第37回浦和記念。
メイショウヒコボシは発馬のときに頭を上げてしまい遅れました。押してハナを奪ったのはタマモホルン。ケイティブレイブが2番手。3番手にサミットストーンとストロングサウザー。5番手にクリソライト,6番手にハッピースプリントと続き,この後ろのダイヤノゲンセキまでは差のない追走で1周目の向正面を通過。正面に入るとタマモホルンがリードを3馬身ほどに広げ,クリソライトが外を上昇,2周目の向正面に入るところでは単独の3番手に。前半の1000mは61秒8のハイペース。
向正面の半ばではケイティブレイブがタマモホルンを交わして先頭に。追ったクリソライトが単独の2番手。サミットストーンとストロングサウザーはついていかれず,やや離れてその後ろにいたハッピースプリントがコーナーでは単独の3番手に。このときの各々の差が直線ではむしろ広がる形になり,優勝はケイティブレイブ。4馬身差の2着にクリソライト。さらに4馬身差の3着にハッピースプリント。
優勝したケイティブレイブは白山大賞典からの連勝で重賞3勝目。ここは前走より相手関係は強くなっていたと思いますが,難なく突破。2着馬と3着馬は大レースでも入着はできるクラスの馬なので,それ以上の力があるということは明白に。したがって大レースに手が届いてもおかしくない馬という評価をしていいのかもしれません。すんなりと先行できると力を発揮できるタイプのようなので,距離が短くなって前半のラップが速くなるのはマイナスに作用するような気はします。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の半兄に1999年の北海道スプリントカップ,2000年のガーネットステークス,黒船賞,群馬記念,かしわ記念,朱鷺大賞典,2001年のガーネットステークス,とちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ。

騎乗した武豊騎手は第26回,28回,31回に続き6年ぶりの浦和記念4勝目。管理している目野哲也調教師は浦和記念初勝利。
優越性に関する哲学的議論は,神Deusからの人格の剥奪という考え方と深く関係することは分かりました。『スピノザ哲学研究』の当該部分の論述も,これと大きく関係しています。
ところで,フーゴー・ボクセルが人間的属性を優越的にeminenter含んでいなければならないと認識していた神というのは,きっと哲学的な意味での神だけを意味するものではありません。たぶんボクセルはキリスト教,おそらくプロテスタントへの信仰は有していたと思われますから,この神は宗教的な意味での神でもあるわけです。このように宗教的概念としての神と哲学的概念としての優越性を関係させるならば,このことはもっと広く,聖書と理性の関係がどういうものでなければならないのかというスピノザの考え方とも関係してくると僕は思っています。
フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは書簡四十二で『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をきわめて正確に要約し,それに批判を加えました。その批判のひとつに,この本で述べられているのは,人間が畏敬することができないような神を作り上げることだというのがあります。そしてその理由として,神を運命に従属させているというスピノザに対するありがちな評価と,神の支配や神の摂理の余地がないので,神が人間に対して賞罰を与える余地が排除されているという評価を与えています。実際にはフェルトホイゼンは単に賞罰とだけいっていて,人間に対してのとはいっていませんが,事実上はそう主張していると解して差し支えないものと思います。
世界の美と完全性のためには幽霊が存在しなければならないと思って,そのことでスピノザに対して議論をふっかけたボクセルに比較するなら,フェルトホイゼンはよほど有能な人物であったと僕は考えます。しかしこれらの主張をみれば,そのフェルトホイゼンをしても,神は人間にとっての,あるいは人間だけのための神でなければならないと思っていたし,また人間的本性によって神的本性を解していたことが分かります。ですから前にもいったように,スピノザにとっては,神を運命に従属させているという批判を招いても,神から人格を奪取しておくことの方が重要だったのではないかと僕は推測するのです。
メイショウヒコボシは発馬のときに頭を上げてしまい遅れました。押してハナを奪ったのはタマモホルン。ケイティブレイブが2番手。3番手にサミットストーンとストロングサウザー。5番手にクリソライト,6番手にハッピースプリントと続き,この後ろのダイヤノゲンセキまでは差のない追走で1周目の向正面を通過。正面に入るとタマモホルンがリードを3馬身ほどに広げ,クリソライトが外を上昇,2周目の向正面に入るところでは単独の3番手に。前半の1000mは61秒8のハイペース。
向正面の半ばではケイティブレイブがタマモホルンを交わして先頭に。追ったクリソライトが単独の2番手。サミットストーンとストロングサウザーはついていかれず,やや離れてその後ろにいたハッピースプリントがコーナーでは単独の3番手に。このときの各々の差が直線ではむしろ広がる形になり,優勝はケイティブレイブ。4馬身差の2着にクリソライト。さらに4馬身差の3着にハッピースプリント。
優勝したケイティブレイブは白山大賞典からの連勝で重賞3勝目。ここは前走より相手関係は強くなっていたと思いますが,難なく突破。2着馬と3着馬は大レースでも入着はできるクラスの馬なので,それ以上の力があるということは明白に。したがって大レースに手が届いてもおかしくない馬という評価をしていいのかもしれません。すんなりと先行できると力を発揮できるタイプのようなので,距離が短くなって前半のラップが速くなるのはマイナスに作用するような気はします。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の半兄に1999年の北海道スプリントカップ,2000年のガーネットステークス,黒船賞,群馬記念,かしわ記念,朱鷺大賞典,2001年のガーネットステークス,とちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ。

騎乗した武豊騎手は第26回,28回,31回に続き6年ぶりの浦和記念4勝目。管理している目野哲也調教師は浦和記念初勝利。
優越性に関する哲学的議論は,神Deusからの人格の剥奪という考え方と深く関係することは分かりました。『スピノザ哲学研究』の当該部分の論述も,これと大きく関係しています。
ところで,フーゴー・ボクセルが人間的属性を優越的にeminenter含んでいなければならないと認識していた神というのは,きっと哲学的な意味での神だけを意味するものではありません。たぶんボクセルはキリスト教,おそらくプロテスタントへの信仰は有していたと思われますから,この神は宗教的な意味での神でもあるわけです。このように宗教的概念としての神と哲学的概念としての優越性を関係させるならば,このことはもっと広く,聖書と理性の関係がどういうものでなければならないのかというスピノザの考え方とも関係してくると僕は思っています。
フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは書簡四十二で『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をきわめて正確に要約し,それに批判を加えました。その批判のひとつに,この本で述べられているのは,人間が畏敬することができないような神を作り上げることだというのがあります。そしてその理由として,神を運命に従属させているというスピノザに対するありがちな評価と,神の支配や神の摂理の余地がないので,神が人間に対して賞罰を与える余地が排除されているという評価を与えています。実際にはフェルトホイゼンは単に賞罰とだけいっていて,人間に対してのとはいっていませんが,事実上はそう主張していると解して差し支えないものと思います。
世界の美と完全性のためには幽霊が存在しなければならないと思って,そのことでスピノザに対して議論をふっかけたボクセルに比較するなら,フェルトホイゼンはよほど有能な人物であったと僕は考えます。しかしこれらの主張をみれば,そのフェルトホイゼンをしても,神は人間にとっての,あるいは人間だけのための神でなければならないと思っていたし,また人間的本性によって神的本性を解していたことが分かります。ですから前にもいったように,スピノザにとっては,神を運命に従属させているという批判を招いても,神から人格を奪取しておくことの方が重要だったのではないかと僕は推測するのです。