スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

白夜&現世的と彼岸的

2016-12-10 19:21:21 | 歌・小説
 主人公がコキュであると亀山郁夫が指摘している小説のうち,『白夜』は1848年に書かれたもの。『貧しき人びと』で小説家としてデビューしたのが1846年で,思想犯として逮捕されたのが1849年ですから,その間のものです。ドストエフスキーの小説としては短いもの。単独で出版されているものもありますが,どうせ購入するならほかの小説と一緒に訳出された文庫本もありますから,そちらを買った方がいいだろうと思います。
                                   
 主人公は26歳の役人ですが,インテリの青年といった方がいいかもしれません。ただしよくいえばロマンティスト,悪くいえば自分の空想の中で生きているような男です。
 この男がある夜にナースチェンカという17歳の女に出会います。それまでかなり風変りな人生を送ってきた女です。主人公はナースチェンカに恋をします。ナースチェンカは主人公のその思いは受け入れてくれるのですが,別に愛している男が存在します。それはかつてナースチェンカの家に間借りしていた青年です。この青年はナースチェンカと将来の約束をしているのですが,出稼ぎに出ていて,主人公とナースチェンカが出会った時点では消息不明です。そこで主人公は,何とかふたりの仲をとりもとうとして奔走します。その努力が報われたというわけではないのですが,最終的には男は戻り,ナースチェンカはその男の下へと走っていきます。
 形だけでいうと,この主人公とナースチェンカの関係は,後の『虐げられた人びと』のイワンとナターシャの関係に類似したところがあります。ただ,コキュという観点からみるならば,僕はこちらの主人公の方にコキュらしさというものを感じます。それはおそらく,この主人公がナスターシャを男と会わせようとする思いの強さから発しています。

 書簡四十二でいわれている賞罰の配分が,現世的な事柄を意味するか彼岸的な事柄を意味するか僕は分かりません。ただ,どちらの場合でも,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが賞罰の配分を受けるのが人間だけであると前提していることは間違いないと思います。
 たとえばある異教徒の農夫がいて,この農夫が丹念に栽培した作物が,収穫の寸前に野生動物によって食い荒らされてしまったという出来事が生じたと仮定しましょう。このときフェルトホイゼンは,この農夫が異教徒であったがゆえに神Deusによって罰を下されたと判断する可能性は皆無でないと僕は考えます。しかし,野生動物の方が何らかの善き行いをしたがゆえに神から褒賞を受けたのだとはフェルトホイゼンは絶対に判断しないだろうと僕は考えます。褒賞を受けるにせよ罰を与えられるにしろ,それは人間に付与されるものであるとフェルトホイゼンは認識するので,野生動物に神から褒賞が与えられたなどという認識がその精神のうちに生じる余地はないだろうからです。これは現世的な場合です。
 熱心にキリスト教を信仰した人が,その死後に神の国に迎え入れられるという褒賞を与えられるという可能性について,フェルトホイゼンは肯定する可能性があります。しかし人間以外の動物が神の国に迎え入れられるということについては,間違いなく肯定しないでしょう。これは正確にいうと動物は信仰心をもたないということが前提となっていると思われますが,宗教的に善とみなされる行いのゆえに死に至ったという場合についても同様だと思われるので,その部分に執着する必要はなかろうと思います。たとえば友人のことを助けようとして事故で絶命してしまった人間は,キリスト教徒であるという必要こそあれ,神の国に迎え入れられる可能性をフェルトホイゼンは否定しないでしょう。しかし同じように自身が獲物とし人間に捕らえられることによって,群れのほかの仲間たちを逃がした動物がいたとしても,そのゆえにその動物が神の国に迎え入れられることはフェルトホイゼンは否定するであろうからです。これが彼岸的な場合です。
 どちらも人間に特別な地位が与えられていることになります。
コメント
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