つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

天才

2013-09-14 | Weblog
道理に学び創始者となる。
だから、師が自然である。
誰からという人に教わったものではない。
経験から窮めて奥義に達する。
自然には秘密があるものだ。
その秘密を知るのは、自ら携わった経験、試行錯誤で得たコツ、智恵とでも言おうか、
その智の恵みは自分だけにしか判断できない。
人に教えて伝えられるものではなく、ただ曖昧に授けられるだけ。曖昧を正しく理解するのは、
その人の能力。だから、コツは人それぞれに違い味がある。その味の違いは優劣ではなく資質。
資質は、魂の長い長い繋がりにより、どう分類統一したかの差になる。
是をみて、何をどう繰り返したか、して、それが浄化となっていることに気が付いたかである。
もし、これらに正しく気が付いていったものには、心が素直に反応して、随意筋のように的確に動く。
意識に判断できないものが無くなるのである。
自分(肉体)というものが、どうしてそうなのかということは思わなくとも理解できるのであり、肉体がそう動くのである。

人というのも自然の産物である。だから、法則そのものを本来持っている。
その秘密を探り当てて、考えるという人知では計り知れない能力を持っている。
法の示し申すという力となれるものである。
ある道に通ずる天才である。
東西南北それぞれに守護する神がいるように、して、その頂点に如来がいるように、
究めて窮めて極めて、人もまた神となれるものである。釈迦のように。

卓越した能力があったわけではない。悠久の時を経て、生きてきた魂(生命)の向上によって
是を知り、知恵を得て身に付け、その質、法の質と適ったものである。だから、
誰でも成れるものであると菩薩は説いている。
釈迦の時代には知らなかったために、釈迦の説いた修業を行じ無いものにはけっして悟りが開けないものであるとして、
修行法が説かれていった。それには、
強靭な肉体と精神を宿せないものには無縁であった。が、
釈迦の弟子として修行し、観音と呼ばれるようになった人が、死後、その世界から、
同じく修行している僧に、修行が縁となって現れ、法則が語られ説明された。それは、
一切の苦行難行をせずとも、また、信仰がなくとも、人は悟れるものであることを訓えたものである。
それが、般若心経である。観自在菩薩の啓示である。死後の世界というのは、法則の絶対世界である。
その世界からの語りであるために、真実嘘の無いものとなっている。
ただ、読み誤るとまったくの効力を成さないものとなるために、
くれぐれも正しく読み解いて下さることを願って、序文として開経偈が説かれているものである。
それは、心経の文字に惑わされないようにということであり、心のあり方によると説かれている。
コメント
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