スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&イエレスとマイエル

2016-01-25 19:47:24 | 将棋
 さぎの湯温泉で昨日から指された第65期王将戦七番勝負第二局。
 羽生善治名人の先手で角換り相腰掛銀。先手が1八に香車を上がってから4筋を突いていき,郷田真隆王将が空間に角を打って中盤の戦いに。
                                    
 後手が8筋を突き捨て,薄くなった6筋からの攻めを見せたところ。先手は▲4六角△同歩と交換してから▲6五歩と手を戻しました。
 △4七歩成▲同飛△3八角の両取り。後手の狙いのひとつでしたが,ここでこう進めたのはまずかったようです。
 ▲6六角と王手して△3三銀と受けさせてから▲4八飛と角に当てつつ飛車を逃げました。ここは△2九角成の一手。これで先手の桂損ですが▲3五歩が厳しい攻め。以下△3一王▲3四歩△2二銀となったところでは,駒得でも後手が相当に勝ちにくかったようです。
                                    
 先手は第1図に至る前,後手が△2二王と入城するのを待って仕掛けていきました。この将棋の展開はそこまで待ったのが最も生きる形になったと思えます。
 羽生名人が勝って1勝1敗。第三局は来月4日と5日です。

 聖書と理性の関係の考え方の差異が理由となって,スピノザとマイエルは仲違いしたという説を紹介しました。マイエルは遺稿集の編集者になっているのですから,僕はそういうことはなかったとするのが妥当だと考えています。ただ,この点について見解に差異があるということを,スピノザも自覚していたしマイエルも自覚していたと僕は考えます。ですからそれが仲違いの根拠になったという説明そのものは,一定の合理性があることを認めます。
 もしもマイエルが『聖書解釈としての哲学』を出版する前に,イエレスがそうしたようにスピノザの講評を求めるということがあったとしたら,それは書簡によってなされたと解するのが適当でしょう。もちろん求められたスピノザも書簡で返答した筈です。しかしそういう書簡が存在したということは歴史的には証明されていません。ただ,仮にそれがあったとしても,遺稿集への掲載が見送られたということについては,不自然ではないと思います。というのはイエレスが求めた講評に対するスピノザの返答である書簡四十八の二の2通も掲載を見送られたものだからです。マイエルもイエレスも同じように遺稿集の編集者だったのですから.掲載の価値に関する判断が共通していたと考えるのはさほど無理があることではありません。ですからそうした書簡が掲載されていないこと,また事後に発見されることがなかったというだけのことで,こうした書簡が存在しなかったと断定できるわけではないと僕は考えています。
 イエレスとスピノザの間の書簡と,マイエルとスピノザとの間の書簡で,遺稿集への掲載にあたって共通している点は,イエレスからスピノザへの書簡が掲載されていないのと同じように,必ず存在したといえるマイエルからスピノザへの書簡も掲載されていないということです。僕はこの点に同じ編集者のマイエルとイエレスの間で,共通の認識があったと思うのです。
 現行の『スピノザ往復書簡集』には,スピノザからマイエルへの手紙がふたつ収録されています。ただし,このうちのひとつは遺稿集には未掲載で,後に発見されたものでした。遺稿集では1通だけだったことになります。
コメント
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