つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

お互いに

2013-09-15 | Weblog
私たちは共存で生きている。
単独で存在しているものでは無い為に、互いに協調性が必要となっている。
生きていく、生きていかねばならないという目標である。
生きとし生けるもの皆同じである。

あらゆる生命は法によって作られたものであるために、すべてが法の支配下にある。
法に逆らって生きていくことはできない。その法には、善いとか悪いとかという人間が考えるような善悪は無い。
ただ円運動という質をもって廻り行くものであるために、少しも変わらないものとなっている。
廻り行くという変化が時間と空間を作っているもので、変化の無いところには時間も空間も存在しない。
法が少しも変わらないものであるために、法には時間も空間も存在しない。
廻り行く変化の中で、それは進化となって移り変わっていくが、円運動であるために、その変化、進化も過程の中においてであって、
たどり着くのはゼロとなっている。それを浄化という
不生不滅、不垢不浄、不増不減、何も変わらないものである。ただそこに漫然と「ある」というもの、
それがエネルギーである。エネルギーの法則である。これが宇宙である。
熱量をもって回転、高速となり
膨張、して収縮、のみ込まれ吐き出されてを繰り返す。廻るのである。時間と空間が生じ、ゼロの容となっている。
その容を、うつろで中が膨らんでいるものという。
だから、私たちは、うつろな虚ろな空ろな中でのある物語である。そこから抜け出していくことはできない。
なぜなら、法によって作られているからである。法を超えてしまうことはできないのである。たとえて、
超えてしまったとしたら、存在とならなくなるためである。

移り行く悠久の時の中で、ほんの一時の物語であれど、エネルギーの謎解きをして、ほとんど未知の秘密を探る。
廻り行く時の中で、時は流れてもなく、人がそう感じているだけであると、ただ漫然とあることを知る。

人間の科学より千年も万年も進んだ技術を持つ知的生命体は、
争えば、いや、争いにもならないほどの技術があるために、侵略するのはいとも簡単だろう。
人類が誕生してから、それが守られている?のは、知能が優れるものは一様に平和主義者であることが知れる。
人が、国土をめぐって侵略をしていった歴史をみれば、進化の過程において他の生命体もまた同じである。が、
知的になればなるほど法を知り、皆共に生きているという共存共栄を理解、協調性に富んでいく。
まだ見ぬもの、見えぬものだからと言って意に遭わないと思ってはならない。それぞれ一長一短あれど、それは、接し方による。
きたないもの?きれいなもの?があるのも、どちらも長短所となるものである。なぜあるのか?を思い、
どう接するか、どう活かすかである。単に排除では道理に反する。それは野蛮な行為で、野蛮な行為は必ず自分に不利に返ってくるものである。
知能はそれを知り、共存を理解する。
コメント
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