スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

決定版夏目漱石&戦略

2015-08-29 19:19:34 | 歌・小説
 吉本隆明の『夏目漱石を読む』を紹介したので,次は江藤淳になります。
 江藤は吉本とは異なり,文学専門の評論家です。しかも漱石の作品に特化したような評論家であるといっても過言ではありません。そのために江藤の作品は文庫本で読むことができるものも多くあります。その中から『決定版夏目漱石』を僕は推薦します。
                         
 これを薦めるのは,古いものから新しいものまでが含まれているからです。もっとも,ここに含まれる最新のものは1974年のもので,江藤はその後も書いていますから,初期のものから後期のものまで含まれているとはいえないかもしれません。でもこれで十分に思います。
 僕は江藤の評論は,古いもの,つまり若い時代のものほど面白く感じます。ある時期以降の江藤は,過去の自説に執着するようになっていると僕には思え,以前のものほど面白く感じられません。ここに含まれているもののうちに,すでにそうした匂いを僕は感じます。
 たとえば江藤は宮井一郎を厳しく批判します。僕は『漱石の世界』で宮井が事前に一面的な原理を立て,それに則して漱石のテクストを読解するとき,同調することはできません。しかし江藤がたとえば漱石自身の恋愛対象として兄嫁を想定し,それを根拠にテクストを読解するとき,採用している手法は宮井と大して変わらないと思えます。では何によって両者の対立が生じるのかといえば,漱石にとっての真実が何かということの見解の相違です。でも漱石にとっての真実が何であるかということに,僕は興味をもちません。だから宮井も江藤も同じようなものと感じるのです。もし宮井の江藤への言及が批判にも該当しない罵倒であるなら,少なくともある時期以降の江藤も,罵倒なしに評論活動を行っているとは僕には判断できないです。
 テクストの真理は作家の側にあるのでなく,読者の側に委ねられると僕は考えています。僕と同じように考えるなら,江藤の評論は魅力的なものではないでしょう。しかし僕と逆に考えるなら,江藤の評論を参考にせずに漱石作品を考えることはできないだろうと思います。

 スピノザは禁欲主義者ではありません。ですから快楽を絶対的な意味において否定しません。むしろ適度な快楽を推奨していると理解するのが正確だと思います。しかしそれが快楽至上主義でないことも確かです。
 『スピノザの生涯と精神』のコレルスの伝記を読めば,スピノザが貪欲に金銭に執着するとか,虚栄心から名誉を追い求めるというような人物でなかったことは間違いありません。つまり無神論者という語句が個人の態度を意味する限り,スピノザが無神論者でなかったことは確実です。
 もしリュカスの伝記にそうした記述があったとしても,リュカスはスピノザを賛美する立場ですから,割引が必要です。ですがコレルスはカルヴァン派の牧師であり,スピノザの敵対者です。事実,コレルスはスピノザの思想を手厳しく批判しています。そうした思想の持ち主が,無神論者ではなかったということは,本来的にはコレルスには都合が悪かったことだと思われます。しかしコレルスは,スピノザの生活態度が立派なものであったといことについては,スピノザの思想を排斥するのと同じくらいの調子で強調しています。こうした事情から,コレルスの記述はかなりの確度で信頼できると思われるのです。
 実際のところ,もしもスピノザが無神論者という語句に値するような生活を送った人物であったとしたら,コレルスはスピノザに関心を抱くことがなかっただろうと推測されます。したがってコレルスには伝記を執筆する動機が生じません。要するにコレルスが伝記を書いたということ自体が,スピノザは無神論者ではなかったということの証明になり得ます。
 このように考えたときに,スピノザが『神学・政治論』において,敬虔であるということを思想面からではなく,行動面から規定したということについて,ある戦略的な意図があったかもしれないという推測が成り立ちます。つまり無神論者であるということが行動面から規定されるのと同様に,敬虔さも同じ観点から規定されているのです。
 フェルトホイゼンにとって,理神論者と無神論者は同じ意味でした。ですがスピノザにとってはそうでなかったことになります。
コメント
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