最近、ちょっとブログの更新をしていない気がしますが、本を読んでいないわけではなく、今年に入ってからtwitterを平行してやっているため、そちらに「読了」と書いてしまうと、なんだかちょっと満足してしまって、こちらに長文をまとめるのをついさぼってしまうのです。結構たまってしまっているので、とりあえずは最近再読した本のタイトルと、ちょっとした感想を。
ヤン・ポトツキ「サラゴサ手稿」 (世界幻想文学大系/国書刊行会)
ポーランドの貴族ヤン・ポトツキによって、もともとはフランス語で書かれた小説だが、その原本であるフランス語版は一部が失われてしまっているため、現在ではポーランド語に翻訳された版でしかその全貌を覗うことができない、いわば「失われてしまった書」なのだが、そのポーランド語版も後の編者たちによって手が入っているらしく、未だに決定稿というものがないという、本の成立課程そのものが伝説めいた奇書。千夜一夜物語風の、東洋趣味の感じられる、入れ子構造になった物語で、夜明けごとに一つの章が終わる。原本では全部で66夜まで物語は続くのだが、邦訳は14夜までの抄訳。著者生前に刊行されたのが13夜までだから、ほぼそれに倣ったというたてまえになっている。一応この本を翻訳された工藤幸雄さんは全部を訳し終えているらしく、過去に何度も東京創元社から完全版の刊行予告があったが、結局いまだに出版されていない。最近では国書刊行会などから5千円ほどの本も普通に刊行されており、強気な値段にも関わらず本好きからは概ね好評で、それなりに売れているようだから、多少高い値段設定にしてもきっとある程度売れるはずだとは思うのだが、ここ数年はオオカミ少年的な刊行予告さえないし、訳者の工藤さんもとっくに亡くなっているから、もう諦めた方がいいのかもしれない……。
現在読める範囲内では、内容的には、簡単に言えば以下のようなもの。
そもそもこの書は、ある廃屋から発見された手記という体裁をとっている。手記の中で、主人公であるアルフォンスという勇敢な兵士が、宿の主人の忠告を振りきって、自らの勇敢さを頼み、ゾゼを首領とする盗賊一味が捕まって絞首刑にされて見せしめのためにそのまま吊るされているという峠を越えようとするが、その途中の宿で夜毎艷やかな、自分の遠縁にあたるというイスラムの女性二人にかどわかされ、朝がくると絞首刑にされた二体の死体(男)とともに横たわっているということを繰り返す。途中、出てくる登場人物たちによっていくつもの物語が紡がれるが、結局のところ、アルフォンスの行軍は一向に先へとは進まない……。
キリスト教者であるアルフォンスを誘惑するのがイスラムの美女たちであり、アルフォンスの首からかかっているロザリオを怖れ、なんとかして外させようとするということから、イスラムとクリスチャンとの争いという構図や、イスラムを邪教とみなす意図なども透けて見える。また、夜が明けると廃屋に寝ているというあたり、「雨月物語」の「浅茅が宿」などをちょっと思い出させるところがある。
この作品は映画化もされていて、割と評判がいいようなのだが、ぼくは観ていない。「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんによると、映画は最終夜まで描かれているということ。途中から入れ子構造が加速し、行き着くところまで行ったところで、急速に畳まれてゆく様が圧巻だとか。奇跡的に日本語字幕のDVDが出ているようなので、ぜひ観てみたいものだと思った。
現在読める範囲内では、内容的には、簡単に言えば以下のようなもの。
そもそもこの書は、ある廃屋から発見された手記という体裁をとっている。手記の中で、主人公であるアルフォンスという勇敢な兵士が、宿の主人の忠告を振りきって、自らの勇敢さを頼み、ゾゼを首領とする盗賊一味が捕まって絞首刑にされて見せしめのためにそのまま吊るされているという峠を越えようとするが、その途中の宿で夜毎艷やかな、自分の遠縁にあたるというイスラムの女性二人にかどわかされ、朝がくると絞首刑にされた二体の死体(男)とともに横たわっているということを繰り返す。途中、出てくる登場人物たちによっていくつもの物語が紡がれるが、結局のところ、アルフォンスの行軍は一向に先へとは進まない……。
キリスト教者であるアルフォンスを誘惑するのがイスラムの美女たちであり、アルフォンスの首からかかっているロザリオを怖れ、なんとかして外させようとするということから、イスラムとクリスチャンとの争いという構図や、イスラムを邪教とみなす意図なども透けて見える。また、夜が明けると廃屋に寝ているというあたり、「雨月物語」の「浅茅が宿」などをちょっと思い出させるところがある。
この作品は映画化もされていて、割と評判がいいようなのだが、ぼくは観ていない。「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんによると、映画は最終夜まで描かれているということ。途中から入れ子構造が加速し、行き着くところまで行ったところで、急速に畳まれてゆく様が圧巻だとか。奇跡的に日本語字幕のDVDが出ているようなので、ぜひ観てみたいものだと思った。
小田雅久仁「本にも雄と雌があります」 (新潮文庫/新潮社)
第三回twitter文学賞を受賞した作品。語り手である土井博が、祖父である深井與次郎の生涯と「幻書」について、息子の恵太郎に向かって饒舌に語りかけるというスタイルをとっている。作品中の主人公は與次郎だが、この「主人公が祖父の物語を息子に語る」というスタイルそのものが実は一つの仕掛けにもなっている。
「幻書」とは何か。本には実は性別があって、その雄本と雌本のあいだに、ごくたまに、この世に本来存在しないはずの本が生まれることがある。それを「幻書」というが、本来は存在しないはずの書物である。「幻書」は、放って置くとどこかへ飛び去っていってしまうのだが、象牙の蔵書印を押すことによって一時的な支配下に置くことができる。「幻書」が生まれるためには、膨大な蔵書が必要となる。そうして、幻書が生まれるほど本を愛した人の中には、その死後にボルネオのキナバル山にある「ラディナヘラ幻想図書館」の司書として登用される人もいる。象牙の蔵書印を押された幻書が集まり、巨大な白い象となって、主人を乗せてラディナヘラへと連れてゆくのである。ここには、ありとあらゆる書物が集められている。アリストテレスやグーテンベルグも、死後にはその図書館の司書として召され、そこで働いている。ちなみにこの作中では、人は死ぬと一冊の本になり、この世界の果ての書架へと飛んでゆき、背を「向こうに向けて」、配置されるとされている。そうしてこの世界の外側に存在する「誰か」に貸し出されるのを待っているのである。
「幻書」には予言の書も存在する。それを悪用した代表的人物としてヒトラーが挙げられている。また、「語られなかった物語」が幻書として生まれることもある。主人子の與次郎はずっと日記をつけているのだが、第二次大戦に従軍していた間だけはその日記が欠けている。與次郎は死ぬまで、自らその従軍していたときに何があったのかを語ろうとはしなかった。しかし、ないはずのその間の日記が、「幻書」として存在しているのである。その部分が、この小説のひとつの読みどころにもなっている。物語の最後に、與次郎のライバルの釈苦利が最初に手に入れた幻書こそが恵太郎の自伝であることが明かされ、全てが実は彼の手のひらの上で踊らされていたことであることが示唆されるが、さらにその先で仕掛けがあって、與次郎はさらに幼い頃、一冊の本幻書を断片的にではあるが、見ていたことが明かされる。そのタイトルこそが「本にだって雄と雌があります」――
全体の語り口は、町田康などにも通じるような、饒舌体ともいうべきスタイルで、読みながら何度も笑ってしまうのだが、語られる内容は結構重く、非常に読み応えがある。終盤にかけて物語が二転三転しながら、最後にピッタリと収まって物語が全貌を現してゆく様子は感動的だった。
「幻書」とは何か。本には実は性別があって、その雄本と雌本のあいだに、ごくたまに、この世に本来存在しないはずの本が生まれることがある。それを「幻書」というが、本来は存在しないはずの書物である。「幻書」は、放って置くとどこかへ飛び去っていってしまうのだが、象牙の蔵書印を押すことによって一時的な支配下に置くことができる。「幻書」が生まれるためには、膨大な蔵書が必要となる。そうして、幻書が生まれるほど本を愛した人の中には、その死後にボルネオのキナバル山にある「ラディナヘラ幻想図書館」の司書として登用される人もいる。象牙の蔵書印を押された幻書が集まり、巨大な白い象となって、主人を乗せてラディナヘラへと連れてゆくのである。ここには、ありとあらゆる書物が集められている。アリストテレスやグーテンベルグも、死後にはその図書館の司書として召され、そこで働いている。ちなみにこの作中では、人は死ぬと一冊の本になり、この世界の果ての書架へと飛んでゆき、背を「向こうに向けて」、配置されるとされている。そうしてこの世界の外側に存在する「誰か」に貸し出されるのを待っているのである。
「幻書」には予言の書も存在する。それを悪用した代表的人物としてヒトラーが挙げられている。また、「語られなかった物語」が幻書として生まれることもある。主人子の與次郎はずっと日記をつけているのだが、第二次大戦に従軍していた間だけはその日記が欠けている。與次郎は死ぬまで、自らその従軍していたときに何があったのかを語ろうとはしなかった。しかし、ないはずのその間の日記が、「幻書」として存在しているのである。その部分が、この小説のひとつの読みどころにもなっている。物語の最後に、與次郎のライバルの釈苦利が最初に手に入れた幻書こそが恵太郎の自伝であることが明かされ、全てが実は彼の手のひらの上で踊らされていたことであることが示唆されるが、さらにその先で仕掛けがあって、與次郎はさらに幼い頃、一冊の本幻書を断片的にではあるが、見ていたことが明かされる。そのタイトルこそが「本にだって雄と雌があります」――
全体の語り口は、町田康などにも通じるような、饒舌体ともいうべきスタイルで、読みながら何度も笑ってしまうのだが、語られる内容は結構重く、非常に読み応えがある。終盤にかけて物語が二転三転しながら、最後にピッタリと収まって物語が全貌を現してゆく様子は感動的だった。
野崎まど「小説家の作り方」 (メディアワークス文庫/アスキー・メディアワークス)
「この世でいちばん面白い小説」をめぐる物語。小説家の物実のもとに、「この世でいちばん面白い小説のアイデアを思いついたから、小説の書き方を教えて欲しい」と頼みにやってきたのは、5万冊もの小説を読んだという美人女子大学生。物語はやがて、思いもかけない展開を見せ、自我を持ったAIをめぐるSFになってゆく。この作品ですごいのは、というより野崎作品ではしばしばあることだが、完璧に近い芸術の破壊力。なんと、AIが書き上げた「この世でいちばん面白い小説には一歩届かない作品」でさえ、読んだ人間を変質してしまい、人としての姿を保てなくしてしまうのだ。ちょっと意味がわからないと思うが、読んでいるとなんとなく納得させられてしまう。
さらにすごいのは、実はこの作品、おなじメディアワークス文庫でそれまで出ていた
さらにすごいのは、実はこの作品、おなじメディアワークス文庫でそれまで出ていた
「[映]アムリタ」
「舞面真面とお面の女」
「死なない生徒殺人事件 〜識別組子とさまよえる不死〜」
「小説家の作り方」
「パーフェクトフレンド」
「舞面真面とお面の女」
「死なない生徒殺人事件 〜識別組子とさまよえる不死〜」
「小説家の作り方」
「パーフェクトフレンド」
と同じ時間軸の中にあって、他の四作とともに、この後に書かれた「2」というボリュームのある作品の前日譚となっているということ。それぞれが完全に独立した作品なので、まさかこんな芸当ができるとはと、予備知識が全くなかった分、非常に面白かった。まあ、ここで完全にネタバレしてしまいましたが(笑)。
久世光彦「一九三四年冬―乱歩」 (新潮文庫/新潮社)
話の骨格は、だいたい以下のようなもの。
昭和9年冬、乱歩は連載中の小説「悪霊」が暗礁に乗り上げたことで、そこから逃れるために麻布の「張ホテル」という、中国人の美青年が働く洋風ホテルに身を潜める。都会の中での失踪である。そのホテルには、探偵小説マニア(自力でバーナビー・ロスがエラリー・クイーンと同一人物であると推測するほど)の人妻ミセス・リーなどもいる。乱歩の部屋は202号だが、隣の201号は空き室にも関わらず、何かの気配がある。乱歩はその、どこか現実と非現実の狭間にあるようなホテルで、「梔子姫」というエログロの短編小説を執筆する。
乱歩のエッセイなどを読み込んで書かれた作品のようで、乱歩ファンには面白いのではないだろうか。乱歩の造形が、どことなくチャーミング。また、乱歩がシコシコと書いていた作中作の「梔子姫」という短編は結構な奇想で、文体は乱歩らしいといえば言えるのかもしれないが、発想的には、どちらかといえば山田風太郎っぽい気もした。そういえば、風太郎は乱歩を師のように仰いでいたはず。もちろん、作中作の「梔子姫」という作品は、乱歩にはない。
小説自体は、「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」の乱歩の言葉を反映してか、現実と夢のあわいにあるものになっていて、明確な解決や結末はない。物語全体に漂う夢幻に身を委ねるようにして楽しむ本だろうと思う。文体はとても心地よい。
昭和9年冬、乱歩は連載中の小説「悪霊」が暗礁に乗り上げたことで、そこから逃れるために麻布の「張ホテル」という、中国人の美青年が働く洋風ホテルに身を潜める。都会の中での失踪である。そのホテルには、探偵小説マニア(自力でバーナビー・ロスがエラリー・クイーンと同一人物であると推測するほど)の人妻ミセス・リーなどもいる。乱歩の部屋は202号だが、隣の201号は空き室にも関わらず、何かの気配がある。乱歩はその、どこか現実と非現実の狭間にあるようなホテルで、「梔子姫」というエログロの短編小説を執筆する。
乱歩のエッセイなどを読み込んで書かれた作品のようで、乱歩ファンには面白いのではないだろうか。乱歩の造形が、どことなくチャーミング。また、乱歩がシコシコと書いていた作中作の「梔子姫」という短編は結構な奇想で、文体は乱歩らしいといえば言えるのかもしれないが、発想的には、どちらかといえば山田風太郎っぽい気もした。そういえば、風太郎は乱歩を師のように仰いでいたはず。もちろん、作中作の「梔子姫」という作品は、乱歩にはない。
小説自体は、「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」の乱歩の言葉を反映してか、現実と夢のあわいにあるものになっていて、明確な解決や結末はない。物語全体に漂う夢幻に身を委ねるようにして楽しむ本だろうと思う。文体はとても心地よい。
映画版は、翻訳されていない部分の『サラゴサ』の魅力が出ている作品で、原作の後半部分の面白さを想像させるものでした。
あ、良かったら『サラゴサ』の映画のDVDお貸ししますよ。
じゃあお言葉に甘えちゃおうかな。
ありがとうございます。お願いします。
サラゴサ手稿は、理想的な奇書ですよね。内容的にも申し分ないし、伝説的性格まで纏ってて。タイトルからして、いかにも怪しげじゃないですか。どこかから完全版、出ませんかねえ。
それでは、今度会うときにDVD持っていきますね。
別に他の人の訳でもいいわけですし。
ポーランド語を訳せる、やってみようと思う方がいらっしゃりさえすれば……。著作権はもうフリーでしょうし……。
それはそうと、すみません、お手数をお掛けしますが、よろしくお願します。楽しみにしてます。
本当はまだamazonにも在庫もあるようなので、買えば良いんでしょうが、あまり映画のDVDを買う習慣がないもので、迷ってたところでした。お借りして、欲しくなったら買おうと思います。