つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

般若心経の無を解く

2014-09-23 | Weblog
般若心経で説く「無」は「ない」ではなく、
「無くならない」と訳していかなければ正しく解することができない。
すべてが無くならないと訳されていけば、正しく真実が知れてくる、見えてくる。
そうすれば、
心経によって悟りは開かれていく。

過ちは無知であるが故に起こり、だから、
無知をなくしていくことが
過ちをなくしていくことにつながっていくことがわかる。

日々過ぎていくことによって経験を積み、その経験によって分別がついてくる。
良いとか悪いとか、損とか得とか、自分に好ましいもの快いものが選ばれてく。
これを為すことによってどのようなことになるのか、その過程と果がどのようにもつれ合って
最終の果となるのか、気配りが左右する。
気遣いというのは心配である。
いかに思いが遣られて快くするかである。
それは、日々の繰り返される同じような物事に学ぶ。
同じ様なというのは、その意味合いを理解しなければならない。
それは、あなたと私は同じ人間である。でも、全く別人であるという事。
あなたと私は同じ仕草で生きているが、あなたと私は違った仕草で暮らしているという事。

他に様々が絡み合い繋がりあっているものであるために、
自他共に一様であると知れば、ただ己をもってして他を見れるものである。

日々過ぎていくその経験は、無駄にしてあるものではなく、
毎日同じことを繰り返していくことが何の意味のあることなのか、
無くならないものであると知れれば理解できてくるものである。
移り変わっていくものであることから常住を知ることができるなら、
善も悪も無記にして、善にあることの自由を知ることができるものである。
誰に教わるものでもなく、ただ自然が師となり訓えられるものである。
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