スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&理性の有

2011-09-29 18:51:53 | 将棋
 長く女流棋界を第一人者として牽引し続けている清水市代女流六段に,プロになってまだ2年弱の室谷由紀女流初段が挑むという新鮮な構図になった第19期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。
 清水六段の先手となり室谷初段のごきげん中飛車③Aに。先手が早々に2筋を交換したのに対し,後手は5筋の位を保ったまま交換を保留するという形に。
                        
 ここで☗2五銀と出たのに☖3三金と受けたので☗2二歩で先手の桂得が確定。これは先手の☗7八金型が最大限に生きたといえると思いますし,後手からすぐに2筋を反撃できるわけでもないので,すでに先手が優位に立ったといっていいように思います。必ずしも後手にチャンスがなかったというわけでもないようなのですが,先手はこの後も駒得を拡大していき,押し切っています。
 清水六段が挑戦者となり,倉敷に帰ることになりました。第一局は11月6日です。

 続けてスピノザは,このように特質proprietasによって事物を認識することは,円の場合のような図形とか,理性の有entia rationisに関しては実際にはそれほど問題にならないであろうということを述べています。
 『エチカ』では第一部付録,岩波文庫版で上巻の91ページの最後の行に表象の有entia imaginationisということばがあって,これが理性の有ということばの代用であるという意味のことが述べられています。一方,第二部定理四九備考では理性の有ということばが用いられていて,使い分けられているのかどうか,確たることは僕には不明です。ただここでは,『エチカ』における表象の有も理性の有も,共に『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の理性の有に該当すると考えておきます。『エチカ』では第一部定理四〇備考二で,理性ratioというのが第二種の認識cognitio secundi generisと明確に位置付けられていますから,何らかの混同を避けるために,表象の有といういい方をスピノザがしたのだとすれば,それは僕にとっては理解できないことではありません。
 ただし,理性の有を表象の有と置き換えるのだとしても,実際には同じような問題が発生しているとはいえます。たとえば,第二部定理一七の仕方で人間の精神mens humanaがある外部の物体corpusを表象するimaginariとき,この表象像imagoは第二部定理二五により混乱した観念idea inadaequataです。しかし混乱しているとはいっても観念であることは間違いなく,したがって第二部定理三二により,この表象像は神Deusと関係づけられれば真の観念idea vera,すなわち第二部定義四により十全な観念idea adaequataです。しかし,こうしたことは理性の有ないしは表象の有の場合には妥当しないと考えなければならないからです。そしてこの点が,理性の有ないしは表象の有と,十全な観念であれ混乱した観念であれ観念とを分つ最も重要なポイントであると僕は考えます。
 つまり,理性の有とか表象の有といわれるものは思惟の様態cogitandi modiであるという点では観念と何ら変わるところはありません。しかしこの両者の間には大きな差異があります。それは端的にいういなら,観念というのがある実在的なもの,すなわち有であるのに対して,理性の有とか表象の有は,有とはいわれているけれども実際には有ではなく無であるということです。
コメント
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