スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

デカルト,ホッブズ,スピノザ&デカルトからの離反

2014-03-06 19:17:55 | 哲学
 実在的区別の稿では上野修の『デカルト,ホッブズ,スピノザ』の参照も促しました。『スピノザと表現の問題』だけでなく,こちらも詳しい書評を掲載しておきます。
                         
 これは論文集。収録されているのは9本で,このほかに,これを文庫版化するにあたって書き下ろされた,序章に該当する部分が含まれています。
 サブタイトルは哲学する十七世紀。その世紀を代表する哲学者として,本のタイトルの3人について論じられています。ただし,各々の論文のタイトルから,ホッブズが中心のものは1本,デカルトが中心のものも1本,残る7本のうち1本はホッブズとスピノザの社会契約論の比較で,残りの6本はスピノザが中心。ですから実質的にはスピノザをその中心に据えた論文集といえます。僕のようにスピノザの哲学に関心があるという場合には十分に満足できる内容となっていると思いますが,もしもホッブズやデカルトに興味があるためにこれを入手したという場合には,不満を感じてしまうかもしれません。
 普通はこの種の論文集が出版される場合,古く書かれたものから新しく書かれたものへと並べていくものだと思うのですが,この本はそのようにはなっていません。序文は書き下ろしなので考慮の外に置くとしても,最も古いものは第7章,これはデカルトが中心に据えられたもので,発表されたのが1982年。逆に最も新しいのは第4章の「スピノザの聖書解釈」で,これは1996年の発表。なお,この論文については現代思想の1996年11月の総特集スピノザでも読むことが可能です。
                         
 どういった理由に依拠してこの順に並べたのかは定かではありません。上野自身はあとがきにおいて,順番はあみだくじで決定してもよかったという主旨のことをいっています。つまり各々の論文にそれほど深い連関性があるというわけではありません。高価な本ではありませんから,入手して,興味がありそうなものだけを読んでみるのもよいかもしれません。

 スピノザ自身が『エチカ』で,また『エチカ』以外の残された文章においても,常識の転覆に関しては詳しく説明していません。だから仕方がないことといえば仕方がないことではあるのですが,スピノザの哲学について論じたものの中にも,このことに関して敷衍しているものというのもほとんど見当たりません。僕が知る限りでは,『哲学書概説シリーズⅡ』で,河合徳治が論じているのが目につくくらいです。
                         
 河合によるその部分の論旨は,僕にとっての現在の課題である,個物res singularisは無限様態の媒介なしには生起しないけれども,神はres singularisに対して,媒介要因のない最近原因であるということに,どのように整合性をつけるべきかという点に対して,示唆に富むような内容になっています。例によってこれを,僕の考察に適合するような仕方で再構成してみます。
 河合によれば,運動と静止を物体に対して「先立つ」ものと規定することは,物体的なもの,あるいは延長に関する考え方において,スピノザの哲学をデカルトの哲学から離反させるものです。デカルトは近代哲学の父と称されるように,その考え方の多くが,意識的であるか無意識的であるかを問わず,近代的なものの考え方の根底を形作っている部分があります。もしも僕と同じように,物体がまずあって,それが運動したり静止したりすることによって運動および静止があると考えている人がいて,スピノザによるこの秩序を転覆させた理解に驚きを感じたとしたら,それは実は無意識的にデカルトの影響を被っているからなのかもしれません。こうした理由から,まずデカルトの考え方が基本的にどのようになっているのかということから調べていきます。
 ただし,スピノザはデカルトの考え方から離反するということの意味は,スピノザがデカルトが結論したことに対して反論したということです。ですから一般的にデカルトの考え方がどのように理解されているのかということよりは,スピノザがとくにこの部分に関して,デカルトの見方をどう把握したのかということが,僕の課題にとっては重要です。よってそうした観点に立ち,デカルトの哲学から開始していきましょう。
コメント
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