つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

究めるということ

2013-09-28 | Weblog
何の為に生きるかといえば、死ぬために生きると答う。
それは、人は死を絶対条件として生まれてくるためである。
不老不死というのは肉体にはない。
無常なる肉体を介して、心(生命・魂)がいろいろ覚り向上するためである。その向上は浄化にある。
どんなに科学が発達しても、肉体の不老不死は叶わない。多少の延命はできても多少である。
それは、無常という法則の性質にあるためで、廻り行くものという変化にあるためである。
円運動となっているためである。その運動による変化が生死となって繰り返していて、その変化が常住となっている。
是という永遠の動き、万物の発祥の基となっている。だから、無常にして常住となって他に無い唯一という
法則であるのが宇宙である。生じては滅するという刹那的繰り返しである。
そこに時間があるとかないとかは幻の如くというものである。

廻るという変化に刺激を受けて、その刺激に様々に反応して、あるべきエネルギーとして形作る。
だから、その場に適したものとなって存在となっている。
場に応じて生きていく容となっている。その姿は応じていく為の様々な能力(智恵)を身に付けていく。
臨機応変、エネルギーの自由というものである。その自由が浄化という本質である。
自由であるために、そこには何の理由もない、目的も無い、ただそういうものであったというすべてである。
エネルギーそのものの本質は自由であるために、個々、目的を持つ、目的がある、とするのも自由であるが、
ただまったりとあるというだけである。

「私が思った」という心は法と同じエネルギーである。だから、心には死がない。
エネルギーが変化に対応して形作った肉体、それを介して成長、向上、という進化する。その進化が浄化という
法の自由にある。浄化が法の質、自由となっているために、
肉体を介して、その様々な刺激、情報に正しく対応(浄化)していくことによって心がみがかれていく。
その与えられた肉体の刹那的な時間をもって、一進一退、試行錯誤、心を育てるのである。
なんど生まれ変わってのことであろうか?
一つの一生を無知から始まり、どれだけ覚り、また次の一生につなげていくか、心の育成が浄化に繋がっていく。
そうしてある人生、菩提となって、生死の繰り返しという輪廻を離れて、常住である安楽に宿る。
常住であるためにそこには変化がない。だから時間も無い空間も無い、永遠である。自由があるだけである。心の自由な世界である。
外部からの刺激を受けて、反応した一つの生命エネルギーの本質に返る過程である。

ひとつの人生は、正しく浄化することにある。一つ一つ日々行う人の仕種が浄化となっているのである。が、
その一つ一つの仕種が間違った浄化の行為となっていれば、
その縁によって間違った世界が繰り広げられる。間違った世界というのはひとえに地獄のことである。
死というのは肉体の無くなった心の世界である。心の記憶による世界が死後の世界であるために、その心の間違いで
世界が作られてしまえば、それはまさに地獄となっている。だから、人は死ぬために生まれるという。死後の世界を地獄の世界としないためである。
心の世界には、時間も空間も無い為に永遠となる。つまり、地獄が作られれば永遠に苦しむ世界で暮らすことになる。もし、縁があって、再びこの世に生じてくれば
子供の動きとなって無知となっている。死後は時間空間が無い為に、再び生まれてきた時は、前世との間に時間の差は無い。死後の世界で何万年いたとしても、
生まれた時は前世との時間の差は無いのである。瞬時と感じる。
心は以前より培われてきた質にあるために、成長するにつれ性格が現れてくる。
その性格が生きていく過程で、どう変化していくかである。受ける刺激に対して正しく思い対応されていけば、正しい浄化となってよく性格も変わっていくのであるが・。

往々にして人は心違いをして生きる。

仏になった人は言う。善いことをしなさいと。これは真実である。ひとえに自分の為であると。

人は死ぬために生まれ、ある一生涯で悟ることができれば、再び生じるための行為を離れて
二度とという繰り返しの無い安楽な世界となる。死して、心の自由な世界に安住する。

人は死ぬために生まれる。それも、二度と生れないとするためにである。心に死がないためである。
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