つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心経が説くもの

2014-09-17 | Weblog
般若心経は空を説いているのではない。
もともと無いものから有は生じない。
あるから生じてくるものである。
‘ある’というのは何であるのか?
何があって有しているのかといえば、エネルギーである。
エネルギーがあるから生じてくるもので、
そのエネルギーが何であるのかというのは、
「自由」というものである。
その自由によってすべての物語となっているもので、
エネルギーの自由によって有している世界である。
だから、
無から生じてくるのではなく、もともと有から生じてくるものである。
エネルギーがあるから生じているという事が真実である。
それは、陽炎のように捉えられていて、
見えもしないし触れるというものでも無いが、有ると感じられるのである。
その「有」としてのエネルギーの自由を説いているのが心経である。
幻という錯覚を説いているのではなく、実体を説いているもので、
自分という実態がありながら、それを幻と見てしまう為に不可解となるのである。
泡沫ではあるが実態は実体である。
もともと無から有は生じないのが道理である。
般若心経はそういうことを訓え説いているのである。

執着というのは何であるか?
動いているから移り行くものである。
動いていなければ変化は無く刺激も無い。
時間も空間も無く永遠である。執着も無い。
移り行くものに執着するために理解が得られなくなるのである。
永遠であるものに執着すれば理である。
それが、エネルギーであるものがエネルギーに帰すという事であろうか、
変化という無常にしてあるものの常住に帰るということである。
すべてが「有」としてあるエネルギーの自由に帰すという事である。
人たるものの心の執着である。正しい執着である。
人もまたエネルギーの自由によるものであるためである。

始まりから始まりに返る。エネルギーの本質、自由である。
無常にして常住というゆらぎ、エネルギーの有である。その自由。
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晩年

2014-09-15 | Weblog
あの人も死んだ。この人も死んだんだよ、つい最近。
と、お茶のみ友達が茶飲み時間に黄昏て話す。
茶飲み友達はみんな還暦を過ぎていて、
或は、七十を数年過ぎた者もいる。
人生それぞれに生きてきて、学あるなしに関わらず、
経験知をもって語りべる。
それはそれは為になる。
そんな茶飲み友達は、風貌レトロにしてなかなか洒落ている。

これを食え、あれも飲め、体が若返るからと
互いを労り施し合うも、若かりしときの経験知から来ているのだろう。
節々が松の枝のような手と、深く刻まれた皺の数々。
目は優しくしてただただ施すことばかり。

あとわずかな人生を大事に生きていた。



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有無相通じるという自由

2014-09-13 | Weblog
絶対善ということはどういうことであるか?
それは、
‘善悪が無い為’にという事にある。

幸せということはどういうことであるか?
それは、
‘幸不幸思わない’という事にある。

無ということはどういうことであるか?
それは、
‘応えられない’という事にある。

不ではなく、不可ということにある。
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希なる望みという

2014-09-13 | Weblog
私は余命いくばくも無くというところにいるのだろうが、
未だ真に智慧を得ていないために、この期に及んでという様であるが、
あがきに徹してという感じで、
栄光にして覚ることに専念、日々、身の垢を落としている。
何も持たない、何ものも無いという様に呈して、
執着がこれほどまでに身をやつれさすものかを知るに、
知恵一つにしてすべてを徳として持つものである。
識者であるとするものにも何ら臆せるものではない力に守られる。
それは、ただ一つ智慧から来る力であり守りであると知る。
その知恵は、自然にして然りであり、ただそこに学び得るものである。
難しいことは数字にして難解こと極まるが、単純にをすべてが髣髴していて、
心を澄ませば知らなくても知れてくるものである。
それは、鳥が羽が無ければ飛べないように、
羽が無くても空を飛ぶ夢の中の自分のようにあるものである。
それをつかみ取るには、無理とする思う心になく、
無理とせず智慧を宿すところに得られるものである。為す術を知る。
武空術とは、無知と戦うための武、自分との「武」である。
自由自在に空を舞う術。それはただただ心の中にあり、顕示顕現するも
知恵一つの力である。

邪悪なものには、決して触ることも見ることすらできない力であり、
時空の及ばない力である。

耳なし芳一が、心経を書き忘れられた耳を取られたように、
般若心経の智慧の力が物語る。書かれてさへすれば、取られることも無かったように、その命が物語る。

般若の心を正しく摩け。それが唯一、手っ取り早く智れる術である。
先ずそこからである。すれば、すぐにも武術上達の域となる。
だから、不思議な力である。希望の力である。
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仕合わせな人生

2014-09-12 | Weblog
自分というものがいて、
伴侶、つまり、妻が先立つことは不幸である。
子が先立つことは不幸である。
家族が先立つことは不幸である。
しかしながら、
自分がまた、皆よりいち早く先立つことも不幸である。
その様に見て、
善きに暮らすことは仕合わせなこと。
仕合わせというのは、
自分の為にあることだから、
自分が意図しなければめぐり会うことは無いものである。
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同様

2014-09-11 | Weblog
自分の心に無慈悲があるように、
法則も無慈悲なものである。
自分の心に慈悲があるように、
法則も慈悲がある。
なぜだろうと思う心があるように、
法則も不確定なものである。
自分が思うように、法則も自由。
自分を知れば自然も知れてくる。
自分の心のように自然は自由である。
自然によって作られたものであるために、
何でもあるし何にもない。
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・・・

2014-09-10 | Weblog
あの世がこの世と少しも変わらない世界であるために、
あの世での自分は、自分が死んだことがわからない。
それは、眠っている時の夢を見ている自分が、夢を見ているとは思わないで
夢の世界にいるのと同じ様である。
夢の中の自分も現実の自分と少しも変わらないために、
夢の自分であると気が付くことがないのである。
あの世、つまり、死後の世界は、
夢と同じ記憶の現象の世界となっているのである。

死後の世界は記憶の現象の世界である。夢の世界と同じ世界である。
記憶がエネルギーであるために、老衰ということはなく、
常に力のみなぎった姿となっていく。
だから、若い男女の姿となり、
性愛の行為の世界となっている。それが絶対善となっているために、
互いを美しいものとして現象して愛し合う。
死後の世界は男女の性行為の世界となっているのである。
夢の世界と死後の世界は同じ世界であるために、夢の世界では
毎日性行為がされている。
だから、
男女とも朝方には性器が充血、興奮状態になっているのである。
人は毎日必ず夢を見ている。
夢を思い出すことができるのは覚醒時の夢であるために思い出すことができるもので、
完全熟睡となれば、夢を見ていてもまったく反応を示すことがないのである。
死後の世界が反応を示すことがないのと同じである。それは、記憶が現象されてしまい、
一切残らないためである。
死後の世界が
性行為の世界となっているために、人はまた輪廻してくる。
その行為の縁によって生死を繰り返すのである。
生死を繰り返すのはただただ苦しみである。そう悟って、
その行為の縁を絶って、生死のない安楽の地に生まれるのである。
飲食のいらない体となって、永遠の快楽の地に生じることができるのである。
極楽浄土という。
生命の目的である。生きる目的である。輪廻の究極の目的である。
生きていくということは、死後の世界のためである。
死後の世界を極楽浄土として、二度と生まれてこないためである。
生死を繰り返さないためである。
ゆえに、
人は、死ぬために生まれてくる。
生きるということが、死を絶対条件としているのはそのためである。
法の世界、永遠の世界を安楽の世界とするためである。



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死後のこと

2014-09-09 | Weblog
死というのは、
肉体の死であって生命の死ではない。
今生の肉体は今生限りであるために、
死んでしまえば消滅してしまうが、生命そのものは
今生限りということはなく連綿である。
何故なら、生命は是によって作られているもので、
是が円運動であり、
無くなることのないエネルギーとなっているためである。
是も生命も同じエネルギーである。
そのために、無くなることのない生命となっている。
つまり、生命には死が無く永遠である。

エネルギーは廻る変化によって刺激を受け、
その刺激に対応して現象となっている。
肉体はその刺激に対応したかたちである。
そのために、無常であり生滅を繰り返す。
うたかたに過ぎ去るものである。が、そのうたかたの間が要である。

生命は、肉体を介してのみ進化するもので、
肉体経験が生命の向上に繋がるもので、ゆえに、
養育の場となっているのがこの世である。うたかたの間である。

肉体の死が今生の別れである。
その肉体経験が記憶となり、生命の質を作る元となっている。
生命が連綿であるために、幾多の人生経験の記憶が統一され心となる。
生命そのものの質となっていくのである。
幾多となく生まれ変わって今の自分がいるのである。
その自分の性格が、過去の人生記憶の統一された姿である。
いまだ下品下生にあるとするなら、
過去の人生経験が少しも反省されることがなく、
正しく反映されてこなかったためである。

肉体の死によってあの世となっていくが、
あの世はこの世の記憶の現象世界であるために、
肉体がなくなっていても、記憶の肉体となって、
この世と少しも変わらない世界となっている。・・・
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わかる?かなかな

2014-09-08 | Weblog
どんなに鍛えても年とともに老いる。
肉体はやつれる。
花の命の短いように、人の一生も同じにして、まことに見て取れる。
美しい時は一時で、どんなに美しく咲いても枯れていく。
みすぼらしくなるものである。
どんなに肉体を鍛えても寿命は変えられるものではない。
衰えて死んでいくものである。
だからと言って何もしないというのは浅はかである。
無常の中にあっての常住であるから。
それは、精神が衰えの無いものであるために。

カナカナカナと切なく聴こえて蝉が鳴く。
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動向

2014-09-07 | Weblog
人もまた動物である。
だから、動くものとして生きている。
そのために、片時も止まることなく動いている。
眠っていても、絶えず内臓は動いているのである。
寝返りも頻繁。
目覚めていても常に流動的、じっとしていることはできないのが動物であり生命である。
その動き、止まってしまうと肉体の死となってしまう。
すると、生命の向上もなくなる。
人の生命は肉体をを介してのみ変化できるのであり、肉体を持たなければ、
生命の進化向上はない。
この世にあることがどれほど意義のあることか知るべきである。
とてもとても大切な時間なのである。そうすれば、
人生というのは、実に短く思われるものである。焦りさへ感じる。
だから、人生夜にたとえて、三つの区分のうちの一つでも目覚めてあれ。
いつも眠っていては死に繋がってしまう。
死んでしまえば魂の向上することはできなくなってしまう。
品性下劣なままとなってしまう。すると、
いつも下等な動物として輪廻する。
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