般若心経は空を説いているのではない。
もともと無いものから有は生じない。
あるから生じてくるものである。
‘ある’というのは何であるのか?
何があって有しているのかといえば、エネルギーである。
エネルギーがあるから生じてくるもので、
そのエネルギーが何であるのかというのは、
「自由」というものである。
その自由によってすべての物語となっているもので、
エネルギーの自由によって有している世界である。
だから、
無から生じてくるのではなく、もともと有から生じてくるものである。
エネルギーがあるから生じているという事が真実である。
それは、陽炎のように捉えられていて、
見えもしないし触れるというものでも無いが、有ると感じられるのである。
その「有」としてのエネルギーの自由を説いているのが心経である。
幻という錯覚を説いているのではなく、実体を説いているもので、
自分という実態がありながら、それを幻と見てしまう為に不可解となるのである。
泡沫ではあるが実態は実体である。
もともと無から有は生じないのが道理である。
般若心経はそういうことを訓え説いているのである。
執着というのは何であるか?
動いているから移り行くものである。
動いていなければ変化は無く刺激も無い。
時間も空間も無く永遠である。執着も無い。
移り行くものに執着するために理解が得られなくなるのである。
永遠であるものに執着すれば理である。
それが、エネルギーであるものがエネルギーに帰すという事であろうか、
変化という無常にしてあるものの常住に帰るということである。
すべてが「有」としてあるエネルギーの自由に帰すという事である。
人たるものの心の執着である。正しい執着である。
人もまたエネルギーの自由によるものであるためである。
始まりから始まりに返る。エネルギーの本質、自由である。
無常にして常住というゆらぎ、エネルギーの有である。その自由。
もともと無いものから有は生じない。
あるから生じてくるものである。
‘ある’というのは何であるのか?
何があって有しているのかといえば、エネルギーである。
エネルギーがあるから生じてくるもので、
そのエネルギーが何であるのかというのは、
「自由」というものである。
その自由によってすべての物語となっているもので、
エネルギーの自由によって有している世界である。
だから、
無から生じてくるのではなく、もともと有から生じてくるものである。
エネルギーがあるから生じているという事が真実である。
それは、陽炎のように捉えられていて、
見えもしないし触れるというものでも無いが、有ると感じられるのである。
その「有」としてのエネルギーの自由を説いているのが心経である。
幻という錯覚を説いているのではなく、実体を説いているもので、
自分という実態がありながら、それを幻と見てしまう為に不可解となるのである。
泡沫ではあるが実態は実体である。
もともと無から有は生じないのが道理である。
般若心経はそういうことを訓え説いているのである。
執着というのは何であるか?
動いているから移り行くものである。
動いていなければ変化は無く刺激も無い。
時間も空間も無く永遠である。執着も無い。
移り行くものに執着するために理解が得られなくなるのである。
永遠であるものに執着すれば理である。
それが、エネルギーであるものがエネルギーに帰すという事であろうか、
変化という無常にしてあるものの常住に帰るということである。
すべてが「有」としてあるエネルギーの自由に帰すという事である。
人たるものの心の執着である。正しい執着である。
人もまたエネルギーの自由によるものであるためである。
始まりから始まりに返る。エネルギーの本質、自由である。
無常にして常住というゆらぎ、エネルギーの有である。その自由。