スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡六十九&診察券

2017-06-20 19:14:25 | 哲学
 オーステンスJacob Ostensに書簡四十三を送った1671年初め,おそらく2月の時点では,スピノザはフェルトホイゼンLambert van Velthuysenのことを『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読むに値しない人間であると評価していました。訪問の時期は1673年の夏と僕は判断しますが,スピノザがユトレヒトを訪問したとき,ふたりは面会して議論を交わしました。その結果,スピノザはフェルトホイゼンに対する従来の認識を改めることになりました。そのことを確定できるのがスピノザがフェルトホイゼンに宛てた書簡六十九です。
                                     
 おそらくスピノザは『神学・政治論』を出版したとき,反動的勢力から反論を受けることは想定していたでしょうが,デカルト主義者の哲学者たちから反駁されるとは想定していなかったものと思われます。むしろスピノザの考えのうちには,『神学・政治論』の内容は,デカルト主義者たちを擁護するような内容が含まれているということがあったのだろうと思います。だからそれを反駁してきたフェルトホイゼンについて,それを読むには相応しくない人間であるという判断を下したのではないでしょうか。
 ところが,ユトレヒトでフェルトホイゼンと会見することによって,どういった意図からデカルト主義者が『神学・政治論』を反駁するのかということをスピノザは察するに至ったのだと思われます。他面からいえば,それまでのスピノザは,なぜ『神学・政治論』がデカルト主義者から反駁されなければならないのかをよく分かっていなかったのでしょう。それを分かっていなかったことが,フェルトホイゼンに対するスピノザの誤解を産んだのだと推測されます。
 会見を通してデカルト主義者の反駁の意図が理解できたので,スピノザは『神学・政治論』に補足をつける気になったのだと思われます。書簡六十九は,そのために『神学・政治論』を駁論し直してほしいというスピノザからの依頼です。スピノザはだれの駁論よりもフェルトホイゼンの駁論を吟味したいと書いています。そこに社交辞令がなかったとはいえないでしょうが,フェルトホイゼンに対する認識を改めたということは明らかだといえるでしょう。

 10月15日,土曜日。妹の土曜出勤でした。この日はマシュマロにチョコレートで絵を描いたそうです。作成したものは持ち帰りませんでしたので,実物がどんなものであったのかは分かりません。ハロウィンのための菓子製作となっていましたから,作ったもののすべてをその場で食べてしまったというわけではないだろうと思われます。
 10月21日,金曜日。保護者会があって母が行きました。僕はこの日は長者町に出掛けています。
 10月23日,日曜日。この日から来日していた伯母,母,妹の3人で旅行に出掛けました。旅行先は熱海です。2泊3日でしたから,帰ったのは25日の火曜日。したがって妹は24日の月曜日と25日の火曜日は施設を欠勤しました。僕は24日は戸塚,25日は伊勢佐木町にそれぞれ出掛けていました。
 10月27日,木曜日。伯母がロスアンゼルスへ帰国しました。母が横浜駅まで見送りました。僕はこの日は長者町に出掛けていました。
 10月28日,金曜日。妹が卒業した養護学校の保護者だけでの昼食会があって,母が行きました。僕はこの日は本牧に出掛けています。
 10月29日,土曜日。妹が通っている施設の近辺で地区のお祭りがあり,母と妹が遊びに行きました。
 10月30日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は午後4時の開始でした。
 10月31日,月曜日。内分泌科の通院の日でした。
 前回の診察のときに,この日はいつもの採血と採尿だけでなく,4つの検査を受けるようにという指示が出ていて,各々の検査の予約が入っていました。このためにこの日はその予約時間に間に合うように到着しなければなりませんでしたから,普段の通院のときよりは早めに家を出て,病院に到着したのは午後11時25分くらいでした。最初の検査の予約時間が11時40分だったからです。
 いつものようにまず受付で保険証確認をしたのですが,このとき,病院の診察券の方にヒビが入っていると言われました。すぐに新しいものを作成することができるということでしたので,新しいものをもらい,それを機械に通して紙の予約票を入手しました。
コメント
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