12月29日に京王閣競輪場で行われたヤンググランプリ。並びは渡辺‐杉森の東日本,川口‐谷口の中部,元砂‐栗山の奈良で野原と日野と野口は単騎。
川口がスタートを取って前受け。3番手に渡辺。5番手以降は日野,野原,野口の順で単騎の選手が並び,8番手に元砂で周回。残り3周のバックから元砂が上昇。抑えられた渡辺はすぐさま引いて巻き返していき,元砂もこれに併せていったので打鐘前から猛烈な先行争いに。残り1周のホームで渡辺が叩き元砂は後退。7番手にいた野原がこれを見て発進。その前にいた川口も出るとさらに渡辺の番手から杉森も発進と凄まじい力比べ。この3人の争いを制したのは川口でしたが,野原を追う形になった野口が,野原の外から最後に自力を出し,直線で川口を捕えて優勝。川口が半車輪差で2着。野原は4分の3車身差の3着。
優勝した熊本の野口大誠選手はグレードレース初優勝。といってもここは記念を優勝している選手は不在でした。格でいうと野原が最上位ですが,僕は渡辺と野口のふたりは力で対抗可能と考えていました。渡辺は先行争いをした時点で圏外。野原にとっては悪い展開ではなかったと思いますが,川口を捲りきれなかったところをみると,位置が後ろ過ぎたようです。野口はうまく野原を利することができた展開の恩恵を受けた形。全体的にまだ記念競輪で優勝といえるようなレベルの選手は不在だったかなという印象です。
ブレイエンベルフやマイエル,あるいは神学と哲学に関係する論争に加わった大多数の人が,暗に前提していた真理属性の存在を,形而上学的な意味においてはスピノザは認めていなかったと理解しておくのがよいと僕は考えています。場合によっては哲学属性と真理属性を同一の属性とみなすべきではないかという考え方もあり得て,そういう理解の仕方にも一理あると思うのですが,ここでは僕の理解の様式を詳しく説明しておきます。
敬虔という実体の本性を構成する哲学属性と神学属性というふたつの属性の区分は,能動と受動の区分に対応していると僕は解します。だからもしもこれらの属性を別の仕方で置き換えるなら,哲学属性は能動属性であり,神学属性は受動属性であるというように僕は判断するのです。そしてこの能動と受動の間に,実在的区別に類する区別があるとみるのです。
認識論でいうなら,スピノザの哲学では精神の能動は理性すなわち第二種の認識です。したがって第二部定理四一から,真理が能動属性にのみ属するのは明白です。ですがそれは属性としてあるのではなく,能動属性の様態としてあるというように理解する方が適切だと僕は考えます。一方,同じ定理から虚偽が受動属性の方にのみ存するのも明白です。これもまた虚偽属性があるのではなく,受動属性の様態として虚偽があるというように僕はみなします。

ただしこの形而上学的考察では,真理一般とか虚偽一般について考える必要はありません。というよりそう考えるのはただ説明を複雑にさせるだけであり,誤りを招きかねないでしょう。敬虔という実体の本性を構成する属性とその様態について考えているのですから,能動属性は敬虔に至る能動であり,受動属性は敬虔に至る受動であると,それぞれ限定しておきます。したがって人間が能動的に敬虔になる場合と,受動的に敬虔になる場合との間に「共通点」はないというのが基本認識であることになります。
人間が理性によって敬虔になるということは,スピノザの哲学の倫理的側面のすべてであるといって過言ではありません。ですからここではこちらの点については言及しません。
川口がスタートを取って前受け。3番手に渡辺。5番手以降は日野,野原,野口の順で単騎の選手が並び,8番手に元砂で周回。残り3周のバックから元砂が上昇。抑えられた渡辺はすぐさま引いて巻き返していき,元砂もこれに併せていったので打鐘前から猛烈な先行争いに。残り1周のホームで渡辺が叩き元砂は後退。7番手にいた野原がこれを見て発進。その前にいた川口も出るとさらに渡辺の番手から杉森も発進と凄まじい力比べ。この3人の争いを制したのは川口でしたが,野原を追う形になった野口が,野原の外から最後に自力を出し,直線で川口を捕えて優勝。川口が半車輪差で2着。野原は4分の3車身差の3着。
優勝した熊本の野口大誠選手はグレードレース初優勝。といってもここは記念を優勝している選手は不在でした。格でいうと野原が最上位ですが,僕は渡辺と野口のふたりは力で対抗可能と考えていました。渡辺は先行争いをした時点で圏外。野原にとっては悪い展開ではなかったと思いますが,川口を捲りきれなかったところをみると,位置が後ろ過ぎたようです。野口はうまく野原を利することができた展開の恩恵を受けた形。全体的にまだ記念競輪で優勝といえるようなレベルの選手は不在だったかなという印象です。
ブレイエンベルフやマイエル,あるいは神学と哲学に関係する論争に加わった大多数の人が,暗に前提していた真理属性の存在を,形而上学的な意味においてはスピノザは認めていなかったと理解しておくのがよいと僕は考えています。場合によっては哲学属性と真理属性を同一の属性とみなすべきではないかという考え方もあり得て,そういう理解の仕方にも一理あると思うのですが,ここでは僕の理解の様式を詳しく説明しておきます。
敬虔という実体の本性を構成する哲学属性と神学属性というふたつの属性の区分は,能動と受動の区分に対応していると僕は解します。だからもしもこれらの属性を別の仕方で置き換えるなら,哲学属性は能動属性であり,神学属性は受動属性であるというように僕は判断するのです。そしてこの能動と受動の間に,実在的区別に類する区別があるとみるのです。
認識論でいうなら,スピノザの哲学では精神の能動は理性すなわち第二種の認識です。したがって第二部定理四一から,真理が能動属性にのみ属するのは明白です。ですがそれは属性としてあるのではなく,能動属性の様態としてあるというように理解する方が適切だと僕は考えます。一方,同じ定理から虚偽が受動属性の方にのみ存するのも明白です。これもまた虚偽属性があるのではなく,受動属性の様態として虚偽があるというように僕はみなします。

ただしこの形而上学的考察では,真理一般とか虚偽一般について考える必要はありません。というよりそう考えるのはただ説明を複雑にさせるだけであり,誤りを招きかねないでしょう。敬虔という実体の本性を構成する属性とその様態について考えているのですから,能動属性は敬虔に至る能動であり,受動属性は敬虔に至る受動であると,それぞれ限定しておきます。したがって人間が能動的に敬虔になる場合と,受動的に敬虔になる場合との間に「共通点」はないというのが基本認識であることになります。
人間が理性によって敬虔になるということは,スピノザの哲学の倫理的側面のすべてであるといって過言ではありません。ですからここではこちらの点については言及しません。