スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

いわき金杯争奪戦&書簡十五

2016-01-26 19:07:05 | 競輪
 いわき平記念の決勝。並びは吉田‐諸橋の関東,近藤‐山賀の千葉,松岡‐稲垣の近畿,吉本‐坂本‐大塚の九州。
 内の3人が出ていき,最内の近藤が誘導の後ろに入って前受け。3番手に松岡,5番手に吉本,8番手に吉田で周回。残り3周のバックの出口から吉田が上昇していくと,吉本が呼応。ホームでまず吉本が近藤を叩き,その上をホームで吉田が叩きました。このラインに乗ってきた松岡がそれを見て発進。打鐘から内の吉田と外の松岡で先行争いに。松岡は吉田を叩けず,ホームで稲垣が諸橋の後ろにスイッチ。後方になった近藤がバックから捲っていくと3番手に収まっていた稲垣が自力で併せていき,直線にかけてふたりのつばぜり合い。これを制した稲垣がゴールまで粘って優勝。大外を捲り追い込んだ吉本が4分の3車身差の2着に届き,近藤マークから稲垣を追った山賀が4分の3車輪差で3着。
 優勝した京都の稲垣裕之選手は一昨年12月の松戸記念以来の記念競輪5勝目。いわき平記念は初優勝。この開催は有力選手の敗退が相次ぎ,メンバー構成上は負けられないくらいの相手関係になりました。松岡を利することはできなかったのですが,残り1周のホームでシビアに3番手に入り,その松岡を迎え入れなかったのが結果的に優勝に結びついたのではないかと思います。勝たなければならない相手関係であったことを考慮すれば,こういう走行になったのも致し方ないところでしょう。近藤のスピードはなかなかのもので,それに併せて競り勝ったのは見事だったと思います。

 現在の『スピノザ往復書簡集』の書簡十五が,スピノザからマイエルに送られたもののうち,遺稿集には掲載されなかったものです。スピノザが書いた原書簡が残っていたようで,1825年にロンドンでオークションに出品されました。その後,あるフランス人の手に渡り,この人が1847年に公開しました。なので1883年に書簡の番号が現行のように改められたとき,十五という番号をふられて掲載に至ったのです。
                                   
 この書簡は,マイエルが事前に『デカルトの哲学原理』の序文をスピノザに対して送ったものへの返答です。スピノザはこの中で,その序文に対してみっつの注文をしています。ひとつは,この本の第一部が二週間のうちに書かれたということを示しておいてほしいというものです。ふたつめは,デカルトが実際に証明したのとは異なった方法で定理を証明している部分があることについて,その理由を書いておいてほしいということです。つまりここまでのふたつは,事前の序文でマイエルが書いていなかったことを加えてほしいという主旨の注文だったことになります。
 もうひとつは,最初に書かれたマイエルの序文には,だれかは分からないのですが,特定の人物に対する批判が含まれていたようです。スピノザの注文はそれを削除してほしいというものでした。つまりこちらは書いたものを削ってほしいという注文であったことになります。スピノザはこの書簡の中で,それを削除する理由を書いているのですが,実際に発刊された『デカルトの哲学原理』の序文の中には,スピノザがその理由として書いたことが含まれています。
 『デカルトの哲学原理』の序文というのは,マイエルが書いたもので日本語で読むことができるものとしては,おそらく最も長いものだと思います。実際にここでスピノザが注文したみっつの事柄は,そのすべてが達成されています。いい換えればマイエルはスピノザの注文をすべて受け入れたということです。
 これはスピノザの著書の序文なので,当然といえば当然かもしれません。また,マイエルがただ書いてスピノザの了承を受けずに出版しなかったのも,当然といえば当然といえるのでしょう。
コメント
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