私は力強くそう言ったが、それは精一杯の虚勢だった。何せ、私自身が不安になり始めていたのだから。だが、それを表に出すわけには行かない。こういう時こそ、踏ん張り時だ。私はそう自分に言い聞かせ、自分の分の飯を口に運んだ。やがて陽が山の向こうに落ち、辺りに藍色の宵がやって来た。……それから数日が過ぎた。ゆっくりだが、着実に間合いを詰めた我々が、沼の東端に辿り着くまでには、もう幾日もかからないだろう。丸太の浮島に掴まって、東の方を見詰めながら、私は茫然としていた。ここまで来てしまっては、私の虚勢も覇気を失ってしまう。そのことを認めざるをえなかった。ここ数日の二人の様子は、目に見えて不機嫌だった。口数も減り、気がつくと、時々二人が私を憎々しげに睨んでいることがある。私はその視線には気が付かない振りをしたり、ふと「何だ」と言ってみたりする。しかし分かっていた。もう猶予はほとんどない。せっせと手を動かしながら、私は考えた。今日か、明日か。いずれにせよ、何か手を打たなければいけないだろう。まだ全てが無駄骨だったと決まったわけではないが、どちらに転んでも、手を打っておいて損はない。ここまでくれば、もし一人で捜さなければならなくなったとしても、知れている。二人が手を組む前に、手を打つべきだろう。何としても、先手をだ。そこまで考えた時、自分はこのことに全てを賭け、注ぎ込んでいるのだから、失敗したならもうどうにもならないのだと気が付いて可笑しくなったが、そうは言ってもやはり自分が雇った二人にどうにかされるのは悔しく、受け入れられなかった。数奇な運命だかなんだか知らないが、最後の最後までそんなものに支配されてたまるものかと思った。それで、心が決まった。私は水中銃を構えながら、沼の中ほど目指して泳いだ。そして、大男が浮き上がってくるのを待ち、水面に頭が現れた瞬間を狙って、引き金を引いた。シャフトは真っ直ぐに大男のこめかみを貫いた。男は奇妙な声を上げて、すぐに絶命した。残るのは小男のみだ。私が大男を殺した事は、あと数秒もすれば分かるだろう。私は急いで岸に向かって泳いだ。小男も水中銃を持っているから、気をつけなければならなかった。小男はすぐに浮かび上がってきて、全てを悟ったが、その時には私は既に小男の水中銃の射程距離の圏外にいた。今度は小男の方が慌てる番だった。反対の岸に慌てて向かおうとして泳いでいた。逃がしてしまうのは明らかにまずいわけだったが、私にはもう、そのときには彼をどうしようという気持ちもなくなっていた。いずれにせよ、これで終りなのだ。金鱗の人魚に託した希望も、潰えてしまったのだ。そう思った。水漬しのじくじくとした草叢にしゃがみ込み、私はずっと動けずに、向こうに見えている広葉樹の黒々とした影を眺めていた。樹々の濡れたような影の上に、熟れたオレンジの皮のような空が見える。その色彩は、次第に赤さを増して、辺りを包み込もうとしていた。私は立ち上がった。失ったものは、失ってしまったままで、還ってくることはない。容易く生まれた無責任な希望は、実態を持たないままに消えてしまう。だから金鱗の人魚など、そもそも存在するはずもない。それは、人の心が生み出す、蜃気楼のようなものなのだ。そう思うことで、私はどこか救われる気がした。余りにも力を落としていたから、それ以上悪い気分にはなりようもなかった。いずれにしても、金もない上に、人も一人殺した私には、救いもない。私はゆっくりと歩き出した。でも、何処へ向かおう?答えは何処にもなかった。向かう場所など、いまさらどこにもなかったからだ。その時、ふと水の音を聞いて私は振り返った。樹々の黒い影の向こうに、広い沼が赤く見える。全てが一体に溶けて行くような景色。だが次の瞬間、私が見たのは、その沼の上に、赤い光の中でさえ鮮やかな金鱗の輝きが翻り、束の間揺れて、また水の中に消える光景だった。
最新の画像[もっと見る]
-
サーカス、見世物小屋を題材にはじまる物語 3年前
-
『平成怪奇小説傑作集3』 4年前
-
古井由吉『杳子・妻隠』 4年前
-
シャルル・バルバラ『赤い橋の殺人』 4年前
-
アンナ・カヴァン『草地は緑に輝いて』 4年前
-
『平成怪奇小説傑作集2』 4年前
-
『平成怪奇小説傑作集1』 4年前
-
ミゲル・デ・セルバンテス『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難(上・下)』 4年前
-
シャルル・バルバラ『蝶を飼う男』 4年前
-
ハイリンヒ・フォン・クライスト『チリの地震』 4年前
http://www.h3.dion.ne.jp/~saho6/migiwa/kinrinnoninngyo.htm
特に主人公が男を殺すシーンは不思議です。それまでストーリーに乗っかって生きていた主人公が急にストーリーから脱出し始めて、ついに主人公の後にストーリーがついていく。短い文章の中でそんな変化が起こるというのを初めて見ました。
ついでに云えば、前半は雨月物語の「夢応の鯉魚」を思い出しました。
ブラウザで、こうびっしり書かれている文章は、誰も、なかなか読もうとは思わないだろうなと思っていたので、嬉しいです。
実は、この話は、高校の頃に見た夢が元になっています。勿論、大幅に変えてはいますが、このシリーズで、実際に見た夢が元になっているのはこれだけです。
また、こうした書き方をしたのは、物語を一気に畳みかけたかったからです。雨月物語は、実は僕は読んだ事がありません(恥)。