらが人間はほかの様態よりも完全であると主張する場合には,無視してよい要素になると僕は考えます。
 幽霊が精神を有するということについてはボクセルは是認するのではないかと僕には思えます。ですがそのときにボクセルが念頭に置いているのは人間の幽霊のことだと僕は解します。したがっておそらくボクセルは幽霊が精神を有するということについては肯定するでしょうが,それは人間が精神を有することを認めているのと同じことだと考えます。そしてたぶんそのことが,人間がほかの様態よりも完全である,他面からいえば人間的本性が神的本性のうちに優越的にeminenter含まれているとボクセルが主張する根拠になっているものと思われます。つまり人間は精神を有するからほかのものより完全であるとボクセルは認識しているのです。したがってボクセルがそこでいっている人間というのは,精神を有するものというのと同じ意味だと解釈しておきます。つまりスピノザがすべてのものが精神を有するというのに対して,ボクセルは人間だけが精神を有しているといっているのだということです。
 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenの人間観も,ある程度まではボクセルの人間観に類似していると僕は思います。
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岸和田キング争覇戦&擦り合わせ

2016-12-06 18:58:10 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された岸和田記念の決勝。並びは山崎に柏野,脇本‐古性‐稲川の近畿1と三谷‐村上‐篠塚の近畿2で林は単騎。
 脇本がスタートを取って前受け。4番手に三谷,最初は稲川の後ろにいたものの下げた林が7番手,8番手に山崎という周回に。残り3周のホームから三谷が上昇。バックの入口で脇本を抑えました。脇本がすんなりと下げたので4番手に林,5番手に山崎,7番手に脇本の一列棒状になって残り2周のホームへ。ここから脇本が発進。まだ誘導を前に置いていた三谷も踏んでいきましたがバックでは脇本が叩きました。三谷は4番手に入り,7番手に林,8番手に山崎の一列棒状に。バックに入るところから三谷が発進。古性は牽制せずに併せて出ていく形。最終コーナーから直線入口にかけてふたりの併走が続きましたが,振り切って古性が優勝。直線でふたりの間を突いた稲川が半車身差の2着に続いて地元勢のワンツー。三谷が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は記念競輪初優勝。このレースは近畿勢が6人もいたために別ラインでの戦いに。このために展開の想定は難しくなりました。結果的に地元勢を連れた脇本が後ろを引き出すようなレースに徹し,三谷はむやみには抵抗せず自分が勝てる位置を取るようなレースをしたため,6人で結束したような展開に。こうなれば自力もあって番手を回る古性には有利な展開。逆に先行争いを望んでいたであろう山崎はあてが外れたようなレース。脇本の奮闘に応えて古性が優勝を勝ち取ったというレースでしたが,年齢的にも脇本より若い選手なのですから,自力で優勝して初めて高く評価するべきなのではないかという印象も残りました。

 スピノザが身体corpusに対する精神mensの優越性,延長Extensioに対する思惟Cogitatioの優越性を認めなかったということが,デカルト主義者やフーゴー・ボクセルとの間の争点になっていることは分かりました。次にもうひとつの争点,人間とその他のもの,スピノザの哲学の範疇でいえば人間と人間以外の様態modi,modusとの間の優越性ないしは完全性perfectioについて考えていきます。
 ボクセルは間違いなく人間の本性humana naturaだけが特権的に神Deusのうちに優越的にeminenter含まれているのであり,その他の様態の本性が優越的に含まれているとは思っていなかった筈です。このことが,人間がほかの様態よりも完全であると認識しているのと同じことだということはすでに説明しました。デカルトの哲学でも同じようにいえるとは断定できないですが,少なくとも人間の精神をその人間の身体の観念ideaと解する限りで,人間の身体の観念がその他の様態の観念より完全であるという前提はあったとみなしていいと思います。スピノザの哲学のように,すべてのものが精神を有すると解する限りで,人間の精神はほかのどの精神より完全であるという前提があったとみなしてよいだろうということです。ただし,デカルトの哲学にせよボクセルにせよ,すべてのものが精神を有するということ自体が受け入れられない見解でしょう。いい換えれば,人間がほかのものより完全であるか否かを考察するための前提となっている条件が,スピノザとデカルトあるいはボクセルとでは異なっていると解さなくてはなりません。したがってまず,双方の見解に沿うように,人間がほかのものより完全であるという場合の人間とは何かということを擦り合わせておく必要があります。
                                     
 スピノザの哲学では人間の精神はその人間の身体の観念です。すなわちそれらは同一個体です。よって第二部定理七およびその証明の意味により,因果関係の秩序と連結ordo, et connexioは一致します。なので人間の身体を考察の対象としようと精神を対象としようと,得られる結論は一致します。つまり人間の精神がほかのものの観念より完全なら,人間の身体はほかの物体corpusより完全です。逆に人間の身体がほかの物体より完全なら,精神もほかのものの観念より完全であることになります。
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叡王戦&身体の復権

2016-12-05 19:02:38 | 将棋
 万国津梁館で指された昨日の第2回叡王戦決勝三番勝負第一局。佐藤天彦名人と千田翔太五段は公式戦初対局。
 振駒で千田五段の先手。佐藤名人が横歩取りを誘ったところ,先手が変わった序盤戦を展開しました。
                                     
 第1図はどれくらいあるか分からないほど凡庸な局面。相場は▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△8六歩▲同歩△同飛です。しかし先手は金を上がるのを保留して▲2四歩△同歩▲同飛といきました。
 この順だと後手から△8八角成▲同銀△3三角とするのも有力ではないかと僕には思えます。ですが△3二金と自重しました。ここで▲7八金なら相場に戻りますが,先手は▲5八玉と上がりました。
 今度は△8八角成▲同銀△3三角とすると▲2八飛と引いても銀にヒモがつかないので▲2一飛成の一手。指し手を限定できる分だけ後手は決行する条件は上がっていると思います。後手が△8八角成と指した場合に何を警戒したのかは分かりませんが,ここでも△4一玉と寄りました。
 先手はここで▲7八金と上がったので角交換の筋は消えました。以下は△8六歩▲同歩△同飛。これは相場と比べると先手は玉が5八に上がり後手は4一に寄っている形。どちらが得をしているのかは分かりません。
 後手が飛車先を交換したので今度は先手から▲2二角成△同銀と交換して▲7七角という,後手も狙いにできた筋を決行しました。玉の移動がないと成立しない形なので,この手が成立するようになったのは先手の得という判断はあるのかもしれません。
 玉の移動がないと△8九飛成で後手よしですがこの場合は△8二飛と引く一手。先手は▲8三歩と打って△5二飛を強要しました。
 この局面は▲2五飛と引いておくのもあるのではないかと思いますが▲3四飛と横歩を取り△5四歩▲3五飛△5五歩と進みました。
                                      
 この後は5五で飛車の交換に進みましたが,そこまでの飛車の動き方からすると先手が損をしているような感じが僕にはあります。でも局面自体はいい勝負でしょう。中盤で先手に見落としがあったのが影響し,将棋は後手が勝ちました。
 佐藤名人が先勝。第二局は11日です。

 スピノザが身体corpusに対する精神mensの優位性,延長Extensioに対する思惟Cogitatioの優位性を認めなかったことは,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenのようなデカルト主義者にとっても,フーゴー・ボクセルのように,おそらくは確たる哲学的見解を有しているとは思われない多くの人びとにとっても,精神の価値を貶めるものと感じられただろうと僕は想像します。ボクセルは書簡五十五で,人間的属性が神Deusのうちに優越的にeminenter含まれるということを否定するなら,自分は神について何がいわれているのかをいっかな解せないという意味のことをいっていました。このとききっとボクセルは,人間の精神mens humanaあるいは思惟作用が神のうちに優越的に含まれていなければならないと判断していたのであって,人間の身体が神のうちに優越的に含まれるというようには認識していなかったと僕は思います。確かにボクセルは見聞きするということが神のうちに優越的に含まれている事柄のひとつだとは指摘しています。そしてスピノザの哲学において考えるなら,見ることも聞くことも延長作用といわなければならないでしょう。ただしボクセルは,神が人間のように手足を有し目や耳を有するというようには認識していなかったのであり,それがボクセルにとっては人間の身体が優越的に神のうちに含まれているのではないということの意味になっていたというのが僕の解釈です。
 スピノザはそれに対して,人間がなす思惟作用も神のうちに優越的に含まれることはないといったのです。ですからそれは精神の価値を貶めているというように思われたとして不思議はなく,実際にそうであったろうというのが僕の理解です。とはいえ,スピノザの主張を全体としてみるならば,それは精神の価値を貶めたというより,身体の価値を引き上げたとみる方が妥当だと僕は考えます。これもまたデカルト主義者からは批判の対象となるのですが,物体的実体substantia corporeaというのはスピノザの哲学でいえば延長の属性Extensionis attributumなのであって,それが神の本性natura,essentiaを構成する属性attributumのひとつであるというのが,哲学史的にはスピノザの新しい主張であったからです。つまり延長あるいは身体の価値の見直し,復権とでもいうべきことが,スピノザの哲学では行われたのです。
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チャンピオンズカップ&精神の優位性

2016-12-04 19:04:55 | 中央競馬
 第17回チャンピオンズカップ
 カフジテイクとゴールドドリームはあまりよい発馬ではありませんでした。先手を奪ったのはモンドクラッセ。やや抵抗するところをみせたアスカノロマンが向正面に入ると2番手に控え,その外にコパノリッキーが並び掛けていきました。ブライトライン,モーニンと続き,その後ろにアウォーディーと追い上げてきたゴールドドリームの併走。向正面の半ばでアウォーディーは一時的に行き脚が悪くなり,外に切り返す形に。さらにメイショウスミトモとブライトアイディアが併走で続き,ここまでが中団馬群。差があってアポロケンタッキーが単独で追走。ロワジャルダン,ノンコノユメ,ラニの3頭が後方集団の前。サウンドトゥルーとカフジテイクの2頭がそこからまた差が開いての追走。最初の800mは48秒8のミドルペース。
 直線に入ってもモンドクラッセが先頭をキープ。コパノリッキーは後退してブライトラインが単独の2番手でしたが,道中で外に出していたアウォーディーが猛追。インからモンドクラッセの外に出したアスカノロマンも追い上げて競り合い。さらに最後尾に控えていたサウンドトゥルーとカフジテイクが差し脚を伸ばし,4頭の争いに。一旦は先頭に立っていたアウォーディーの外からサウンドトゥルーが交わして優勝。クビ差の2着にアウォーディー。半馬身差で内のアスカノロマンが3着。大外のカフジテイクはクビ差で4着。
 優勝したサウンドトゥルーは昨年の東京大賞典以来の勝利で大レース2勝目。このレースは距離適性と予想される展開から,末脚を持ち味とするこの馬かノンコノユメが優勝候補とみていました。安定して走っているように,能力の高さは疑い得ない馬ですが,勝ちきるところまでいくには展開面での助けが必要と考えておいた方がよいと思います。1600mだと短すぎるように思いますが,1800m以上のレースで大きく崩れることは今後もないでしょう。母の父はフジキセキ
 騎乗した大野拓弥騎手は昨年の東京大賞典以来の大レース制覇。チャンピオンズカップは初勝利。管理している高木登調教師はJBCレディスクラシック以来の大レース制覇。チャンピオンズカップは初勝利。

 第一部公理五は,同一個体である人間の精神mens humanaとその人間の身体corpusの間の優越性ないしは完全性perfectioの比較の上で,さらに重要な帰結をスピノザの哲学のうちに齎します。というのは,この公理が前提条件となって,第一部定理三が導かれるからです。そして,実在的にrealiter区別される相互のものの間では因果関係は生じ得ないことを一般的に示したこの定理によって,それを人間の精神とその人間の身体との間の関係として示す第三部定理二が,ひとつの具体例として示されることになるからです。
                                    
 ある人間の身体と精神の間に因果関係は生じ得ません。したがって人間の身体がある運動motusないしは静止quiesをすることによって,自分の精神のうちに観念ideaを生じさせたり意志作用volitioをさせたりすることはできません。同様に精神が何かの観念を形成したりある意志作用をすることによって,自分の身体を何らかの運動に決定することもできません。なお,念のためにいっておけば,第二部定理四九により,精神がある観念を形成するということとある意志作用をするということは,スピノザの哲学においては同じ思惟作用の異なった側面です。
 デカルトの哲学からはこうした見解は受け入れられません。なぜならデカルトの哲学では,精神の意志作用によって自分の身体を何らかの運動に決定するということが,一種の道徳ないしは倫理の根底にあるからです。いい換えれば,自分の精神が自分の身体の運動の原因となり得るというのが,デカルト主義におけるエチカの前提となっているのです。つまりこの部分にも,精神の身体に対する優位性を認める必要が生じているのです。
 デカルトの哲学における精神あるいは思惟の身体すなわち延長に対する優越性ないしは完全性というのは,形而上学的には思惟は分割が不可能で延長は分割が可能であるという点にあります。そして実践的には,思惟が延長を延長作用に決定することが可能であるという点にあるのです。スピノザは形而上学的側面については第一部定理一三系で否定し,実践的側面については第三部定理二で否定したのだといえるでしょう。フェルトホイゼンLambert van Velthuysenもフーゴー・ボクセルも,おそらくデカルトの見解に従っているのです。
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竜王戦&比較

2016-12-03 19:34:55 | 将棋
 一昨日,昨日と湯川温泉で対局があった第29期竜王戦七番勝負第五局。
 丸山忠久九段の先手で渡辺明竜王横歩取り△8五飛。先手が中原囲いで後手が中住い金開き。手の流れで後手は金無双に組み替えました。当初は先攻の狙いだったと思いますので,後手の作戦が失敗した序盤だったのではないかと思います。とはいえ作戦負けというレベルではなかったのでしょう。
                                     
 後手が金無双を完成させた局面。先手は▲6五歩と動いていきました。
 銀挟みのような形で銀が取られるとか,銀桂交換の駒損の後でまた桂馬を取られて銀損になってしまうというのが後手にとって最悪のケース。それでも△同銀と取っているのですから,大丈夫という判断があったのでしょう。
 先手は▲7七桂と跳ねて銀を狙いにいきました。後手が△8六角と取ったところで▲7五歩と突いていますが,これは錯覚があったためでしょう。△同角に▲6五桂△同桂で駒得になったものの,そこで▲8七歩と受けています。
 手の流れとしていえば7筋を突いた以上はここで▲7六銀でなければおかしいといえます。ここで打てなかったのは,事前に錯覚があったためで,それなら突き捨てずに単に▲6五桂の方がよかったのだろうと思います。
 手番を得た後手は△2七桂と打ちました。無筋に思えるのですがこの場合は最善手だそうです。先手はここで▲7六銀と打ちましたが△1九桂成▲7五銀△同歩の二枚換えの手順に。
                                     
 第2図はまだ難しいと思いますが先手は悲観していたようです。この悲観は勝敗にも影響したかもしれません。
 渡辺竜王が勝って3勝2敗。第六局は7日と8日です。

 第二部定理七系から,神Deusの本性essentiaを構成する無限に多くの属性attributumは,どれも同等の力potentiaを有していることが理解できます。したがってあるひとつの属性を抽出して,その属性がほかの属性より優越的であるとか完全であるとかいうことはできません。むしろすべての属性が同じように完全であるとしかいえないのです。確かに第一部定義六説明により,ある属性が別の属性を否定し得るということは認めなければなりません。ですがこの否定の関係は任意に抽出した複数の属性のどれとどれの間でも成立する関係です。つまり各々の属性が実在的にrealiter区別されるということから生じる否定なのであって,一方が完全で他方が不完全であるという比較によって成立する否定ではありません。したがって人間が認識することができる思惟Cogitatioと延長Extensioの両属性に絞っていえば,思惟の属性Cogitationis attributumが延長の属性Extensionis attributumより優越的ではあり得ませんし,延長の属性が思惟の属性より完全であることもあり得ません。
 第二部定理六は,各々の属性の様態は神がその属性で説明される限りで神を原因とすることを示します。ですから各属性に優越性あるいは完全性の差異がない以上,異なった属性の様態の間でも優越性や完全性はあり得ないことになります。つまり思惟の様態cogitandi modiである観念ideaと延長の様態である物体corpusを何かひとつずつ抽出して,一方が他方より優越的であるとか完全であるとかはいわれ得ないことになります。こうしたことが一般的にいえるのですから,それが同一個体であっても同様です。第二部定理一三により人間の精神humanam Mentemとはその人間の身体の観念ですが,ある人間の精神と身体corpusとの間には,優越性の差異も完全性の差異もありません。むしろ延長の属性と思惟の属性の力が同等であることに注意すれば,同一個体間でも力は同等であるといわれなければならないでしょう。
 さらに第一部公理五は,実在的に区別されたものは,一方の認識によって他方を認識できないことを示しています。このことから,ある属性の様態の完全性を認識したところで,他の属性の様態の完全性は認識できず,したがってそれらを比較することさえ不可能であることが帰結するでしょう。これがスピノザの哲学での結論です。
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リコー杯女流王座戦&神との類似

2016-12-02 19:03:33 | 将棋
 11月25日に静岡で指された第6期女流王座戦五番勝負第三局。
 加藤桃子女流王座の先手で里見香奈女流名人のごきげん中飛車。⑤から①-Bの変化に合流。先手が右の銀を進出させて一歩得を果たしました。
                                     
 先手が2筋突破を目指して歩を打った局面。公式戦に二局の前例があり,☖9四歩でいずれも後手が勝っていたそうです。先手がそれに挑んだのはおそらく研究があったからでしょうが,後手の方から☖2三同歩と変化しました。後手には別の研究があったということでしょう。
 ここは☗2三同銀成もありそうですが☗2三同銀不成でした。☖2六歩と打たれたら☗3四銀成と指そうという意図だったと思います。不成でしたので後手は☖3三金と逃げ先手は駒得を目指して☗2二歩。
 そこで後手は☖5六歩と突きました。後手から角を交換されては王手飛車があるので☗4四角☖同金としてから☗5六歩。当然☖同飛でここも☖5五角があるのでひとまず☗5七歩と受け後手は☖7六飛と王手で回りました。
                                     
 僕はまず並べたときにはこんな手順で後手がよくなるわけがないと思いました。今は指さないとはいえ居飛車党ですので,こんな手順でよくされてはたまらないという気持ちもあったかもしれません。
 先手は駒を取ることが見込めるので固く☗7七歩と打つのも有力だと思います。ただしそれは指し方としては弱いのかもしれません。実戦の☗7七銀の方が目一杯に迎え撃っている感じがあります。
 後手はそこで☖2七歩と叩いたのですが,対して☗4八飛と逃げたのが悪く☖3六飛☗2一歩成のときに☖5六歩☗同歩☖5七角と攻め込まれました。
                                     
 5八に飛車を逃げていればこの順はありませんでした。この手を境に後手がよくなったようです。
 3連勝で里見名人が女流王座を奪取第3期以来3年ぶり2期目の女流王座です。

 スピノザが精神mensと身体corpusを同一個体とみなすことは,優越性を広く解する場合には,おそらくそれ自体が論難の対象になります。
 フーゴー・ボクセルHugo Boxelは,最初は明らかに幽霊が物体corpusでもあると主張していたと僕は解します。ところが,書簡五十五ではあたかもそれが思惟の様態cogitandi modiであって物体ではないかのような主張をしました。そしてその中でボクセルは,幽霊は霊の一種であるから神Deusに類似するのであるといっています。ここで霊といわれているのは思惟の様態と解して間違いないと思います。つまりここでボクセルは,もし幽霊が物体であるならそれは神に類似しないであろうといっているか,少なくとも幽霊が物体としてみられるなら,それが神に類似しているかどうかは自分には分からないといっているのです。これは人間に変換すれば,人間は身体を有するから神に類似するとはおそらくボクセルは認識しないのであって,人間が精神を有するから神に類似するのだと認識するのであろうことを容易に推測させます。
 デカルトの哲学では物体的実体substantia corporeaというのは神ではありませんでした。これに対して思惟的実体というのを仮定すればそれは神です。したがってこの見解はボクセルの認識と似ているところがあるといえるでしょう。デカルトの哲学においてもし人間が神に類似しているというとすれば,それは人間の精神が類似しているのであり,人間の身体が類似しているということにはならないであろうからです。そしてフェルトホイゼンLambert van Velthuysenはデカルト主義者だったのですから,おおよそその種の見解を有していたと判断してよいものと思います。
 つまり,ボクセルにせよフェルトホイゼンにせよ,単に人間がその他の物体ないしは物体の観念ideaと比べて優越的である,あるいは完全であると認定していたのではたぶんないのです。むしろかれらは,人間の精神が人間の身体に対して優越的であるあるいは完全であると認定していたのです。だから,身体に対する精神の完全性perfectioあるいは優越性を否定するスピノザの見解には同意できないのです。
 では,スピノザはどうしてその種の優越性あるいは完全性も認めないのでしょうか。その答えが第二部定理七系です。
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