つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

・・・

2014-09-10 | Weblog
あの世がこの世と少しも変わらない世界であるために、
あの世での自分は、自分が死んだことがわからない。
それは、眠っている時の夢を見ている自分が、夢を見ているとは思わないで
夢の世界にいるのと同じ様である。
夢の中の自分も現実の自分と少しも変わらないために、
夢の自分であると気が付くことがないのである。
あの世、つまり、死後の世界は、
夢と同じ記憶の現象の世界となっているのである。

死後の世界は記憶の現象の世界である。夢の世界と同じ世界である。
記憶がエネルギーであるために、老衰ということはなく、
常に力のみなぎった姿となっていく。
だから、若い男女の姿となり、
性愛の行為の世界となっている。それが絶対善となっているために、
互いを美しいものとして現象して愛し合う。
死後の世界は男女の性行為の世界となっているのである。
夢の世界と死後の世界は同じ世界であるために、夢の世界では
毎日性行為がされている。
だから、
男女とも朝方には性器が充血、興奮状態になっているのである。
人は毎日必ず夢を見ている。
夢を思い出すことができるのは覚醒時の夢であるために思い出すことができるもので、
完全熟睡となれば、夢を見ていてもまったく反応を示すことがないのである。
死後の世界が反応を示すことがないのと同じである。それは、記憶が現象されてしまい、
一切残らないためである。
死後の世界が
性行為の世界となっているために、人はまた輪廻してくる。
その行為の縁によって生死を繰り返すのである。
生死を繰り返すのはただただ苦しみである。そう悟って、
その行為の縁を絶って、生死のない安楽の地に生まれるのである。
飲食のいらない体となって、永遠の快楽の地に生じることができるのである。
極楽浄土という。
生命の目的である。生きる目的である。輪廻の究極の目的である。
生きていくということは、死後の世界のためである。
死後の世界を極楽浄土として、二度と生まれてこないためである。
生死を繰り返さないためである。
ゆえに、
人は、死ぬために生まれてくる。
生きるということが、死を絶対条件としているのはそのためである。
法の世界、永遠の世界を安楽の世界とするためである。



コメント
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